2019年12月8日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ルツ記2章8〜9
    マタイによる福音書10章40〜42
●説教 「一杯の水」

 
    中村哲医師死去
 
 皆さんニュースでご存じかと思いますが、先週、アフガニスタンで現地の人々のために働いてこられた医者の中村哲さんが、武装集団に銃撃されて亡くなりました。73歳だったということです。中村さんはクリスチャンでした。中村さんは1982年に、ネパールの山岳地帯で医療活動を続けておられた医師の岩村昇さんの講演を聞いたのがきっかけで、1984年にJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)によって、パキスタン北西部のペシャワール・ミッション病院に派遣されました。以来、パキスタン、そしてアフガニスタンで医療活動、さらには農業用水路の建設など、現地における農業の振興に携わってこられました。
 アフガニスタンと言えば、世界で最も危険な国のうちの一つです。外務省の海外安全情報によれば、レベル4です。レベル4とは、その国に行くことをやめることと、その国に現在いる日本人は退去することが勧告されます。なぜそんなに危険な国になったかということは省略いたしますが、現在もアメリカなどが支援する現政権と、前の政権であったタリバン、そしてイスラム国などの勢力が血みどろの内戦を繰り広げている状況です。
 なぜ中村さんはそのような危険な国で活動されていたかと言えば、アフガニスタンが世界で最も貧しい国の一つであったことがあると言えるでしょう。もっともそういう大きなことではなく、中村さんにとっては目の前の人を助けたいという素朴な気持ちからだったようです。そして医師でありながら、なぜ農業支援、とくに用水路を作って畑を作るというような活動をされていたかと言えば、人々が貧しいがゆえに武装勢力に加わってしまうという状況を見たからだそうです。アフガニスタンの大部分は乾燥地であり、しかも砂漠化が進んでいるそうです。その乾燥地に井戸を掘ったり、用水を整備して畑を作る。そうして農業で暮らせるようにすることが、根本的な紛争の解決につながると考えたそうです。
 中村さんの働きは、アフガニスタンの人々の間でも多くの共感を呼び、敵味方を超えて慕われていました。そういう働きを、銃弾が飛び、爆撃が行われるという紛争地で続けてきたわけです。昨年にはアフガニスタンの国家の勲章、ついこのあいだはアフガニスタンの名誉市民権を与えられたばかりでした。現地では市民による追悼の集会が開かれたとのことです。
 中村さんは1946年、福岡市に生まれ、西南学院中学3年生のとき、日本バプテスト連盟・香住ヵ丘(かすみがおか)バプテスト教会で洗礼を受けました。内村鑑三『後世への最大遺物』を読んで、「自分の将来を日本のために捧げる」という使命感を持ち、またマタイ福音書の「山上の説教」は暗記するほど読んだということです。
 中村哲さんを殺害した人たちは、どうしてこんなことをしたのかという悲しい気持ちになります。また、日本ではクリスチャンは少ないですが、やはりこういうところでクリスチャンが良い働きをしているなと思いました。それはやはり、主が用いておられると言うことができます。
 
