2020年1月12日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 創世記19章23〜26節
    マタイによる福音書11章20〜24節
●説教 「叱られて」

 
    町を叱る
 
 イエスさまが、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められたと書かれています。町が悔い改めなかったとは、町は人ではないわけですから、何かおかしな言い方のように聞こえますが、これは町を擬人化しているわけです。すなわち、あたかも町というものが一つの人格であるかのようにしておっしゃっています。
 このことは、とても印象的なことであろうと思います。なぜなら、私たちは信仰というものは個人のものであると思っているからです。神様とその人との、一対一の関係のものであって、他の人は関係ないというようにです。そのように信仰とは、個人の精神世界のものであると思われています。
 しかし、町が悔い改めなかったことを叱るということになりますと、それは町というのは多くの個人個人の集まりであるわけですから、それは私という個人の問題に留まらなくなります。信仰が私という個人の枠を超えて広がっていく。まわりへと波及して、社会が変わっていくようなことになる。少なくとも、イエスさまは、町がまるごと悔い改めて変えられるようなことを願っておられることが分かります。
 
    悔い改め
 
 次に、今日の箇所では、悔い改めたか、悔い改めないかということが問題にされているわけですが、ここで私たちがよく使うこの「悔い改め」という言葉について、もう一度その意味を確認しておきたいと思います。
 悔い改めとは何か?‥‥悔い改めというと、ふつう多くの人は謝ることだと思うでしょう。「すみませんでした」と。「ひどいことを言ってすみませんでした」「遅れてすみませんでした」「失敗してすみませんでした」‥‥という具合にです。つまり謝罪することが悔い改めだと思ってしまう。
 これが神様に対して謝罪するとなりますと、それはもう数え切れないぐらいの量となります。「あの人のことを悪く思ってすみませんでした」「腹を立ててすみませんでした」「困っている人を助けることができなくてすみませんでした」「いつも喜んでいなくて申し訳ありませんでした」「すべてのことについて感謝しなくてすみませんでした」‥‥と、もうこれは毎日たくさんのことを謝りながら生きなくてはならないでしょう。
 もちろん、神様に対して過ちを認めることは尊いことであるに違いありませんし、第一歩であろうかと思いますが、イエスさまのおっしゃる悔い改めとは、もっと人間の根本的なものについておっしゃっています。
 たとえば、私が若い頃、仕事用の自動車のタイヤが何かにぶつかったか、乗り上げたのだったか忘れましたが、とにかく衝撃によってハンドルが曲がってしまったんですね。曲がってしまったというのは、ふつう、自動車のハンドルは軽くまっすぐ持っていればまっすぐ進んでいくものですが、まっすぐ平行に握っていると左の方へ自然に行ってしまうようになりました。今の車はそんなものはないかもしれませんが、昔の車はそんなもので、それほど精密ではなかった。だから車をまっすぐ進ませようとしたら、やや力を入れて右に回し気味にしなければまっすぐ進まない。なぜまっすぐ進まないのか?それは運転手が悪いのではなくて、車が故障しているからです。結局、怖いから自動車屋さんで修理してもらいましたが。
 なぜ私たちが神様に対して罪を犯すのか。過ちを犯すのか。愛がないのか。‥‥それは、自動車が故障しているからまっすぐ進まないのと同じで、私たちが罪人であるから罪を犯すんです。罪を犯したから罪人になったのではないんです。罪人だから必然的に罪を犯すんです。がんばったら罪を犯さなくなるんじゃないんです。罪人だから必然的に罪を犯すんです。それが原罪というもので、私たちが生まれつき罪に傾く傾向があるんです。これが聖書の言っている罪です。それは自動車で言えば故障しているようなものです。
 故障しているならば、直してもらわなければなりません。同じように、私たちが本質的に罪人であることに気がついたのならば、それは治していただかなくてはならないのです。
 「悔い改め」という言葉のギリシャ語は「メタノオー」という言葉ですが、それは「心の向きを変える」「人生における考え方の根本を変える」という意味があります。つまり、私たちがキリストの方を向くんですね。自分で自分を変えることができないから、キリストによって自分を変えていただくんです。自分中心からキリスト中心の世界へ移るんです。自分の力で生きるというよりも、キリストの力によって生きる。そのように心の向きを変える。それが悔い改めです。
 ここで叱られている町は、数多くのイエスさまの奇跡を見てきたはずです。病が癒され、悪霊が追放される。それは神様しかできないことです。そのように、自分では変えることのできない自分を、キリストによって変えていただくんです。それこそが奇跡です。
 
    叱られた町
 
 ここで町の名前が挙げられています。そして、叱られているのは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムです。いずれも異邦人ではなく、真の神を知っているはずのユダヤ人、すなわちイスラエル人の町です。そしていずれも、これまでイエスさまが福音を宣べ伝え、病の癒やしや盲人の癒し、口の利けない人の癒し、悪霊を追放するといった奇跡をなさってこられた町です。
 これらの町の人々は、そのようなイエスさまの様々な奇跡を見てきたはずです。そしてイエスさまを求めて集まって来たではなかったでしょうか。しかしそういう奇跡を体験し、あるいは間近で見たにもかかわらず、悔い改めることをしなかったという。イエスさまからご利益だけいただいて、それで終わり。自分自身が変わりたいとは思わなかった。そうは願わなかった。自分はこのままで良い。イエスさまからご利益だけを受け取れば良い‥‥。そういうことです。キリストによって生きるという方向転換を願わなかったんです。
 
