2020年2月23日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 マタイによる福音書12章22〜32
●説教 「聖霊と悪霊」

 
    イエスのわざ
 
 本日の聖書箇所では、悪霊という言葉と聖霊という言葉が出てきます。このような言葉が出てきますと、一般の方では、おそらく「悪霊」という言葉のほうに反応される方が多いのではないかと思います。悪霊が取りつくというと、なにか不穏な感じがいたしますし、自分は大丈夫だろうかなどと思うのではないでしょうか。神社の主要な仕事の一つが、お祓いであるということも、やはり穢れであるとか良くないものが人間に取りつくことを警戒する心理が表れていると思います。
 イエスさまのところに、悪霊に取りつかれて目が見えず口も利けない人が運ばれてきた。そしてイエスさまが、その人を癒され、その人はものが言え、口が利けるようになりました。それを見ていた群衆は、皆驚いて「この人はダビデの子ではないだろうか?」と言ったと書かれています。この「驚いた」という言葉は、原文のギリシャ語では「びっくり仰天した」とでも訳すべき、たいへん強く驚いたという言葉が使われています。また、「ダビデの子」という言葉は、キリスト、すなわち神が旧約聖書で約束しておられた救い主のことを指します。ですから群衆は、イエスさまのすばらしい奇跡を見て、びっくり仰天し、「もしかして、この人こそ神が送られた救い主ではないだろうか?」と言ったということになります。イエスさまに、神の働きを見たんです。
 ところが逆に、イエスさまを通してそんなにすばらしいことが起こったのに、それを認めないばかりかケチを付けた人たちがいました。それがファリサイ派の人々でした。彼らは、この出来事は神のなさった出来事などではなく、「悪霊の頭ベルゼブルの力によって、悪霊を追い出しているのだ」ということを言ったんです。神さまではなくて、悪霊だと。聖霊の働きではなく、悪霊の働きであると言うんです。
 マタイによる福音書も、12章に入ってからファリサイ派の人々は、安息日の戒律をめぐって、イエスさまを非難するようになりました。そればかりか、イエスさまを死刑にする相談を始めたのでした。そういう彼らですから、これはもうイエスさまに対して、完全に偏見をもって見ているわけです。
 
    悪霊と聖霊
 
 聖霊と悪霊では180度違います。
 まず、28節の「神の霊」の霊、31節の「霊」、それから32節の「聖霊」の「霊」という言葉ですが、これはギリシャ語では「プニューマ」という言葉になります。そしてそのプニューマという言葉は、「風」という意味の言葉でもあります。これは霊の性質をよく表しています。つまり、風は目には見えませんが、カーテンが揺れたり、木の葉が揺れたりすることによって風が吹いていることがわかるように、霊は目には見えませんが、聖霊が働いた結果起きる出来事によって、聖霊の存在がわかるということです。
 今私は、聖霊は目に見えないと申しましたが、中には「ペンテコステの時には、弟子たちの上に『炎のような舌』が現れ、人の目に見えたではないか?」と思われる方もいるかもしれません。しかしそれは、ペンテコステの時にたしかに聖霊が降って教会が誕生したということをはっきりさせるために、あえて神さまが目に見えるしるしを与えてくださったと考えられます。だから本当は見えないんです。しかし、その働きによって聖霊がわかる。
 考えてみますと、人の目には見えないが、存在するものというのは世の中にたくさんありますね。聖霊の霊という言葉である風もそうですし、つまり空気、ほかにはこの空間であるとか、重力、電波、時間といった物理学的なものもあります。そして、「愛」というものがあります。
 愛。果たして本当の愛は存在するのか?と疑問に思われる方もいることでしょう。しかし存在するというのが聖書です。それがイエス・キリストにおいて現れた、神の愛であると。ですから、イエスさまのなさっていることは、神の愛のしるしに他なりません。しかしそれをファリサイ派の人々は、悪霊の頭の力によって、悪霊を追い出しているのだと言いました。
 
    悪霊の頭
 
 ファリサイ派の人々は言いました。「悪霊の頭であるベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と。
 それを聞くと、ベルゼブルという名前の悪霊がいるんだなあ、と思ってしまいますが、イエスさまはその名前を口にしておられませんから、本当にそんな名前の悪霊がいるのかどうかはわかりません。聖書に基づかない名前です。しかしやはり人間は悪霊に興味があるようで、悪霊の世界のことをいろいろ想像して、たとえば日本でもいろいろな妖怪が想像して作られるのと同じように、いろいろな悪霊の物語を想像して「ベルゼブル」などという名前をつけたのでしょう。
 しかしイエスさまは、「サタン」と言っておられます。これは旧約聖書にも出てくる呼び方です。イエスさまは聖書に立っておられることがわかります。いい加減な想像でものを言わないんです。
 
