2020年1月19日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 エレミヤ書1:7〜8
    マタイによる福音書11:25〜30
●説教 「重荷をおろす場所」

 
    イエスの招き
 
 28節の言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というこの言葉は、多くのクリスチャンに愛されている言葉でしょう。かくいう私自身も、しばしばこの言葉を思い出します。
 このみことばは、私たちの休息がどこにあるかということを教えています。私たちは、この世の中で生きておりますと、しばしば疲れます。その疲れが、肉体の疲労であるならば、体を休ませればよいわけです。お風呂に入って早く寝ればよい。しかし私たちを疲れさせる多くの原因は、そのような肉体の疲れではなく、精神的なストレスであると言えるでしょう。その多くのストレスは、人間関係のストレスであり、また仕事上のストレスであり、生活への不安であります。これはなかなか取り除くことができません。仕事を変え、また引っ越して住む所を変えたとしても、またそこには新たなストレスの原因があるわけです。
 要するに、どうすることもできない。あとはそれを紛らわすしかない。私たちの疲労の多くは、そのようなものから来ていると言えるでしょう。そういうときに、このイエスさまの言葉を聞きますと、光が差したように感じられます。そしてイエスさまという方が、この私のような小さな者でさえも、ご自分のところに招いてくださっていることが分かります。
 
    イエスの祈り
 
 きょうの聖書箇所は、洗礼者ヨハネが自分の弟子をイエスさまの所に遣わして、尋ねさせたところから始まったイエスさまの言葉の最後のところとなります。そしてこの前の所の個所では、これまでイエスさまが神の国の福音を宣べ伝え、数々の奇跡を行ってこられたのにもかかわらず、悔い改めなかった町をお叱りになるということがありました。
 そして今日の箇所が続きます。きょうの聖書箇所は、最初、イエスさまの祈りとなっています。「天地の主である父よ」と神さまに呼びかけておられます。子であるイエスさまが、文字通りの父である天の神さまに向かって祈られます。そして何を父なる神に語りかけられたかというと、25節です。
 「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」
 これらのこと、とは何か?‥‥それはおそらく、この11章の始まりとなりました、このとき獄中にいる洗礼者ヨハネの問いを指していると言って良いでしょう。すなわちこの11章3節の問いです。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか?」という問いです。
 「来たるべき方」というのは、救い主キリストのことを言っているということを、その時の説教で申し上げました。すなわち、イエスさまとは一体何者であるかということについて、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」とここでイエスさまは祈りの中で語っておられることになります。
 幼子のような者が、イエスさまがいったいどなたであるかということを知った。父なる神さまが明らかにしてくださったというんです。幼子のような者とは、どういう人でしょうか? 幼子は素直です。大人に比べて素直。そして幼子は、親に頼らないと生きて行けないことを自分で知っています。それが幼子の特徴です。それと同じように、イエスさまが神の国の福音をお語りになると、素直にそれを受け入れる。そしてイエスさまのなさる奇跡を見て、素直にそれは神のわざだと信じる。それで、イエスさまが約束された救い主であることを、素直に信じるということでしょう。
 それに対して、「知恵ある者や賢い者」とはどういう人でしょうか? この「知恵」とか「賢い」ということは、ほめておっしゃっているわけではありません。この知恵とか賢いというのは、この世の人間の知恵のことであり、この世の賢さのことです。この世の知恵、知識、学問などが邪魔をしてしまって、素直にイエスさまを信じることができない。そういうことを指しています。
 そしてそのようになることが、父なる神の御心にかなうことであったとイエスさまはおっしゃっています。すなわち、この世の知恵や知識の豊富さに頼って、高慢になり、へりくだることができなくなってしまったような人には、神さまのこと、イエスさまのことが分からない。自分を低くして、幼子のようにならないと、イエスさまのことも神さまのことも分からないようにするのが、父なる神さまの御心であったというんです。
 そのように、イエスさまにお会いするためには、自分の身を低くして、幼子のようにならないと出会うことができないんです。
 
    父と子
 
 27節では、「父」が父なる神さまのこと、「子」というのがイエスさまのことを指しています。「すべてのことは、父から私に任せられています。」‥‥私たちを救うことも、私たちに何をなさるかということも、すべてイエスさまに任せられているということです。ここに私たちの安心感があります。この福音書に記されているイエスさま。このイエスさまに、私たちを救うのかどうかが任せられている。父なる神さまから、全権をゆだねられているということです。私たちの運命を握る方が、本当にイエスさまで良かった。そう思います。
 その全権をゆだねられたイエスさまが、この私たちを救うために十字架へ行かれるからです。私たちの代わりに神のさばきを受けてくださるんです。代わりに私たちが救われるからです。
 