     弟子を受け入れる人は神を受け入れる
 
 本日の聖書箇所です。イエスさまがおっしゃいました。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」
 ここで「あなたがた」というのは、直接にはイエスさまの目の前にいる12使徒を指しています。使徒たちは、イエスさまによる神の国の福音を宣べ伝えていきます。その使徒たちを受け入れる人は、イエスさまを受け入れるということであり、イエスさまを受け入れるということは、イエスさまを遣わされた父なる神さまを受け入れるということである、と。そう言われています。つまり、使徒たちを受け入れるということは、神さまを受け入れるということであるということです。これはすごいことに違いないと思います。
 これは、使徒たちは神の国の大使であるということができます。大使というのはその国の代表ですね。その国の大統領や首相の代理です。ですから使徒たちはイエスさまの代理であり、神さまの代理であるということになります。
 そしてこのことは、使徒たちに限りません。42節に「わたしの弟子だという理由で」とイエスさまがおっしゃっていますが、弟子というのは、使徒言行録を思い出してもらいたいんですが、クリスチャンのことを聖書では弟子と言っています。ですから、私たちがイエスさまを信じているということは主の弟子です。
 そうすると、私たちにはとてもイエスさま、神さまの代理が務まるはずがありません。私たちはイエスさま、神さまとは似ても似つかないからです。しかし、わたしたちが聞いているみことばは、間違いなくイエスさまの御言葉であり、神さまの御言葉です。そういうイエスさまのメッセージ、神さまのメッセージをいただいているという点においては、たしかに伝言をあずかった代理であり、大使のような者だと言えます。そのようにキリストの弟子を受け入れる人は、イエスさまを受け入れるのであり、それはすなわち父なる神さまを受け入れるのであると言われます。
 さらに41節で、「預言者を預言者として受け入れる人は」とありますが、預言者というのは神さまの言葉を預かる人です。私たちも神さまの言葉をあずかっている。また、「正しい者を正しい者として受け入れる人は」と言われていますが、私たちは正しい者でしょうか?‥‥もちろん、私たちは罪人であり正しい人ではありません。ですけれども、その罪人の私たちがイエスさまによって罪が赦されて、正しい者と見なされるという奇跡が起きるわけです。そうするとここも、私たちが聖書を通して主の御言葉をあずかり、本来は罪人であるけれどもキリストによって正しい者と見なされた者であるのですから、その私たちを受け入れる人は、私たちと同じ報いを受けるということにもなるかと思います。
 
    ここまでの苦難の予告
 
 さて、今日のイエスさまの言葉は、10章に入ったところから続いているお話しの締めくくりとなっています。10章では、12弟子を選ぶところから始まっていました。そしてその12人を、方々の町や村へ派遣するに当たって、イエスさまが教えを述べられていました。
 そこをちょっと振り返ってみますと‥‥16節では、弟子たちを遣わすということは「狼の群れの中に羊を送り込むようなものだ」と言われました。狼の群れの中に羊を送り込んだらどのような結果になるのかは、皆さんの想像の通りです。また22節では「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と言われ、24節では「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われる」と言われました。ベルゼブルというのは悪霊のかしらの名前です。さらに28節では「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われました。36節では「こうして、自分の家族の者が敵となる」。39節では、「自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
 ‥‥なにか、さんざんという感じがするのではないでしょうか。迫害され、憎まれ、命すら落としかねない。しかしそんなことを恐れるな、永遠の命を得るのだから、と。何か悲壮感さえ漂い、この世では良いことはあまりないかのように聞こえたかもしれません。
 
    冷たい水一杯
 
 しかしどうでしょう。42節では「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」そう言われています。
 私が初めてイスラエルに行きましたときは、8月上旬の夏真っ盛りの時でした。と言っても、エルサレムのあたりは標高が高いことと、また乾燥地ですから、からっとした暑さです。日射しは強いが、日陰に入ると涼しい感じがします。しかし乾燥地ですので、とにかくのどが渇いていなくても水を飲みなさいとガイドさんに言われました。そうでないと脱水症状を起こしてしまうかもしれないそうです。それでペットボトルの水を買って、1時間おきぐらいに水を飲んでいました。ところがしばらくして、わたしたちが持っている水がなくなってしまいました。するとそれを見ていたのでしょう。道ばたにいたアラブ人と思われる男の人が、自分が持っていた、まだ封の切っていないペットボトルの水をくれたんですね。もちろん全然知らない人です。当たり前ですが。サッと、差し出してくれた。どこにでも親切な人はいるもんだなあと思い、感謝してそれをいただきました。
 まあ、この場合は私たちは単なる巡礼の旅人であり、水を渡してくれた方は、私たちがクリスチャンであるということも分からなかっただろうと思いますが。
 ここで「冷たい水一杯」とイエスさまがおっしゃっていますね。単に「水一杯」というのではなく、「冷たい水一杯」。この表現で、このことをおっしゃったときはたぶん夏だったんだろうなあという情景が浮かびますし、冷たいということから、くみ置きした水ではなくて、たった今、井戸から汲んだ水なんだろうな、ということが想像できます。リアルな印象がします。
 「この小さな者の一人」と言われていますが、「小さな」という言葉は、ギリシャ語ではミクロンです。あの小さな単位を表すミクロン。1ミリの千分の一という小ささです。そしてこの小さな者とはキリストの弟子のことを指しています。つまり私たちもその小さな者です。小さいと言ってミクロン、1ミリの千分の一ですから、肉眼では見えません。そんなに小さな私たちです。しかしそんなに小さな私たちであり、無視してもいいぐらいの小ささなんですが、イエスさまはちゃんと見ていてくださる。そればかりか、その小さな小さな私たちに、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人に報いてくださるというのです。
 この「報い」という言葉ですが、日本語では報いという言葉は、悪い報いなのか良い報いなのかどちらにもとれます。「苦労が報われる」という場合の報いは良い報いですし、「悪行の報いを受ける」と言えば、それは悪い報いです。ギリシャ語も同じでして、報いという言葉だけでは良い報いなのか悪い報いなのか区別がつきませんが、ここでは文脈から言って、当然良い報いのことを言っています。それは、41節の、預言者と同じ報いを受けるの「報い」であり、「正しい者と同じ報いを受ける」の報いです。
 ですから、私たちはキリスト者として小さな小さな者ですけれども、その小さな私たちに冷たい水一杯でも飲ませてくれる人には、主はちゃんと良い報いを与えてくださると言うんです。これは、自分が良い報いを受けると言われるよりも、もっとうれしい感じがしませんか。私たちがクリスチャンだからと言って、良くしてくれる人にも、主はちゃんと良くしてくださる。私たちが祝福されるだけではなくて、私たちを超えて祝福される。すごくうれしい感じがします。
 
