2019年12月29日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 イザヤ書65章1節
    マタイによる福音書11章7〜15節
●説教 「天の国の争奪戦」

 
    新時代
 
 今年も最後の日曜日を迎えました。先週のクリスマスイブ礼拝は、平日だったので来る人も少ないのでは?などと思いましたが、フタを開けてみれば多くの人が来場されました。教会員よりも、そうではない方のほうが圧倒的に多いというのは例年の通りでした。そのように、主が私たちのまだ知らない人たちを招いてくださったことを、とてもうれしく思いました。
 さて、この一年もいろいろなことがありました。秋には、この私たちのところも二つの台風が直撃するということもありました。読売新聞の10大ニュースでは、トップは天皇陛下が交代し、元号が令和に変わったことが選ばれていました。元号が平成から令和に変わる前は「平成最後の○○」という言葉が流行りました。そして5月1日に令和に変わってからは「令和最初の○○」という言葉が流行りました。そしてこのニュースが今年の国内のニュースのトップに選ばれるということは、やはりそこに少しでも良い時代になることを期待する国民の気持ちが表れているのだと思います。この閉塞した状況が好転して、新しい良い時代が来ることを願う。それは毎年、新年を迎える時も同じではないかと思います。
 本日の聖書箇所も、新しい時代が到来したことが語られています。それは今までと異なる、大きな時代の転換点です。しかも神さまがそうなさるという、とてつもない大きな出来事に触れられています。
 
    洗礼者ヨハネについて
 
 前回、イエスさまに洗礼を授けた洗礼者ヨハネが、獄中から自分の弟子を遣わして、イエスさまに尋ねさせたというところを読みました。その質問とは、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも他の方を待たなければなりませんか」というものでした。「来たるべき方」とは、メシア、すなわちキリスト、救い主のことです。洗礼者ヨハネという人は、一番先にイエスさまがキリストであることを証言した人です。それなのに、今やイエスさまが本当にキリストであるかどうか、分からなくなってしまっている。その理由は、自分が期待したキリストの姿と、実際のイエスさまがなさっていることが違っていることにあった、ということを前回お話しいたしました。それでヨハネはイエスさまにつまずいたんです。動揺したのであります。
 洗礼者ヨハネという人は、当時のユダヤの民衆から尊敬され、預言者であるとみなされていました。神に従う正しい人であると思われていました。世の多くの人々が、まだ「イエスは何ものか?」と思っている時に、ヨハネはイエスさまが来たるべきキリストであることを証言した。なのにそのヨハネが今や動揺して、イエスさまが本当にキリストであるかどうか分からなくなっている。これはイエスさまからしたら、ちょっと寂しいことではなかったかと、私は思うのです。
 しかしイエスさまは、そのヨハネという人を正しく評価しています。ヨハネもまた神によって用いられた人であるということを明らかになさっています。
 そしてここからは、ヨハネも想像しなかったような、つまり人間の想像を超えたようなイエスさまの歩みが展開していく。だからヨハネが動揺しているのも無理はないということになるでしょう。それはついには十字架に行き着くのです。いわばそんなことをイエスさまは思われながら、今日の言葉を語っておられると思います。
 
    何を見に行ったのか
 
 イエスさまは集まっている人々に問いかけます。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか?」と。
 これは洗礼者ヨハネを見に行ったことを指しています。ヨハネは、荒れ野の中を流れるヨルダン川で、人々に洗礼を授けていました。悔い改めの洗礼です。それで多くの民衆が、ヨハネのもとへ出かけて行きました。それは何をしにいったのかと、問いかけておられるのです。
 「あなたがたは、何を見に荒れ野に行ったのか。風にそよぐ葦か?」‥‥荒れ野の中を流れるヨルダン川には、岸辺にたくさんの葦が生えていたことでしょう。まさかそれを見に行ったのではあるまい。イエスさまはそのようにおっしゃっています。
 続けて、「しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。」‥‥ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べ物としていた」と聖書に書かれています。らくだの毛衣がしなやかかどうか、私は知りませんが、しなやかな服を見に行ったわけでもあるまいと。
 「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者だ。」
 預言者とは、聖書では神の言葉を預かる者と書きます。つまり預言者は、自分の勝手な言葉を語るのではなくて、神さまの言葉を取り次ぐ人ということです。聖書で各預言者という言葉は、世間一般で書く予言者は、予告の予という漢字を当てていますので、字が違っています。しかしでは聖書の預言者が、未来のことを予告しないかと言えばそうではなく、やはり未来のことを予告するのが主な預言です。ただそれは神から与えられた限りにおいて、語るということです。
 つまりイエスさまは、「あなたがたは預言者としてのヨハネの所に行ったのではなかったのか」とおっしゃっているんです。神の言葉を聞くために、神の預言を聞くために、荒れ野にいるヨハネの所に出かけて行ったのではなかったか、と。
 これは教会に行く人にも当てはまることではないかと思います。逗子教会の礼拝に来る人の中で、小宮山牧師を見に来るという人は一人もいないでしょう。そんなものを見ても何の得にもなりません。何か面白い話を聞くために来るということでもないでしょう。面白い話を聞きたいのであれば、落語や漫才を上演している寄席にでも行けば済むことです。立派な建物を見に来るというわけでもないでしょう。そのようなものは、この世の中にいくらでもあるからです。では何をしに教会に行くかと言えば、それは神に会うために、キリストに会うために行くということでしょう。神の言葉の中に現れる神とキリストに会うために出かける。結局、それら以外の目的で通っていると、やがて去って行くことになります。
 そのように、イエスさまの目の前に集まっている民衆は、かつて神の言葉を聞くために、洗礼者ヨハネの所に行ったのではなかったかと、イエスさまは思い起こさせているのです。神の預言を聞くために行ったのではなかったか。神の言葉をヨハネに求めていたのではなかったか、と。
 これは、私たちの信仰を呼び覚まそうとするお言葉にも聞こえます。私たちも、ともすると信仰生活がマンネリ化してしまい、なんとなく礼拝に通っているような状態になってしまうことがあります。そのような時、イエスさまの言葉が響いてきます。「あなたがたは何を見に荒れ野に行ったのか?」と。
 ここでイエスさまは、洗礼者ヨハネが「預言者以上の者である」とおっしゃっています。旧約聖書には、多くの預言者が登場いたします。モーセから始まって、サムエル、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、アモス、ダニエル‥‥などなどです。それらの預言者に比べて、洗礼者ヨハネが「預言者以上の者である」と言われるのはなぜなのか?‥‥それは、ヨハネは直接キリストを見て、証言したからです。イエスさまに洗礼を授け、イエスさまがキリストであることを証言したからです。
 歴代の預言者たちも、キリストを予言してきた。その最後の旧約の預言者として洗礼者ヨハネは現れ、ついにこの方=イエスさまこそ救い主であり神の子であることを指し示した。そのことにおいて、最も大いなる預言者とされている。すなわち、すべてはイエス・キリストへと向かっている。それはそこに私たちの救いのすべてがあるからです。
 
