2019年11月24日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 イザヤ書41章13
    マタイによる福音書10章26〜31
●説教 「一羽の雀さえも」

 
    恐れないのか、恐れるのか
 
 本日の聖書をごらんになって気がつくことは、「恐れる」という言葉ではないでしょうか。詳しく申しますと、「恐れてはならない」または「恐れるな」という言葉、これはどちらも同じ「恐れるな」という意味ですが、この短い個所の中に、その「恐れるな」という言葉が3回出てきます。また逆に、「恐れなさい」という言葉が1回出てきます。そのように「恐れるな」が3回、「恐れよ」が1回。イエスさまは恐れるなとおっしゃったり、恐れなさいとおっしゃったり、これはいったいどういうことなのか。
 中身を見てみますと、「恐れるな」のほうは冒頭の26節では「人々を」恐れるなです。次の28節も「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」ですから、やはり人間を恐れるなということになります。そして最後の31節も文脈から言って、やはり人間を恐れるなということになります。いっぽう「恐れなさい」のほうは、28節を読むと、これは神さまのことを言っているんだなということが分かります。
 すなわち、まとめてみますと、人間を恐れるなということと、神を恐れよということがセットになって言われていることになります。神を恐れて人間を恐れない。実は、そこに恵みが現れています。
 本日の聖書箇所は、10章に入ってからイエスさまが語られていることの続きです。12人の弟子、それは使徒と呼ばれますが、彼らをイエスさまの代わりに町や村に天の国の福音を告げ知らせるために派遣なさる。そのときにイエスさまが教えられたが書き留められています。
 26節で、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」と言われています。これは、何が覆われており隠されているものであるかというと、このあとの32節33節と関係していて、つまりイエスさまの教えのことであると言えるでしょう。あるいはイエスさまご自身のことです。今、イエスさまが弟子たちの前で語っておられる。そのことを世界のほとんどの人は知りません。しかし必ずそれは世界に向かって明らかにされるということです。どのみち、人々に知られるようになる。それで人々を恐れてはならないと言われています。
 
    神を恐れる
 
 人々を恐れてはならない。しかし、神を恐れなさいと。具体的には28節です。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」‥‥人間は、体を殺すことしかできない。それに対して神さまは、魂も体も滅ぼすことがおできになる方である。
 そう言われますと、中には、これは神さまに脅かされているのではないかと考える人もおられることでしょう。つまり、人間を恐れるのであれば、それは神さまによって地獄に投げ込まれるよと。だから人間を恐れてはならない、と。30節には「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と言われています。この言葉も、これを聞いて、うれしいと思う人と、困ったな、嫌だと思う人がいるのではないでしょうか。困った、イヤだと思う人は、自分の髪の毛一本までも数えられているというと、「自分の悪いところも全部見ているのか」と思いますね。
 しかしここでは、地獄に落とすかどうか見張っているということではなく、体を殺そうとする人間よりも、神さまという方のほうがはるかに力がある方であることを言おうとなさっているんです。あなたがたを迫害する人間は、あなたを殺すかもしれない。そうだとしても、殺すことができるのはあなたの体だけである。それに対して、天の神さまは、体どころか魂を殺すことさえおできになる。だからもし恐れるとすれば、人間を恐れるのではなくて、神さまを恐れるべきでしょ、ということです。私たちがどんなに迫害されたとしても、天の神さまのほうがまさっているということを言いたいのです。
 そういうわけですから、天の神さまを恐れる人は、人を恐れない。逆に天の神さまを恐れない人は、人を恐れる。そういうことになります。神さまを恐れることと、人を恐れることは相反します。
 たとえば、万引きということが社会問題となっています。とくに最近は高齢者の万引きということが問題になっています。万引きはお店の商品を隠れて盗むことです。どうして隠れて盗むかというと、それは人を恐れているわけです。いっぽう、神を恐れる人は、そもそも万引きをしません。なぜしないかといえば、それは人の目から隠れることはできても、神さまの目から隠れることができないことを知っているからです。
 しかしその場合は、神さまによって地獄に落とされることを恐れて盗まないのかといえば、そういうことではないでしょう。神の罰を恐れて盗まないというよりも、そういうことは神さまの御心ではないから盗まないということだと思います。神さまが喜ばない、悲しまれることだから盗まない。
 そう考えていきますと、神を恐れるということは、神に恐怖するということではなく、むしろ神さまを信じると言うことであることが分かります。そして、信じるということは、愛することであることは前回も申し上げましたが、私たちは愛する者を悲しませたくないと思う。だから神さまを悲しませたくないと思うわけです。神を信じるということはそういうことに表れます。いっぽう、神を恐れないということは、要するに神を信じないことだということになります。
 
