2020年2月9日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 イザヤ書1章13〜18節
    マタイによる福音書12章9〜14節
●説教 「命と引き換え」

 
    暗雲立ちこめる
 
 前回から、安息日のことが問題となっています。安息日とは一週間のうちの一日で、仕事を休む日であり神さまを礼拝する日です。この聖書の時代はユダヤ教ですから、土曜日が安息日。今は日曜日が休みの日ですが、それはキリスト教会がイエスさまが死からよみがえった日である日曜日を「主の日」と呼んで、休んで礼拝するようになったからです。
 そういうわけですから、旧約聖書、そしてこの福音書の時は土曜日が安息日。いっさいの仕事を休まなければならない日でした。いっさいの仕事を休んで、会堂に集まり、主のみことばに耳を傾ける礼拝をする。そういう日でした。
 ところが、イエスさまの歩みが、その安息日の問題を巡って風雲急を告げることとなるのです。これまでイエスさまは、人々の間で神の国の喜ばしいおとずれ、すなわち福音を宣べ伝えてこられました。そして病気で苦しむ人の病気をお癒やしになり、目の見えない人の目を開けられ、悪霊に取りつかれて苦しんでいる人から悪霊を追い出すという奇跡をなさってこられました。多くの人々がイエスさまを歓迎し、集まってまいりました。
 ところが、11章になって、イエスさまは、多くの奇跡が行われたのに、悔い改めることをしない人々が多いことを指摘なさいました。そして、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。やすませてあげよう」(11:28)とおっしゃって、なおも人々をご自分のところに招かれるために歩み続けることを明らかになさいました。
 そして12章に入って、イエスさまをめぐる情勢に暗雲が立ちこめてくることとなります。それが安息日を巡ってです。前回の個所でも、今日の箇所でも、ファリサイ派の人々がイエスさまと対立をしています。そして今日の箇所では、ついにファリサイ派の人々が「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」と書かれているのです! とんでもないことになる。安息日を巡って、ファリサイ派などの宗教家が、イエスさまに対してはげしく反発するんです。
 
    対立
 
 彼らはイエスさまの何がそんなに不満なのか。前回の個所では、イエスさまの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べた。そのことを「麦を収穫した」「脱穀をした」という仕事をしたと、ファリサイ派の人々は見なしました。
 今日の箇所はその続きで、安息日に会堂にお入りになった。ユダヤ人は、安息日には近くの会堂に集まって、みことばに耳を傾ける礼拝をしました。そこに出席されたのです。そうするとそこに片手の不自由な人がいた。するとイエスさまは、その人の手を癒された。その人の手は、イエスさまの奇跡によって元通り良くなった。そうしたところ、ファリサイ派の人々は、なんとかしてイエスさまを殺そうという相談をした。
 ファリサイ派の人々から見たら、イエスさまのなさったことは、手の不自由な人を治療したと見えた。治療というのは、仕事です。しかし律法では、安息日に仕事をしてはならないことになっている。つまり、イエスは一番大事な律法である十戒を破った。そのように見なしたわけです。それで、先の麦の穂を積んで、つまり収穫して手で揉んで脱穀という仕事をしたということと、今回のての不自由な人を癒した、つまり治療という仕事をしたということがなされて、イエスが安息日の掟を破ったという決定的証拠をつかんだということになった。神の掟、律法を破った者は死刑に処せられる。‥‥
 これらのことを読んで、皆さんはどう思われるでしょうか? 「たかだか安息日になにをしたかについて、そんなに問題になるなんて理解できない」とか、「つまらないことで騒ぎ立てる人たちだ」と思われる方が多いのではないでしょうか。さらには、「安息日のことなど全く興味がない」と思われる方もいるでしょう。
 しかしこの問題は、実は、神さまという方が、私たちにとって一体どんな方であるかということなんです。神さまは、私たちにとってどんな方なのか? そのことがこの安息日の考え方をめぐって、はっきりするんです。
 
    安息日は休むことができる日
 
 まず、もう一度安息日について定めた律法、つまり十戒の第4戒を見てみましょう。
(出エジプト記20:9〜11)「安息日に心を留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
 いかがですか? これは恐ろしい掟でしょうか? それとも喜ばしい掟でしょうか?‥‥喜ばしい掟にちがいありません。この掟がなかったら、休みがないんです。もし私たちが休みなく働いたとしたら、どうかなってしまいます。しかもよくご覧下さい。これは自分が休むだけではありません。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も」同様に休ませるんです。奴隷もです。これは奴隷の身分の人にとったら、本当に喜ばしいことですね。
 しかもこの安息日は、「休まなければならない」のではなく、「休むことができる」という掟なんです。そのことは前回も「マナ」のことで申し上げたとおりです。イスラエルの人々が、エジプトを出て、草も木も生えておらず人も住んでいない、すなわち食べるものがない荒れ野を放浪した時、神さまは、毎朝マナという不思議な食べ物が地面の上にあるようにしてくださいました。そのマナは一週間のうち、六日間毎朝ありました。その六日目には、翌日の安息日の分のマナまで、つまりふだんの二倍のマナが地面の上に降りていました。そして安息日にはマナがありませんでした。このことは、安息日にはマナを集めるという仕事をしなくても、前の日に安息日の分のマナまで神さまが与えてくださっているということを教えていました。安息日に休むことができるように、安息日に食べる分まで神さまはちゃんと用意してくださったんです。
 そのように、安息日は「休まなければならない」日なのではなく、「休むことができる日」だったんです。休んで神さまを喜んで礼拝できる日だったんです。ただ、安息日に休んでも、神さまがその分をちゃんと埋め合わせてくださると信じる信仰が必要なんです。
 
