2020年2月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記20章8〜11節
    マタイによる福音書12章1〜8節
●説教 「本当の休みとは」

 
    休ませてくださるイエスさま
 
 先週は、愛知教会の吉澤永牧師をお招きしてウェルカム礼拝として主日礼拝を守りました。吉澤先生の説教の聖書箇所は、今日読みました聖書箇所の前のところ、つまりマタイによる福音書11章25〜30節でした。それはつまり、その前の週にちょうど私が説教した個所と同じでした。吉澤先生から説教する聖書箇所の連絡があったのは2ヶ月ほど前のことであり、彼は私が前の週に同じ個所で説教をするということを全く知りませんでした。なのに同じ個所となったのは、全くの偶然でした。いや、偶然という言葉は私たちにとってふさわしくありませんから、これは神の導きであるということになります。
 その聖書箇所には有名なイエスさまの言葉がありました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
 疲れた人、重荷を負う人が、イエスさまの招きを受けています。そしてイエスさまが休ませてくださるというのです。現代社会は様々なストレスにさらされている人が多くいます。疲れている人が多くいます。様々な不安があります。しかし、イエスさまは言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」今日の箇所は、前回のそのイエスさまの言葉が、具体的な出来事の中で深められていると言えます。
 
    何が問題となっているのか?
 
 きょう読んだ聖書箇所では、何が問題となっているのでしょうか? 弟子たちが、他人の麦畑の麦の穂を勝手に摘んで食べたことでしょうか?
 たしかに、日本人の感覚から言うと、他人の麦畑の麦を勝手に積んで食べるというのは、泥棒に等しいことであり、やってはいけないことだと思えます。しかし、実はこの当時のイスラエルでは、それは悪いことではなかったんです。もちろん、麦を鎌で刈り取ってはなりませんが、他人の麦畑であっても、通りがかりに手で穂を摘んでほおばるぐらいは許されていたんです。
 というのは、イスラエル(ユダヤ)社会というのは、ご存じのように旧約聖書に基づいた律法主義の国だからです。律法主義というと、何か四角四面な冷たい印象を受けますが、そうではありません。とくに貧しい人や、困っている人に対してはやさしい社会です。たとえば、旧約聖書のルツ記にも出てくる、そしてミレーの絵で有名な「落ち穂拾い」ですが、麦を刈り取る時にも、地面に落ちた穂は、貧しい人たちが拾うために残しておかなければなりませんでした。また、物乞いの人に恵むということも、功徳を積むということで重んじられていました。現在でも、イスラエルは貧しい人や障害をもった人に対してやさしい社会なんです。
 そういうことですから、このときファリサイ派の人たちが、麦の穂を積んで食べたイエスさまの弟子について注意をしているのは、他人の麦の穂を積んで食べたことをとがめているのではありません。
 ではなぜ厳格な宗教家であるファリサイ派の人々が、イエスさまの弟子たちのしたことをとがめているかと言えば、それは2節に書かれているように「安息日にしてはならないことをしている」と見られたからです。安息日は、一週間に一日、仕事を休む日です。この当時で言えば土曜日ですね。ですから、ファリサイ派にとっては、イエスさまの弟子たちが麦の穂を積んで食べたということについて、麦の穂を食べるには、手で揉んでから殻を吹き飛ばして口に入れるわけですが、その手で揉んで殻を吹き飛ばすという動作が仕事であると見なされたわけです。そうすると、安息日には仕事をしてはならない決まりになっているので、その決まりを破ったということになる。そういうことだからです。
 そのファリサイ派の指摘に対して、イエスさまは反論なさっているわけです。そうすると、きょうの聖書箇所は、なにか安息日に仕事をしてはならないという神の律法を破ったか破らないかということ、すなわち、神の律法の解釈を巡って意見が対立しているということなのでしょうか? つまり、何が安息日にしてはならない仕事に相当するかという、律法についての解釈が問題となっているのでしょうか? たとえば、日本の自衛隊は日本国憲法の第9条に記されている「戦力」に該当するのか否かといったような、法律の条文の解釈を巡って意見が分かれているということなのか。
 もしそうだとしたら、現在の私たちにはほとんど関係のない、退屈な話しということになってしまいます。しかし実はそうではありません。それどころか、安息ということをめぐって、私たちにたいへん大きな恵みが隠されているんです。
 
    安息日とは何か?
 