    休ませてあげよう
 
 そして、最初に申し上げたみことばが語られます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
 イエスさまの所に行く。するとイエスさまが休ませてくださるというんです。ただ、この言葉には続きがあります。それが28節29節です。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 ここに軛という言葉が出てきます。軛とは何かといいますと、牛の首のところに取り付ける木なんです。こちらの写真のようにです。もう一枚の絵をご覧になるとわかりやすいと思います。このように牛の首のところに取り付ける。そしてこの軛に、棒を取り付けて、畑を耕すための鍬を取り付けて牛に引かせる。あるいは、荷車を引かせるようにするわけです。私が子供の時は、たしかに裏の田んぼで牛が田んぼを耕していましたが、このように軛を取り付けるわけです。
 そうすると私たちは不思議に思います。私たちはこの世の中で歩んでいて、重荷を負って疲れ果てる。言ってみれば、重い軛を取り付けられて重い荷車を引かせられている牛のような状態です。だから、そんな軛は全部棄ててしまったら、全然楽になると思う。しかしここでイエスさまは、その代わりにイエスさまの軛を負いなさいと言っておられるのです。そちらのほうが軽いから、と。私たちは、何も軛がない方が楽になると思っている。しかしイエスさまは、この世の軛を取り外して、イエスさまの軛を負いなさいとおっしゃっておられる。これはいったい、どういうことでしょうか?
 このことを考える時に、一つの証しをご紹介したいと思います。それは私の初任地の教会での出来事でした。過疎の地に立つその教会は、教会員が十数人という小さな教会でした。教会の歴史は長いのですが、何しろ北陸は浄土真宗王国ですから、キリスト教は極めて少数派ということになります。さて、ある時私は歯が痛くなりました。そうして歯医者さんに行きました。そうすると、その歯医者さんが教会に来るようになりました。そしてやがてイエスさまを信じて洗礼を受けました。そして、なぜ洗礼を受けたかということを、教会報に書きました。それは次のような内容です。
 彼は最初は歯科医という仕事が好きで、人のために仕事をしていると思っていました。ところがだんだん、自分の仕事に疑問を持つようになったんです。すなわち、人の虫歯やダメになった歯を抜いたり、削ったり、詰め物をしたりするということに疑問を持つようになったというんです。そういうことしないですむように歯を健康なまま保つことが本当ではないかと。同じ患者さんに感謝されるのなら、「先生のおかげでいい入れ歯が入った」と言われるより、「先生のおかげで入れ歯の世話にならないですんだ」と言われたいと思うようになったそうです。しかし来院する患者さんは、ただ虫歯を治療して詰め物をし、ダメになった歯を抜いて入れ歯を入れることを求めるだけ。自分の歯を大切にしようとしない。それで、人をいぶかしげに見るようになってしまった。
 また、患者さんが約束や時間を守らないことにも腹が立ったそうです。患者さんとは客と商店主という関係ではなく、対等に一対一の関係で付き合いたかったけれども、結局患者さんの客意識を払拭することができなかった。
 そういう中で自分の苦しみが増大していったそうです。それで苦しさ、むなしさを紛らわそうと快楽を求めるようになったそうです。飲む、打つ、買う‥‥の一通りのことに手を染めました。放蕩したそうです。家にいないことも多く、家人にもつらい思いをさせてしまったそうです。そうして、解決策もなく、イヤイヤながら仕事をし、惰性で夢も希望もなく生きていたそうです。思うとゾッとするような数年であったそうです。
 ところが、そんなとき、奇跡が起きたと、彼は証しの文章に書いています。神さまと出会ったと。彼はこう書いています。‥‥「それも神さまの方からわざわざ私を迎えに来てくださった。神さまが見るに見かねて小宮山先生を私に遣わしてくださった。そのことだけでも神さまが私を許そうとする大きな愛が見られる。私は心が砕けるように目が覚めた。時間はそれほど要らなかった。‥‥」
 彼はこのように、神さまが私を彼の所に遣わしてくださったと書いていますが、私はただ単に虫歯で歯が痛くなっただけです。それでその歯医者さんに行っただけです。私は、幼い時の恐い思い出で、歯医者さんに行くと心臓がドキドキしするんですね。ドキドキしながら診察台に座っていたんですが、その気難しそうな歯医者さんが、私の保険証を見て、驚いたようにして「あの、キリスト教の方ですか?」と尋ねたことを思い出します。保険証には、日本基督教団中部教区と書いてあったからそう尋ねたんですね。私が「ハイ」と答えると、「今度教会に行っても良いですか?」と尋ねてきた。ああ、あのとき彼はそういう心境だったのかと、あとから彼の証しを見てそう感慨深く思いました。私はただ単に歯が痛くなって歯医者さんに行っただけなのが、彼にとっては、神さまが会いに来てくれたと見えたのかと。あらためて、主のなさることの不思議さを思います。
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 そういうことを思い出します。彼は、自分の仕事が重荷になってしまった。疲れ果ててしまっていた。しかし、それはこの世の娯楽や快楽によっては、取り去ることはできなかったんです。ただキリストと出会うことによって、それは取り去られたんです。重荷を下ろすことができた。キリストという軛を負うことによって。
 そしてそれは彼に起きた出来事であっただけではなく、まさに私も体験したことでした。
 何も軛を負わなくなることが、平安で楽になることではありません。この世の重荷を下ろして何の軛も負わなくなると、そこにサタンがつけ込んでくるんですね。破壊的なものが入り込んできます。だから、この世の重荷を下ろし、代わりにイエスさまの軛を負うんです。それは荷が軽く、負いやすい軛だからです。イエスさまの軛を負う。それは、イエスさまを信じて、イエスさまと共に歩んでいくことです。


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