2020年2月16日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 列王記上18章30節
    マタイによる福音書12章15〜21節
●説教 「くすぶる灯心を消さず」

 
    修養会
 
 本日は、礼拝のあと修養会を行います。今回の修養会のテーマは、「暮らしの中で聖書を読む」というものです。これは総務委員会が考えてくださったものです。
 暮らしの中で聖書を読む、ということですが、これは何か自分の好きな小説を楽しみにして、生活の中で休憩時間に読む、というようなものとは違います。暮らしの中で聖書を読む、ということは、私たちが生きて毎日生活をしている、その私たちに語られる神の言葉として聖書を読むということです。あたかも、毎日毎日の三度三度の食事が私たちの体にとって必要であるのと同じように、毎日聖書を読んで神の言葉に耳を傾けることが、私たちの魂にとって必要であるということになります。
 神の言葉は、私たちに生きる力を与えてくれます。アブラハム、モーセ、ダビデ、エリヤ、ダニエル‥‥こういった聖書の中の登場人物たちも、困難の中で、あるいは危機の中で神の言葉を与えられ、力を与えられて歩んでいきました。そして神はまた私たちを愛しておられる方です。イエス・キリストを通して、神は私たちのまことの父となられました。そういう神の言葉を、聖書を通して聞き取ることができるんです。そして何よりも、イエスさまが聖書の言葉に生きられた方であるということを忘れてはなりません。
 
    立ち去られたイエス
 
 きょう読みましたマタイによる福音書ですが、18節〜21節は、旧約聖書のイザヤ書42章1〜4節の引用です。そうしてイザヤ書のその個所を開いてみると、少し言葉が違っています。違っていますが、マタイは意味を少しわかりやすく解釈しつつ引用しているんです。そして、この引用した旧約聖書の言葉が実現するためだったと書かれています。
 それは何が実現したかというと、15節に書かれていますように、イエスさまがそこを立ち去られたことについてです。これは前回からの続きの話しとなるわけですが、12章の始めのところから安息日というものをめぐって、ファリサイ派がイエスさまを非難したことが書かれていました。
 安息日は、いっさいの仕事を休まなくてはならないのに、イエスさまの弟子たちは麦の穂を積んで手で揉みほぐして食べた、つまり収穫するという仕事をし、脱穀するという仕事をしたという。次に、安息日に行われる会堂での礼拝にて、片手の萎えた人の手をイエスさまが癒されたこと。それについて、治療という仕事をしたというのでした。そのようにして、イエスさまは、安息日は仕事をしないで休まなくてはならないことになっているのに、その戒律を破ったと言って非難したのです。そして、14節には「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」と書かれていました。
 そして今日の箇所に続く。イエスさまは、ファリサイ派の人々がそのようにイエスさまを律法違反の罪で処刑することを相談したことを聞いて、そこを立ち去られた。何か、イエスさまが逃げたというように読めるかもしれませんが、そうではありません。なぜイエスさまがそこを立ち去られたかということについて、きょうの聖書は、旧約聖書の預言者イザヤの書に書かれていることが実現するためであったというのです。
 
    イザヤの預言
 
 預言者イザヤ。それは、このイエスさまの時よりも700年以上も前の人です。そしてイザヤは、キリストの預言を多く語ったことで知られています。預言というのは、神さまの言葉を取り次ぐことです。だからここに記されているのは、イザヤが聞いた神の言葉です。
 19節を見ますと「彼は争わず」と書かれています。イエスさまは、このときファリサイ派の人々と争うことをなさらなかった。それはイザヤが神の預言を預言したとおり成就したのだと言うんです。
 この引用部分は、18節の「見よ、わたしの選んだ僕」という言葉で始まっています。この「わたし」というのは、神さまのことですね。「見よ」というのは、注目しなさい、見逃すな、ということです。私の選んだ僕に注目しなさい、と神さまが語っている。この「僕」というのがイエスさまのことであると、マタイは書いているんです。
 「彼は異邦人に正義を知らせる」と書かれています。正義というのは、人間の正義ではありません。神さまの正義です。また、この「正義」と日本語に訳されている言葉は、「裁き」という意味の言葉です。つまり、何が善で何が悪であるかを明らかにするということです。‥‥私は、かつて神さまを信じて神さまの言葉を聞くまで、何が善で何が悪であるかも分かりませんでした。自分の思いのままに生きていました。それはまことに勝手な善悪でした。しかし、キリストによって導かれ、聖書の神を信じるようになって、初めて何が善で何が悪かがわかるようになったんです。それがこの「彼は異邦人に正義を知らせる」ということです。
 16節には、イエスさまが病気を癒された人に対して、ご自分のことを言いふらさないように戒められた、と書かれています。このことも、19節で書かれている「その声を聞く者は大通りにはいない」というイザヤの預言の成就であるということです。
 