 まず、そもそも安息日とは何かということを振り返っておかなくてはなりません。安息日の掟とは、先ほどもう一個所読んだ旧約聖書の出エジプト記20:8〜11に記されていることです。それは基本的な神の掟である十戒の中の第4戒です。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。聖別というのは、神さまのために取り分けなさいということです。
 一週間のうち、六日間働いて、七日目を休む。仕事を休む。なぜそうするかといえば、そこに書かれていたように、主なる神さまが天地万物をお造りになった時、七日目に休まれたことに基づいています。天地創造のところ、旧約聖書の初め、創世記2章2節を見てみましょう。
「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。」
 よく知られている言葉だと思いますが、もう一度よくごらんになっていただきたいのであります。第七の日に、神さまは何をなさったと書いてあるでしょうか?‥‥そうです。神さまはご自分の仕事を離れて安息なさった、と書かれています。だったら、七日目は要らないんじゃないかと思いませんか? 神さまは、第一日に光をお造りになり、第二日に地球をお造りになり‥‥という感じで造られていって、第6日には動物、そして人間をお造りになった。そして第7日は休まれたのであれば、七日目は要らないんじゃないかと思う。ところが七日目がある。不思議だなと思って、この創世記2章2節をよく見ると、第七の日に神は仕事を離れて休まれた。これもちゃんと七日目になさったことということになります。
 すなわち、休む、安息するということを含めて七日なのです。休むということもちゃんと一日として数えられていることが分かります。休むことが一週間に組み込まれている。それは人間の生きるために必要な日であることになります。
 レビ記23章3節には、安息日についてこう書かれています。
(レビ記 23:3)"六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である。"
 「聖なる集会」は、今日でいう礼拝です。つまり、安息日には仕事を休むだけではなく、主を礼拝する。そこに本当の安息があるということなんです。
 
    安息日が祝福である理由
 
 休まなければならない、と言われると、「そんなこと言っても休めない」と答える人もいることでしょう。たしかに、生きていくためには休むことができないということもあるかと思います。そういうときに「マナ」のお話しは参考になるでしょう。それは十戒が与えられる少し前の出来事、出エジプト記16章です。
 奴隷とされていたエジプトの国から、神の奇跡によって脱出することができたイスラエルの民は、シナイ半島を進んでいきました。するとそこは荒れ野と砂漠の荒涼とした場所。人は住んでおらず、植物は生えておらず、何も食べるものがないというところでした。人々は早速食べることに困りました。エジプトを出てくるんじゃなかった、と言う人もいました。このままでは飢え死にしてしまう。
 そのとき主はモーセにおっしゃいました。
(出エジプト記16:4〜5)"主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」"
 すなわち、安息日の前の日は二日分のマナという食べ物が地面に落ちていました。そして安息日にはマナは落ちていなかった。つまり、安息日に働かなくても済むように、その前の日に安息日の分のマナまで神さまが用意してくださった。これがマナのお話です。
 主は、私たちが安心して休めるように、安息日の分までちゃんと食べ物を用意してくださるということです。だから、安心して週に一日休んで神さまを礼拝することができる。私たちキリスト教会は、土曜日の安息日ではなく、主イエスの復活された日曜日を主の日として、安息日のようにして守っていますが、それは祝福された日なんです。
 
    頭の固い連中ということか?
 
 きょうの聖書箇所に戻りますが、安息日に麦の穂を摘んで食べたことを「仕事をした」と言って非難したファリサイ派の人々のことを、「なんと頭の固い連中なんだ」と思うでしょうか。
 実は、ファリサイ派のように安息日に絶対に仕事と見なされるようなことをしてはならないというようになったのには、背景があるんです。それはバビロン捕囚という出来事でした。紀元前6世紀のことですが、かつてイスラエルの国はバビロニア帝国によって、滅ぼされ、多くの人々が虐殺され、そして遠くバビロンの国に補囚として移住させられたことがありました。それは、神によって選ばれながら、神にそむいたイスラエル人、すなわちユダヤ人に対する神の罰でした。
 しかし神は、やがて補囚からユダヤ人を解放なさり、故国のユダヤに戻ってくることができるようになさいました。そしてユダヤ人は、悔い改めたんです。自分たちは神の掟にそむいてバビロン捕囚になった。だからこれからは、ちゃんと律法を守ろう、と。そうして、十戒を初めとする神の律法を必死に守るようにしたんです。安息日の掟についても、どういうことが仕事に該当するかということまで、ことこまかに決めたんです。そうして、麦の穂を積んでもみほぐすことも、脱穀という仕事に該当すると決めたんです。
 つまり彼らは、かつて自分たちが神にそむいて罰を与えられたということを悔い改めて、いっしょうけんめい神の律法を守るように努力していたんです。神の律法を破ったならば、また神が自分たちに罰を与えて国が滅びてしまう。だから必死になって律法を守ろうとしていたんです。
 それなのに、このイエスという男は、安息日だというのに自分の弟子たちが麦の穂を積んで食べることを何も注意しない。それは間違っている、というわけです。だから彼らは彼らで、神の律法を必死に守ろうと努めていた。極力、神の怒りに触れるようなことは避けた。ですから、ファリサイ派の人々は、単に小さなことをいちいちとがめるうるさい人たちであるということではありません。しかし、その場合、神は恐怖の対象でしかなくなってしまいます。
 