    悪霊の役割は何か
 
 そのように、イエスさまは、悪霊とはサタンの側の霊であることを明らかになさいました。このことによって、悪霊とは何を目的として働いているのかということがはっきりいたします。つまり、悪霊は人を病気にすることが目的なのではないということです。それは、サタンを見ることによって分かります。
 サタンの目的は、人間を神から引き離すことです。人間が神を信じられなくする。それがサタンの目的です。そのことは、聖書の最初のほう、創世記第3章ではっきり表れています。エデンの楽園に置かれた最初の人類であるアダムとエバ。神が決して食べてはならないとおっしゃった善悪の知識の木の実を食べるようにそそのかしたのが蛇でしたが、その蛇こそがサタンを指しています。そのように、サタンは人間に働きかけて、神にそむくように、そして神を信じなくさせるように導く存在です。そのようなサタンがなぜ存在するのかということは、今日のテーマではありませんから、今日は触れません。いずれにしろ、サタンは、人間が神を信じなくなるように誘導するのが目的です。神を信じられなくするということは、もう少し具体的に言うと、神の愛を信じられなくするということになります。「神はあなたを愛していない」ということを吹き込むんです。
 それに対してイエスさまはどうでしょうか?‥‥全く逆です。イエスさまは、神の愛のしるしです。そのしるしとして悪霊を追放しておられる。であるのに、ファリサイ派の人たちは、イエスは悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出していると中傷した。それに対して、イエスさまは、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立っていかない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」とおっしゃっています。サタンがサタンを追い出すのであれば、それは自分で自分を追い出すようなものです。矛盾ですね。
 27節では「あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」とおっしゃっています。ユダヤ教にも悪霊を追い出す祈祷師という者がいたそうです。本当に悪霊を追い出したかどうかは知りません。それはファリサイ派の仲間。だから、あなたがたの仲間であるそのような祈祷師たちが悪霊を追い出しているとしたら、それもまた悪霊の力によって悪霊を追い出していることになるではないかと、イエスさまは彼らの言っていることの矛盾を指摘しておられるんです。
 
    聖霊の働きは何か
 
 さて、悪霊がサタンの側の霊であって、その働きが、人を神から引き離すことにあるとしたら、聖霊のほうはどうなんでしょうか。
P 28節でこう言っておられます。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
 「神の霊」は「聖霊」です。イエスさまが聖霊によって悪霊を追い出しているとすれば、神の国はあなたたちのところにすでに来ているのだと。神の国のほうから、あなたたちのところに、すなわち私たちのところに来ている。イエスさまと共に神の国のほうから、私たちのところに近づいてきてくださっている。それを信じるのか、信じないのかということになります。すなわち、聖霊の働きは、私たち人間を神のところへ、イエスさまへ導く役割であるということです。
P 新約聖書に次のように書かれています。
(Tヨハネ 4:2)"人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。"
(Tコリント 12:3)"ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。"
 私たちがイエスさまを信じるということは、聖霊の働きであると書かれています。聖霊が私たちに信仰を与えてくださるんです。人間だけの力では神を信じるようになれないんです。私たちがどんなにがんばっても、どんなに勉強しても、聖霊が働かなかったら、私たちはイエスさまを信じ、父なる神の愛を信じることはできないんです。私たちは基本手的に不信仰だからです。その不信仰である私たちが、神を信じ、イエスさまを信じるようになる。それは聖霊の働きです。ですから、私たちは聖霊の働きを求めるんです。
 
    赦されざる罪とは
 
 きょうの聖書の最後のところで、イエスさまが気になることをおっしゃっています。
P (マタイ 12:31〜32)「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、゛霊゛に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
 イエスさまは私たちの罪を赦すために十字架にかかってくださったと私たちは教えられています。しかし、ここで、ただ一つ赦されない罪があると言われるんです。それは聖霊を冒涜する罪であり、聖霊に言い逆らう罪であると言われる。そうすると、私たちは不安にならないでしょうか。私たちの罪はすべてイエスさまによって赦されていると信じている。しかし、聖霊に言い逆らう罪だけは赦されないんだという。この罪とは、具体的に何を指しているのか? 何が聖霊を冒涜する罪であり、聖霊に言い逆らう罪なのか?‥‥自分自身を省みて、この自分の何もかもが聖霊を冒涜する罪であるかのような気がしてきて、心配にならないででしょうか?
 アメリカの大衆伝道者であった、ビリー・グラハム。彼は2年前の2月21日に99歳で亡くなりました。ビリー・グラハム伝道協会のウェブサイトに、ビリー・グラハムが質問に答えるコーナーがあり、ある質問者は次のように尋ねました。‥‥「神はどれくらい大きな罪までなら赦してくださるのでしょうか? 私は、自分が間違いなく、神が赦してくださる一線を越えたと恐れています。私は恐ろしいことを幾つもしてきて、多くの人たちを傷つけたからです」。
 この質問に対し、グラハム氏は、赦されない罪はたった一つあり、それは「神の赦しを拒む罪」であると答えました。
 すなわち、聖霊を冒涜する罪、聖霊に言い逆らう罪とは、神の赦しを拒む罪であると。神が、御子イエス・キリストを十字架につけて、私たちのどんな罪をも赦してくださるという。それでイエスさまと共に神の国が、私たちのすぐそばまで来てくださっている。わたしの罪を赦してくださるという。しかしその神の赦しを拒むとしたら、もうなすすべがないということになります。これは、裏返して言えば、私たちのどんなひどい罪も、イエスさまは赦してくださるということです。そのために十字架にかかってくださったんです。ありがたいとしか言いようがありません。
 それゆえ、イエスさまは、このファリサイ派の人々を拒絶しておられるのではありません。このようにおっしゃって、なおもキリストの赦しを受け入れるように招いておられるのです。そして私たちをも、私たちの罪を赦してくださることを信じるように招いておられるのです。


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