    くすぶる灯心を消さず
 
 20節には「正義を勝利に導くまで」とあります。先ほど申し上げましたように、この「正義」とは、神の裁きのことです。神さまの裁きが勝利するという。そのときまでという。これはいったい何のことか?‥‥実はこれはイエスさまの十字架のことを指していると言えます。イエスさまの十字架は、イエスさまが捕らえられて殺されたのですから敗北ではないかと思われる。しかし実は、それこそが勝利であるということです。私たちを救うために、イエスさまが命を投げ出してくださった。神の愛の勝利です。
 「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(20節)とあります。葦は、水辺や湿地にたくさん生えている草で、ヨシとも呼ばれます。夏の日光を遮るために使われる、スダレやよしずの材料です。しかしその葦が傷ついてしまったら、スダレやよしずの材料になることもなく見向きもされません。折って棄てられるだけです。しかし彼は、それを折らないという。捨てずに守るということでしょう。この彼が、イエスさまを指しているというのです。
 考えてみれば、私は、このことによって救われたと言えます。一度教会を離れ、神を信じなくなってしまったのに、イエスさまは私を捨てることなく、再び神さまのところに導いてくださった。まさに傷ついた葦を折らず、でした。
 「くすぶる灯心を消さない」。この時代は、小さな陶器製のランプで明かりをとりました。そのランプの芯についた火が消えてしまって、くすぶっている。それを消さずに、もう一度火をおこしてくださり、明かりが灯るようにしてくださるという。
 これもまた私の体験したところです。私は、かつて命の火が消えかかりました。教会を離れ、神さまの元を去ったまま、消えかかりました。くすぶる灯心となりました。しかし、またキリストの元に導くために、主は、くすぶる灯心を消さず、命を助けてくださったのです。
 最後の21節に「異邦人は彼の名に望みをかける」とあります。彼、イエス・キリストです。私たち罪人は、イエス・キリストの名に望みをかけます。この私のような者でも救ってくださるからです。イエスさまにすべての望みを託します。
 
    聖書
 
 さて、新約聖書を読んでいますと、今日の箇所にかかわらず、旧約聖書からの引用が非常に多いことに気づかれると思います。それはつまり、旧約聖書は預言であって、それがこのように成就していますということを語っている引用の仕方ががほとんどです。すなわち、聖書自身が、神の言葉は必ず成就する、実現すると証言しているわけです。
 そして、私たちにとって、神を信じるということは、神の言葉を信じるということです。聖書が証ししている真の神さまは、人間の目には姿が見えない神さまです。しかし言葉を語られる。だから神を信じるということは、神の言葉を信じるということになります。
 それに対して、偶像の神々は、神の像はあるのだけれども、ものを言うこともできないし、ものを見ることもできない神です。だからそのような神さまは、ただまつられているだけで、何を考えているのかもわかりません。
 しかし私たちの神、聖書の開かしする真の神は、私たちに言葉をくださる神です。しかもその言葉は必ず成就する言葉であり、力のある言葉であるということです。私たちはその神の言葉を、聖書を通して聞くことができるんです。
 