    イエスは安息日の主
 
 それに対してイエスさまはなんとお答えになったか。書かれているとおり、ダビデの例や、安息日に神殿で使える祭司の例を挙げて反論されていますが、重要なポイントは、6節の言葉です。
 「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」‥‥「ここにある」と訳していますが、本当は「ここにいる」と訳した方がわかりやすいでしょう。神殿は、なぜ偉大なんでしょう?
それは天地を造られた神さまを礼拝する場所だから偉大なんです。ではその神殿よりも偉大なものって、何でしょうか?‥‥それは、そこで礼拝される神さまその方です。すなわち、イエスさまはここで、神殿よりも偉大なものがここにいる、とおっしゃっている。それはつまり、「神がここにいる」とおっしゃっていることになります。じゃあ、それは誰を指しているのか?
 そのヒントは、最後の8節にあります。「人の子は安息日の主なのである。」!‥‥聖書を読んでおられる方ならば、イエスさまが「人の子」とおっしゃった時、それが一体だれを指す言葉なのかをご存じでしょう。そうです。イエスさまが、ご自分のことを言う場合「人の子」と言われます。すなわちこの言葉は、イエスさまが安息日の主であるということです。そして6節の、「神殿よりも偉大なもの」、すなわち神がここにいる、それはイエスさまがここにいるということをおっしゃっている。つまりイエスさまが神である、礼拝されるべきかであるということです。もっとも、このときファリサイ派の人たちは、このイエスさまの言葉が理解できたとは思えませんが。
 すごいことがここで明らかにされている。人の子であるイエスさまが、礼拝されるべき方であるということ。それが、人の子は安息日の主であるということです。
 
    なぜイエスが安息日の主となったか?
 
 なぜイエスさまが安息日の主となられたのか?‥‥それは十字架にかかられたイエスさまが、死んで墓に葬られたこと場面を見ると分かります。
 十字架にかかられたイエスさまが、十字架の上で死なれたのは金曜日の午後3時頃でした。そして、アリマタヤのヨセフらによって十字架から降ろされ、墓に葬られました。それは日没までの間に、慌ただしくなされました。なぜなら、その日は安息日の前日だったからです。そしてユダヤの考え方では、日が沈むと次の日が始まるんです。つまり安息日が始まってしまう。そうすると何もできなくなりますから、午後3時で死なれたイエスさまを、日没の午後6時までのわずか3時間のうちに、十字架から取り下ろす許可をもらい、取り下ろして清め、布で巻いて墓に葬るという作業が行われました。
 そして安息日が過ぎていった。そしてその安息日があけた3日目の朝、つまり日曜日の朝、イエスさまがよみがえられたのは、皆さんご存じの通りです。すなわち、十字架にかかって私たちの罪をになわれたイエスさまは、死んでから、死後の世界である陰府に行かれたんです。それはおもに安息日の間です。私たちの罪をになって、陰府に持っていってくださった。本当は私たちが行くべき陰府に行ってくださった。代わりに私たちが救われることとなったんです。それは安息日に起こったことです。
 こうして、イエスさまの死によって、私たちにとって安息日は本当の安息日となりました。罪の重荷から解放され、私たちは神の子とされ、命を与えられました。私たちが明日のことを思い悩まなくても、イエスさまが整えてくださるんです。こうして日曜日の教会の礼拝は、喜びのときとなりました。イエスさまのもとに安息があるんです。この一週間も、主イエスさまと共に歩ませていただきましょう。


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