    神の裁き
 
 今日の箇所で、イエスさまがお叱りになったコラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウムの町をお叱りになる一方で、他に三つの町の名前を挙げておられます。21節でティルスとシドン、そして24節でソドムです。興味深いことに、この三つの町はいずれも異邦人の町、外国人の町です。つまり真の神さまを知らない人たちの町なんです。そして、それら三つの異邦人の町よりも、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムといった真の神を知り、イエスさまの奇跡がなされたはずのイスラエル人の町のほうが厳しいさばきを受けるということをおっしゃっておられるのです。
 つまり、真の神さまを知っていて、しかもイエスさまの働きを見てきた町の方が、真の神を知らず、イエスさまが行かれていない町よりも厳しいさばきを受けるというんです。
 聖書をはじめから読んでまいりますと、聖書の歴史は、罪に転落した人間を救おうとなさる神様の歴史であることが分かります。そして罪人である私たち人間をお救いになるために、預言者たちの預言通り、神の御子イエスさまが来られた。でもそのイエスさまを信じようとしなかった。自分を変えてくださるように、身をゆだねることをしなかった。つまり悔い改めなかった。そうすると、もうあとはないということでもあります。
 
    罰はキリストが
 
 23〜24節には、あの旧約聖書に出てくる有名なソドムの町の名前が挙げられています。イエスさまの時代には、もうこの町はありません。とっくの昔に滅びてしまっているからです。その出来事は、旧約聖書の創世記19章に書かれています。先ほど読んでいただいた創世記19章23〜26節は、まさにそのソドムの町が滅亡した瞬間のことが書かれています。たいへん恐ろしい光景です。
 しかしイエスさまがおっしゃるには、イエスさまの奇跡を見てきたカファルナウムの町に下される神の罰に比べたら、ソドムの町に下される罰のほうが軽く済むとおっしゃっています。ソドムのほうが軽い罰と言っても、そのソドムは町が全滅したんです。だからそれよりも重い罰となるというと、想像もつきません。結局は、軽くても滅びる。重くても滅びる。どっちにしても滅びるしかないということになります。
 どっちみち滅びる。すなわち私たちも滅びる。そんなにも私たち人間の罪は重いということです。ではどうすればよいというのか。その答えは、この言葉をおっしゃったイエスさまが、どこに向かって歩んでおられるかということに答えがあります。イエスさまは、結局人々がイエスさまを心から受け入れなかったということの中で、どこに向かって歩みを続けておられるか?
 それは十字架です。十字架へ向かって歩んでおられる。そこに答えがあります。そして十字架へおつきになって、ご自分の命を捨てられました。私たちの代わりに罰を受けて下さるんです。私たちの罪が軽くても滅び、重くても滅び、結局滅びるしかない。その罪をイエスさまが十字架にかかられて、私たちの代わりに背負われる。そういう出来事へ向かっておられるんです。私たちの代わりに滅びて下さる。
 それが神の愛、キリストの愛です。そのキリストの愛を信じるように、私たちは招かれている。その招きに応えることが悔い改めです。
 
    一人の大きさ
 
 今日の説教の最初に、イエスさまが町をお叱りになったことを述べました。
 ソドムの町が滅びる前、ソドムの町を滅ぼしに行こうとする天の御使いとアブラハムの間の問答が創世記16:16〜33に記されています。その32〜33節で、アブラハムは御使いに対してこのように尋ねました。
(創世記 18:32〜33)"アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」"
 この「主」は御使いを指しています。ソドムの町に10人の正しい人がいたとしたら、主はソドムを滅ぼさないと言われたんです。実はこの問答には、その前のところから始まっていまして、アブラハムは御使いに対して、「その町に50人の正しい者がいたとしても滅ぼすのですか?」と問うているところから始まっているんです。そうすると主は、「50人いたら滅ぼさない」と言われました。続いてアブラハムは、では45人しか正しい者がいなかったとしたらどうか、40人ならどうか、30人ならどうか、20人ならどうか、と尋ねているんです。そしていずれも、主は滅ぼさないとお答えになっています。そして、では10人ならと最後に尋ねたわけです。そして10人正しい者がいたら滅ぼさないという答えだった。
 私は、アブラハムがあきらめずに、「では一人しか正しい者、主を信じる者がいなかったとしたらどうか?」と尋ねたら、主はどうお答えになったのかなと思ったりします。
 私が輪島教会の牧師をしている時のことでした。輪島は能登半島の北のはずれにありますが、そこから海岸沿いに西に向かって南下していくと、富来という町がありました。その富来には私たち日本キリスト教団の無人の伝道所があります。当時はまだ一般の民家を伝道所にしたものでした。その民家は、その町の信徒だった人が都会に引っ越す時に、自分の家を教会に譲ったものでした。その富来伝道所は牧師がいませんから、輪島教会の牧師と羽咋教会の牧師が毎週交代で、日曜日の夕方に出かけて行って、礼拝を守っていました。ですから私も、一週おきに富来伝道所の夕礼拝に説教に出かけて行きました。それは輪島教会のとなりの伝道所ということになりますが、車で1時間かかるんです。それぐらいのと半島は広くて、しかも人が少なく、教会はもっと少ないんです。
 その富来伝道所の夕方の礼拝に来る人は、一人でした。つまり、牧師と一対一の礼拝ということになります。実際は私は、妻とまだ小さかった我が子を連れて行きましたが、富来の町の礼拝者はたった一人でした。毎週そうです。しかしこの一人がいるから、日曜日の礼拝をこの町で守ることができる。そのことを感慨深く思ったものでした。都会の人が見たら、「たった一人」かもしれません。しかしそれは貴重な一人、尊い一人です。主はその町を救うために、その一人を置いておられると思いました。
 私たちの逗子教会。主は、同じようにこの町を救うためにこの教会を置いておられるということができます。そのために、このまったく無力な私たちをここに導いて下さっている。これはまさにこの地域を救おうとされる主の愛から出たものです。


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