    聖書を読んでいた人
 
 毎日聖書を読んで祈る。私はそのような両親の光景を見て育ちました。しかし親というものは、近すぎてなかなかピンとこないところがあります。私が、毎日聖書を読んで祈る時間を持つことの大切さを身をもって知ったのは、先週もお話しした、私がいっしょに働いた社長を通してでした。彼はその小さな零細企業である事業所を始める時に、「これは神さまにささげる仕事だ」と言いました。そして、私と社長と二人しかいないその会社で、毎朝15分間の祈りの時間をもって仕事を始めました。聖書を毎日一章ずつ読み、次に今読んだ聖書について黙想し、そして最後に二人で順番に祈る。これをどんな忙しい時も、逆にどんな暇な時も欠かすことがありませんでした。そうすると、どんなに暇で、絶望的に注文が入ってこない時も、いよいよ倒産かと思う時も、仕事がまた入ってくる。そういう彼と共に仕事をさせていただいて、私は祈りの力、聖書の力というものを知っていったんです。
 もう一人思い出す方があります。わたしの最初の任地である奥能登の小さな教会・輪島教会に、80歳を超えたご婦人がいました。この方は、他の教会員から「ばあちゃん」と呼ばれていました。彼女は、市内からは車で20分ほど走った田舎に、息子夫婦と一緒に住んで農業を営んでいました。ただ、同居している息子夫婦が、彼女が教会に行くことを快く思っていませんでした。それで彼女をいじめるんです。交通が不便なところなので、日曜日の礼拝は私が車で送り迎えしていました。教会学校が9時から始まりますので、それまでに迎えに行かなくてはなりません。私は朝7時すぎに教会を車で出て、おばあちゃんの家まで迎えに行きました。そして彼女は、そのあと教会学校、主日礼拝、そしてその後の集会がすべて終わってから、また私が車で送って帰るまで、日曜日は一番長く教会にいる人でした。
 さて、彼女はそのように朝8時ごろから教会に来て何をしているかというと、礼拝堂でひたすら黙々と聖書を読んでいるんです。礼拝が終わって、たとえば役員会をしている間も、ずっと椅子に座って聖書を読んでいるのです。他に何かするというわけでもなく、ひたすら黙って聖書を読んでいる。それであるとき、教会員の一人が彼女に言いました。「ばあちゃん、いつも聖書を読んでいて、感心やねえ」と。するとおばあちゃんはこう答えたのです。「わたしは歳を取って、物忘れがひどくなったから聖書を読んでもすぐに忘れるのよ。だから聖書から目が離せないのよ。」
 わたしは、その言葉にものすごく感動しました。なぜなら「歳を取って物忘れがひどくなって、どうせ聖書を読んでもすぐ忘れるから、読まない」という言い方もあると思うのです。でもこのおばあちゃんは違っていました。「聖書を読んでもすぐに忘れるから、聖書から目が離せない」というのです。
 息子からいじめられ、家も平安な場所ではない。歳を取って、身体も弱くなり、何か教会のために奉仕できるのでもない。でもわたしは思いました。このおばあちゃんがいつもいつも、いつ見ても聖書を読んでいる。このことこそ最大の奉仕ではないか、と。この一人のおばあちゃんが、いつも聖書に目をやっているこの姿が、「聖書が神の言葉である」ということ、そして聖書の言葉に耳を傾けることが、どんなに大切なことなのかということを、無言のうちに万人に証ししていたんです。ただ聖書を読んでいるだけです。でも、彼女を見た人は、やがて思い出すでしょう。「ああ、ばあちゃんはいつも聖書を読んでいたなあ」と。そして聖書を読んでみようと思うことでしょう。
 
    祭壇を修復
 
 今日もう一個所読んだ聖書は、旧約聖書の列王記上18:30のことばです。イスラエルの人々が、アハブ王の影響で、真の神さまではなく、偶像の神々を拝むようになってしまっていた。それで主を礼拝する祭壇が壊されたままになっていました。預言者エリヤは、その壊れていた主を礼拝する祭壇を、人々と共に修復したんです。
 私たちにとっては、毎日聖書を読んで祈ることが祭壇です。毎日の暮らし、それは忙しい毎日です。しかしその時間をたいせつにしたい。そうして、どんなときも主と共に、主に支えられて歩んでいくことができます。


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