    喜ばしい日
 
 私がこのことを身をもって知ったのは、私が若い日にクリスチャンの社長といっしょに働いた時のことでした。体を壊して、最初の会社を辞めたあと、彼は私を仕事に誘ってくれました。そして、彼と私の二人だけの事業所が始まりました。自動車部品の製造に携わる、下請けの会社です。彼が社長で私が一人だけの社員。二人だけの会社としてスタートしました。毎朝8時から15分間の礼拝で仕事は始まります。そして日曜日には、教会の礼拝に行く。ただこれだけのことかと思うかもしれませんが、これがどんなに忙しい時も変わらないんです。製品を何月何日の何時までに親会社に納めるというのを納期と言うんですが、納期は絶対に守らなければならないんです。1分でも遅れるわけにはいきません。だから多くの注文が舞い込んだ時は、夜遅くまで仕事をしなければなりません。そうしないと納期に間に合わないからです。毎朝の15分間の礼拝の時間さえも、もったいないと思えるような時もありました。また、日曜日の朝の礼拝に行くのをやめれば、納期に間に合うのに、と思うような時もありました。それでも社長は、毎朝の会社の礼拝をやめたりしないし、日曜日の朝の教会の礼拝に行くことも休んだりしない。
 それは神さまを知らない人から見たら、「なぜそんなにしてまで礼拝を守るんだろう?」と疑問に思えたことでしょう。実は私もそう思ったんです。‥‥毎朝の礼拝、そして日曜日の教会の礼拝を守らなければ、神さまの罰が下るから、それが恐ろしくて礼拝を休まないのでしょうか? 一見、そのように見えるかもしれません。しかしやがて私は、そういうことではないことを知ったのです。
 忙しい時には、毎朝の礼拝をやめたほうが納期に間に合うのではないか、日曜日の朝の礼拝をやめたほうが納期に間に合うのではないか‥‥私は最初そう思っていたんですが、しかしそうではないことが分かっていったんです。毎朝の会社の15分の礼拝をしていても、納期に間に合う。日曜日の朝の礼拝をしても納期に間に合う。反対に、全然注文が入ってこなくて、何日も仕事がなくてヒマな時がありました。零細企業ですから、注文が入ってこなければすぐに倒産してしまうことになります。ですから、私は「あ〜、つぶれるな」と思いました。そういう時も毎朝の礼拝をする。しかし仕事がないから、掃除でもするしかない。それが終わって、社長は何をしているかと言えば、聖書を読んでお祈りしている。私は、「そんなことしていてもムダだよな」と思ったものです。ところが、また注文が入ってくる。不思議でした。そういうことを見ているうちに、私は、神さまが分かっていったんです。
 神さまを信じて、初めて休むことができる。そして休むということは、神さまを礼拝するところにあるんです。「休まなければならない」のではなく、「休むことができる」ということ。神さまは私たちに安息を与えてくださる方です。ですから安息日は、恐ろしい日ではなく、喜ばしい日であるはずです。イエスさまがそうしてくださったんです。
 だから十戒も、本当はそのように読むべきなんです。「主は安息日を祝福して聖別された」と書かれています。祝福されたんです。喜ばしい日なんです。
 
    本当の安息のために
 
 私は、日曜日に教会に行かなかった時がありました。それは大学生時代、そして最初の会社に就職した時でした。日曜日に教会に行かなくなった私は何をしていたか? 昼まで寝ていることが多かったですね。なぜ昼まで寝ているかというと、前の日は徹夜で麻雀をしているか、酒を飲んでいるかだからです。そしてようやく起き出して何をするかと言えば、やっぱり麻雀をするか、パチンコに行くかという具合です。教会に行かなくなった代わりに、前の日に遅くまで酒を飲んで寝ているか、ギャンブルに興じているかです。
 たしかにそれだけ見ると、神を信じない人にとっては、教会に行くのも、麻雀やパチンコをしているのも、あんまり変わらないと思うかもしれません。でも大きく変わったことがありました。それは、教会へ行かなくなった私は、いつも心のどこかに不満があるようになったんです。だから不平や不満が満ちていました。そうすると、それは本当の休みにはならないんですね。
 しかし先ほど申し上げたように、社長と二人の零細企業で働いて、社長が毎朝の礼拝を欠かさないし、日曜日には教会の朝の礼拝にどんなときも出かけるのを見て分かりました。休みは、神さまのところ、イエスさまのところにあるということがです。イエスさまが私たちに安息を与えてくださる。必要以上に心配する必要はない。イエスさまを信頼することによって、休むことができる。そうして私は、感謝するということを学びました。不平不満ばかり口にし、心配ばかりしていた私は、イエスさまによって感謝するということを学びました。この罪人の私をも愛してくださるイエスさま。ただただ感謝であります。まさにそこに安息があります。休みがあります。
 きょうの聖書箇所の最後にありますように、安息日のことをめぐって、イエスさまは命を狙われることとなりました。ここに十字架への道行きが見えてきました。言い換えれば、イエスさまは私たちに本当の安息を与えるために、命をかけられたということになります。この私たちのためにです。
 最後に、もう一度11章28節のイエスさまの言葉を味わってみましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。やすませてあげよう」(11:28)


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