    備えてくださる主
 
 そのことは同時に、神さまが、キリスト者としての私たちを助けてくれる人を備えていてくださるということでもあります。
 使徒言行録を振り返ってみますと、使徒言行録16章ですが、パウロが初めてキリストの福音伝道のためにヨーロッパに渡ったときのことです。そこのフィリピの町には知った人も全くいませんでした。そこで川に行くと、そこで神に祈っている人たちがいました。その人たちにパウロは、イエス・キリストのことを話し始めました。するとその中の一人、リディアという婦人の心を主が開かれて、パウロが語るイエスさまのことに耳を傾けました。そしてリディアも、その家族もイエスさまを信じて洗礼を受けました。そして、パウロたちを無理に自分たちの家に泊めさせました。そのリディアの家が、フィリピの教会になったと言われています。そのように、パウロは知らない町に行き、誰も知らない人の中で、イエスさまを信じるようになり、パウロたちを助けてくれる人を用意してくださっていたのです。
 今日網一個所読んでいただいた旧約聖書は、ルツ記です。ルツはイスラエルの隣のモアブの女性でした。しかし、飢饉を避けてモアブに非難してきたナオミの息子と結婚しました。そして結婚した夫が死んでしまいました。けれども、飢饉がおさまったイスラエルにナオミが帰るときに、お姑さんであるナオミに、ルツは着いていきました。なぜならルツは、ナオミと生活しているうちに、ナオミの信じる真の神さまを信じるようになっていたからです。お姑さんと、その死んだ息子の嫁さんのルツの二人。しかし二人は貧しくて、食べるものもなく、ルツは麦畑に落ち穂拾いに出かけました。農夫が麦を刈り取るときに落ちた穂を拾うのです。律法で、刈り取った時に地面に落ちた穂は、貧しい人のために残しておかなくてはならない決まりになっていた。それでルツは、その落ち穂を拾うためにある畑に出かけて行きました。それはボアズという人の畑でした。
 そのボアズという人は、たまたまナオミの親戚の人でした。もちろんルツはそんなことは知らないで、落ち穂を拾いに出かけたのです。ボアズは、ルツが、お姑さんのナオミにつくし、しかも神を信じる人であることを知っていました。そこで、ボアズは、ルツに親切にし、ルツが多くの落ち穂を拾うことができるようにしました。イスラエルから見たら外国人であり、お姑さんのナオミを慕ってイスラエルに来たルツ。主を信じる人となったルツ、そしてナオミは、そのように主の助けを経験することができたのです。
 主に従って行くとき、それは困難や試練もあるかもしれないけれども、主がちゃんと助ける人を与えていてくださる。暑い日の一杯の冷たい水を飲ませてくれる人を備えていてくださる。そういう主の働きを見ることができるのは、幸いなことであるに違いありません。


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