    髪の毛一本すら
 
 本日の聖書の個所は、前回イエスさまが弟子たちに対して迫害されることを予告なさった所の続きです。ですから、きょうのところでは、まずそのような迫害を恐れないということが語られています。しかし、「恐れるな」ということは、迫害を恐れないということだけではなく、私たちが生きていく上で抱く恐れについても言えることだと思います。
 私たちは、この世で生きていく時に、様々なことを恐れます。生活のことを恐れます。病気を恐れます。人間関係のことを恐れます。失敗することを恐れます。失敗して、何もかも台無しにして、もうダメだと思う。悲観的になって、自分の人生も終わりだというようにさえ思うことがある。そういうことを恐れます。しかし、それも言ってみれば人間を恐れているわけです。人からの評価を恐れている。しかし、失敗しても、神さまにまで見捨てられたわけではありません。それどころか、その失敗したところから、主は始めることがおできになるんです
 この時、この教えを聞いていたはずの使徒ペトロのことを考えてみましょう。ペトロは、「イエスさまのためなら命も捨てます」と言いました。ところが、そのペトロが、イエスさまが逮捕されて裁判を受けている時、まわりの人から「あなたもイエスの仲間だね」と言われ、「そんな人は知らない」と言って、三度も否認いたしました。そしてそのあと、夜明けを告げる鶏が鳴いた時、自分がイエスさまのことを知らないと3度も言うことを、イエスさまはあらかじめ予告なさっていたことを思い出し、はげしく泣きました。ペトロは失敗したんです。大失敗したんです。イエスさまのためなら命も捨てると誓いながら、イエスさまを見捨てたんです。大失敗です。
 しかし、十字架につけられて死んだ後、よみがえられたイエスさまは、その失敗したペトロを責めるためにペトロの所に来られたのではありませんでした。ペトロを罰するために来られたのでもありませんでした。その失敗したペトロを受け入れるために来られたのでした。
 このことは、私たちが失敗しても、イエスさまは受け入れてくださること、そして立ち直ることができるようにしてくださることを表しています。
 そうしますと、30節の「あなたがたの髪の毛までも、一本残らず数えられている」という言葉は、「あなたがたが悪い事をしても、すべてお見通しだから覚悟しなさい」というような脅しの言葉ではなく、私たちのすべてをご存じの上で、受け入れてくださろうとする主の愛の言葉であることが分かってまいります。
 そのように、私たちの神は、私たちが何で困っているかをご存じです。私たちが何によって弱り果てているかもご存じです。私たちが何で苦しんでいるかもご存じです。私たちが、何を恐れているかもご存じです。私たちが罪深い者であることもご存じです。私たちが弱い存在であることも、ご存じです。
 その上で、私たちの主は、「恐れるな」とおっしゃってくださるんです。「恐れる必要はない」と。そしてそういう弱い私たちを救うために、主イエスは十字架に上ってくださったんです。十字架への道を歩んでおられるんです。
 
    一羽の雀さえも
 
 31節を見てみましょう。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 その雀ですが、29節に「二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか」と言われています。1アサリオンというのは、ローマ帝国の貨幣ですが、どれぐらいの値打ちかというと、1デナリオンの16分の1だそうです。1デナリオンは、労働者の一日の賃金だと言われていますから、1アサリオンはどれぐらいになるでしょうか。500円ぐらいでしょうか。二羽で売っている。一羽では商売にならないからだそうです。
 そんなに安い雀。その雀が生きようが死のうが、誰も関心を持たない。どうでもいい話です。ところがそんな安い一羽の雀でさえも、「あなたがたの父」すなわち天の神さまのお許しがなければ地に落ちることはない。すなわち、死ぬことはないという。つまり、誰も気にも留めない一羽の雀の命さえも、神さまが許可を出さないと死ぬことはない。驚きです。神さまは、そのようなことまで関心を持って関わっておられるという。
 「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」私たちが雀よりもはるかにまさっているとイエスさまはおっしゃいます。すなわち、雀以上に神様は、私たち一人一人について関心を払ってくださっていると言うんです。
 しかし、私には、自分が雀よりもまさっているようには思えない時がありました。持病が悪化した時、思うように体が動かない。いろいろ迷惑をかけている。空を自由に飛び回る雀のほうが、価値があるのではないかと思えた時がありました。
 しかし、イエスさまはそうおっしゃっていない。「あなたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている」とおっしゃっている。自分にはそう思えなくても、主イエスはそうおっしゃっている。イエスさまから見たらそうなんです。神さまは、一羽の雀のことさえも心配し、関心を払っていてくださる。それと比較にならないほどだというんです。神さまは、この私たち一人一人について、大いなる関心を持っていてくださる。それゆえにイエスさまは、「恐れるな」とおっしゃるんです。
 何よりも、イエスさまは雀のために十字架に上って行かれたのではありません。なぜなら雀には罪はないからです。人間が神にそむいて罪を犯したんです。しかしその人間を放置するのではなく、救うために十字架に行かれた。神の愛です。関心を持たない者のために、ご自分の命を捨てるでしょうか? 愛さない者のために、ご自分の命を捨てるでしょうか? 私たちは愛されているんです。イエスさまによって。父なる神さまによって。それゆえ、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」という言葉は、私たちを監視して罰するために数えておられるのではなく、私たちを救うために数えておられると言うことができます。
 教会の暦で、来週からアドベントを迎えます。「恐れるな」とおっしゃるイエスさまが来られたことを、あらためて覚える季節です。どうかその主の恵みをかみしめる時となりますように。


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