    来たるべきエリヤ
 
 きょうの聖書の最後のところ、14節でイエスさまが語っておられます。「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」
 これは、旧約聖書の一番最後の言葉と関係しています。旧約聖書の一番最後意の書物は、マラキ書という預言書です。その最後の最後の個所にこう書かれています。
(マラキ書3:23〜24/旧約聖書の最後)
「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日の来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。」
 ここでいう「わたし」とは主なる神さまのことです。神さまが、あの有名な預言者エリヤを再びこの地上に遣わすと。そして、父なる神の心を子なる人間に向けさせ、子なる人間の心を父なる神に向けさせる。それは、神がこの世界の人々を罰して滅ぼすことがないようにと。
 神は、この世界を良い世界としてお造りになりました。人間も良く造られました。しかしその人間が神にそむいて罪を犯し、以来この世界は罪の世界となりました。愛を失い、平安を失い、傷つけあい、憎しみ合い、苦しみの渦巻く世界となってしまいました。それを神は裁いて滅ぼす。破滅させる。‥‥しかしそうならないために、もう一度預言者エリヤを神はお遣わしになるという予言で旧約聖書は閉じられています。
 そしてそのエリヤが洗礼者ヨハネであると、イエスさまはおっしゃっておられます。そしてそのヨハネがしたことが、イエスさまが救い主であることを指し示すことであったのです。
 
    襲われる天国
 
 そのキリストを指し示す最後の預言者となった洗礼者ヨハネですが、天の国で最も小さな者でも、そのヨハネより偉大であると言われています。
 なぜ天の国にいる最も小さな者でも、ヨハネより偉大なのか。「偉大」というと何か立派であるというような意味になりますが、この「偉大」という言葉は、メガというギリシャ語です。メガというのは、「メガトン級」とか「メガバイト」というように使われる「メガ」で、要するに巨大であるという意味です。大きな大きな出来事なんですね。
 なぜ天の国にいる人が、そんなに巨大なのか。言い換えれば大きなことなのか。それは、天の国にいる人は、イエスさまと共にいるからです。イエスさまと共にいるところが天の国なのであって、歴代の預言者たちがかすかに指し示し、洗礼者ヨハネがその救い主キリストはイエスさまであると指し示したそのキリストと、もう共にいるから大きな大きなことであるということになります。
 私たちはそのイエスさまを信じることによって、もはや天の国の住人です。イエスさまと共にいる。すなわち、メガになっている。神さまが望んだ大きなことがそこで果たされているんです。本来ならば、罪人であって、神の怒りによって討たれて滅びてしまって当然の私たちが、イエスさまによって救われ、神さまから見て大きな存在とされている。これは、メガトン級の出来事であるというんです。そのためにイエスさまが十字架にかかってくださったからです。
 12節では、「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」と言われています。天の国が力ずくで襲われているというのは、どういうことだろうかと思いますが、これは「天の国を熱心に求める人々が殺到している」ということのたとえの言い方でしょう。
 洗礼者ヨハネが現れるまで、人々にとって天の国、神の国というのは、何か遠い遠い世界の出来事に思われたことでしょう。自分たちとは関係のない、聖人君子のような人たちの行くところだと思われていた。しかしヨハネが指し示したキリストによって、今はそれは私たちのすぐそばに来ていることが分かった。イエスさまと共に、すぐそばまで来ている。そしてその天の国に入るには、なにか特別なことをしなければならないというのではありません。苦行や難行をしなければならないのでもない。善行を積まないあなたはダメだというのでもない。こんな私でも天の国に入れてくださるというイエスさまを信じるだけです。イエスさまを信じて、新しい世界に生きるんです。
 
 この一年を振り返って、不本意であったという人もいるかもしれません。思うように行かなかったという人もいるかもしれません。しかし、今わたしたちがあらためてイエスさまを信じるならば、また新しい恵みの世界が始まるんです。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」と主イエスは尋ねられました。私たちは、何を見に教会に来ているのか。それはキリストと会うために来ている。あらためてイエスさまと共に、歩んでまいりたいと思います。


[説教の見出しページに戻る]