2019年12月15日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 詩編96編13
    マタイによる福音書11章1〜6節
●説教 「質問と答え」

 
    洗礼者ヨハネの動揺
 
 本日の聖書箇所では、久しぶりに洗礼者ヨハネが登場いたします。登場したと思ったら、牢屋の中です。なぜ牢屋に入れられたのかといいますと、それは領主であるヘロデ(アンティパス)が、自分の異母兄弟のヘロデ・ピリポの妻ヘロディアを自分の妻にしたことについて、ヨハネは、それが律法に反していると批判したからです。殿様を非難したわけです。それで殿様であるヘロデ・アンティパスは、ヨハネを獄に入れたのでした。このことについては、またこの福音書の後のほうで出てきます。
 その洗礼者ヨハネが、自分の弟子たちをイエスさまの所に遣わして、尋ねたというのです。「来たるべきお方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか?」と。ここで「来たるべきお方」とは、聖書において来ることが予言されているメシア、すなわちキリストのことです。ですから、洗礼者ヨハネのイエスさまに対する問いは、「キリストはあなたですか、それとも他の人を待たなければなりませんか?」というものであったわけです。
 
    ヨハネという人
 
 洗礼者ヨハネについては、このマタイによる福音書では3章に出てきました。と申しますよりも、そもそも洗礼者ヨハネは、新約聖書の4つの福音書のすべてに出てきます。しかも、イエスさまが福音宣教を始める前に出てきます。つまり、この洗礼者ヨハネという人は、イエスさまのことを語る時に、なくてはならない人だということになります。
 ヨハネはイエスさまに洗礼を授けた人です。そしてヨハネは、人々に悔い改めをうながし、ヨルダン川で洗礼を授けていた人です。そしてヨハネは預言者でもありました。救いを求めていた人々は、ヨハネから洗礼を受けるために、続々とヨルダン川に集まっていました。中には、この洗礼者ヨハネがキリストではないか、と思う人もいました。しかしヨハネ自身が言いました。
(マタイ3:11-12)「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
 ヨハネは、自分はキリストではなく、自分の後から来られる方、その方がキリストであると言いました。そうして洗礼者ヨハネは、イエスさまがキリストであることを証言いたしました。
 ヨハネによる福音書1:29では、次のように書かれています。‥‥“その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしより先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」”‥‥ヨハネはイエスさまを指して、そのように言ったのです。
 さらにそのあとのところで洗礼者ヨハネは語りました。(ヨハネ1:34)「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」 そのように、洗礼者ヨハネは、まだ誰もイエスさまが何者であるかということさえ知らない時に、イエスさまが神の子でありキリストであることを証言した人です。
 
    つまづいたヨハネ
 
 ところがきょうの聖書箇所では、そのヨハネが弟子を使わして、イエスさまに対して「来たるべき方は、あなたでしょうか?それとも、他の方を待たなければなりませんか?」と尋ねている。イエスさまという方が本当にキリストであるのかどうか分からなくなってしまっているんです! 最初に、イエスさまが神の子救い主キリストであることを力強く証言したヨハネが、今や分からなくなってしまっている。いったいなぜでしょうか?
 きょうの聖書を見ると、2節に「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いて‥‥」と書かれています。マタイによる福音書のいつもの書き方ならば、この2節は「ヨハネは牢の中で、イエスのなさったことを聞いて‥‥」と書くでしょう。それをわざわざイエスさまのことを「キリスト」と書いている。これは、かつてヨハネがイエスさまのことをキリストだと証しした、そのイエスさまがキリストであるかどうか分からなくなってしまっている、ということを強調しているわけです。
 いったいヨハネは、どうしてしまったというんでしょうか?? なぜヨハネは、イエスさまがキリストであることが分からなくなってしまったのか?‥‥それは、ヨハネが期待していたキリストと、実際のイエスさまの言動が違ったということに尽きるでしょう。
 では洗礼者ヨハネが期待していたキリストの姿とは、どういうものだったのでしょうか。それはすでに引用しましたマタイによる福音書3章11〜12で、ヨハネ自身が語っていました。‥‥「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
 この言葉を見ますと、洗礼者ヨハネは、キリストという方が、この世の人々に審判を下して、神にそむく悪い人を地獄に落とすのだと‥‥そのようにしてこの世に神の国をもたらすのだと、そう信じていたようです。そして、イエスさまがそのように神の権威をもって、悪を成敗するのだと期待した。ところが、実際のイエスさまはそうではなかった。「なぜ、イエスはこの世を裁かないのか?悪を行う者を裁いて、地獄に落とさないのか?なぜ決起しないのか?‥‥」そのように疑問に思えてきたのでしょう。そして、一度はイエスがキリストであると断言したけれども、本当にそうなのかどうなのか分からなくなってしまった。そういうことだと思います。
 ヨハネの質問に対して、イエスさまは4節のように答えておられます。‥‥「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
 シュラッターという聖書学者がいましたが、彼はヨハネがつまずいたことについて、「イエスの低さが彼を動揺させたのである」と本に書いています。イエスさまは、ヨハネの期待と違って、人々に仕えておられる。低くへりくだって、仕えておられる。その姿がヨハネには理解できなかったのでしょう。
 イエスさまは、ヨハネの問いに対して「わたしがキリストである」とは言わなかった。つまり直接答えませんでした。代わりに、イエスさまのなさっていることを見たままのとおりヨハネに伝えるように、ヨハネの弟子たちに告げたのです。そしてヨハネ自身が考えるようにさせた。イエスさまは、悪を断罪し、神にそむく者を裁いて地獄に落としていない。代わりに、目の見えない人を見えるようにし、病気の人をいやしている。貧しい人は、神の国の良き知らせを聞いている。それを見聞きして、あなた自身が判断しなさいと。イエスさまは、押しつけないのです。自分で考えて判断するように導かれます。
 旧約聖書の預言には、たしかにメシア(キリスト)は、世の終わりに現れて、世界の人々を裁かれるということが予言されています。しかし一方で、たとえばイザヤ書35章5〜6節に予言されいることはこうです。‥‥「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。」
 まさにイエスさまがなさっていることではありませんか。メシア=キリストは、このような方であるとそこに書いてある。しかし、ヨハネはこのことがまだ理解できなかったのでしょう。
 
    キリストの審判
 
 しかし、たしかにキリストが神にそむく者、悪人を裁かれるということも起きたのです。審判が起こったのです。ついに神が罪人を裁かれるということが起こった。それが十字架です。イエスさまご自身が十字架にかかって、神のさばきを受けてくださった。本来なら、罪人である私たちが神のさばきを受けるべきところを、イエスさまが私たちに代わって受けてくださった。それが十字架です。こうして、救い主キリストが、まことに私たちの救い主であることが、やがて明らかとなるんです。
 
    私たちはつまずかないだろうか?
 
 さて、先ほど述べましたように、イエスさまがキリストであることを証ししたはずの洗礼者ヨハネが、イエスさまに動揺し、つまずきました。ヨハネの期待するキリストと、実際のイエスさまのなさることが違ったから、ヨハネはつまずきました。
 そのように、人は、イエスさまに様々なことを期待いたします。そしてつまずきます。
 私自身もつまずきました。高校生の時まで教会の礼拝に通っていた私でしたが、郷里を離れ、大学生になってまもなくつまずきました。なぜつまずいたか。それは大学で、ひどい目に遭わされた心理学の教授が、あるとき教会に行ってみると隣の席に座っている。礼拝が終わってから、その教会の牧師に聞いてみると、その教授はその教会の長老さんだという。私は腹が立って、そんな人が嘲弄をしているような教会は二度といかないと思って、教会を出て行きました。それ以来、大学生時代は教会に通うことがありませんでした。
 ずっとあとになり、牧師になってから、その出来事を、ある先輩牧師に話しました。するとその先輩は、「それはイエスさまにつまずいたんだね」と言いました。私はそれまで長い間、その教授につまずいたと思っていました。しかしその先輩は、私はイエスさまにつまずいたのだと言いました。つまり、「その困った教授を教会に受け入れておられるイエスさまにつまずいたのだ」とその先輩はわたしに言ったのです。私は、ハッとしました。そうです。私はイエスさまにつまずいたのです。そんな人でも受け入れておられるイエスさまにつまずいた。たしかにそうでした。
 それは私についても言えるかもしれません。私のような、不十分な者を牧師として立てておられるイエスさまにつまずく方が、この中にもおられるかもしれません。
 私はたしかにイエスさまにつまずいたんです。そして教会を離れた。それは言ってみれば、私の期待したイエスさまと、実際のイエスさまが違ったからだと言えるでしょう。しかしそのようにしてつまずいた私を、イエスさまは時を掛けてまた教会へ連れ戻してくださいました。感謝というほかはありません。
 
 人は、思い思いのことをイエスさまに期待いたします。そして、自分の期待するイエスさまと実際のイエスさまが違ったと言って、イエスさまのもとを去って行く人がたくさんいるように思います。
 あるいは逆に、イエスさまのことを本来とは違う存在に変えてしまう人もいます。つまり自分の思い通りのキリストに変えてしまうということをすることもある。
 ある人は、イエスさまは神の子ではなく、単なる人間であるとします。イエスさまは奇跡を行わず、復活もしなかったと言います。その代わりにイエスは、社会的な弱者に寄り添い、救済するために働いた革命家のような存在であり、私たちもそれに習うべきであると説きます。
 またある人は、イエスさまの働きは、捕らえられて十字架にかけられて、挫折してしまったと説きます。十字架は救いではなく、失敗であり挫折であると言うんです。
 そして、イエスさまの弟子たちでさえも、最後はイエスさまを見捨てました。これも、彼らが期待したキリスト像と、実際のイエスさまの姿が違ったからだと言うことができます。そのように、人はそれぞれ思い思いのことをイエスさまに期待し、想像し、そして違ったと言って去って行きます。つまずきます。そして本当のイエスさまに出会うことができなくなってしまう。
 
    ひたすらイエスに聴き従う
 
 しかし、そのように弱く自分勝手な私たちを、イエスさまは見捨てることなく導いてくださいます。イエスさまを見捨てた12弟子のところに、復活したイエスさまが再び来てくださったのがその証拠です。
 様々な疑問がある。分からないこともある。しかしそのような疑問も含めて、そういう自分をまるごとイエスさまにゆだねて、イエスさまに付き従っていく。「わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃったイエスさまに。みことばに耳を傾けながら、歩んでいく。そうすると、そこに新しい発見がある。イエスさまについて、全く新しい恵みに目が開かれる。そういうことが起こります。そこに喜びと楽しみがあります。


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