2019年11月17日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 詩編119編157節
    マタイによる福音書10章 16〜25節
●説教 「狼の群れの中の羊」

 
    狼の群れの中の羊
 
 本日は幼児祝福式がありますが、聖書はいつものマタイによる福音書の続きの所を読んでいただきました。本日の説教題は「狼の群れの中の羊」といたしました。それはきょうの聖書箇所の冒頭で、イエスさまがおっしゃっていることからつけました。イエスさまが12使徒を方々の町に派遣なさる時におっしゃった言葉を読んでいますが、今日の所ではこうおっしゃっています。
 「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」
 狼は昔は日本にいましたが、明治時代に絶滅したそうです。だから今は日本では動物園しか見ることはできません。また羊も日本ではあまり多く飼われていない動物です。しかし子どもは羊も狼も知っている。それは童話や絵本に出てくるからです。そして、狼の群れの中に羊が入れられたらどうなるか、ということも子どもは知っています。それも童話や絵本に書かれているからです。狼たちにとって、羊は願ってもないエサということになるに違いありません。
 イエスさまは、弟子たちに神の国の福音を宣べ伝えさせるわけですが、それはたとえてみれば狼の群れの中に羊を送り込むようなものだと言われます。それは迫害を受けるということです。イエスさまと共に神の国が近づいた。そのことを宣べ伝えると迫害を受けると言われます。
 そしてこのことはやがて、その通りになりました。イエスさまの12人の使徒たちのうち、迫害を受けなかった人は一人もいませんでした。12人のうち、11人が迫害されて殉教したと言われています。ペトロはローマ皇帝ネロの時に、ローマの都で逆さ十字架にはりつけになって殉教しました。ゼベダイの子ヤコブは、ヘロデ王によって剣で斬り殺されました。トマスはインドまで伝道に行き、そこで殉教しました。この福音書を書いたマタイは、ペルシャやエチオピアに伝道に行き、エチオピアで殉教したと言われています。ヨハネだけは殉教せず、高齢になるまで生き残りましたが、1世紀末のローマ皇帝ドミティアヌスの迫害の中、高齢でありつつエーゲ海に浮かぶパトモス島という島に流刑になりました。そのように、このイエスさまのお言葉どおり、みな迫害を受けました。
 
    神のために働くのに
 
 なぜ迫害を受けるのか。神の御心を行うのに、イエスさまに従っているのに、なぜ迫害を受けるのか。そのような疑問が起こってきます。
 しかし、世の中では、良いことをしているからといって必ずしも歓迎されるとは限らないということがあります。
 そもそも、イエスさまも迫害されて十字架にかけられたということを思い出さなければなりません。イエスさまがここまでなさってきたことを見るとどうでしょうか。病気の人を癒され、汚れた病とされた病気にかかっている人を癒され、多くの病人を癒してこられました。また悪霊に取りつかれて苦しんでいる人々から、悪霊を追い出してこられました。また、盲人の目を見えるようになさいました。死んだ少女を生き返らされました。‥‥それは良いことではありませんか?
 しかし、やがてイエスさまは、捕らえられて十字架にはりつけにされてしまうのです。そして死なれました。そのように私たちは、神の御子であるイエスさまでさえ迫害し、命を落とされたことを覚える必要があります。
 
    信じるということ
 
 そもそも、なぜイエスさまは弟子たちを方々に派遣なさるのか。それは「天の国は近づいた」と宣べ伝えさせるためでした。イエスさまと共に天の国が近づいた。言い換えれば神さまが近づいたんです。だからその神さまを信じなさいと。そのままでは滅びに至るから。神さまを信じなさいと。どういう神さまかといえば、それはイエスさまを見れば分かるわけです。神の御子イエスさまが神さまを表しているからです。つまり、このままでは死んで滅んでしまう私たちを救って天の国に迎えてくださるということを宣べ伝える。
 しかし考えてみると、どうしてイエスさまは、弟子という人間によって神による救いを宣べ伝えさせるのでしょうか? 人間が本当の神さまを信じるようになるというのなら、どうして直接神さまが乗り出さないのか?
 人間はどうしたら真の神さまを信じるでしょうか。たとえば、姿を現して、もう一つ太陽を作ってみせるとか、地球を逆回転させてみせるとか、あるいは地球を二つに割って見せて、またくっつけるとか‥‥そういうことでしょうか。そういう摩訶不思議なことをすれば、信じるでしょうか?
 しかしその場合の「信じる」ということは、驚いて信じるということになります。何を信じるかといえば、聖書に書かれている全能の神さまがいるということを信じるということになります。神さまの存在を信じると。
 しかし、ここでイエスさまを通して神さまがなさることは、神の存在を信じるということ以上のものです。それは、神の愛を信じるようになさろうとしているということです。神は愛であると聖書に書かれています。その愛を信じるようになさろうとしておられる。今ちょうど夕礼拝では創世記を学んでいますが、神さまが極めて良く造られた人間であったはずなのに、その神の愛を信じずに、サタンの誘いに乗せられて神にそむいてしまった。そうして人間は愛を失い、命を失った。その愛と命を取りもどすのが聖書の物語です。私たちが失った愛を取りもどすために。
 ですから、神がその姿を現して、太陽をもう一つ造ってみせるとか、地球を割ってまたくっつけてみせるとか、そういうことではないんです。それでは愛を呼び覚ますことができない。ただ単にビックリするだけです。
 神は、神の愛があるということを示すために、イエス・キリストを送られたというのが聖書の語るところです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
 神の独り子イエスさまの愛を信じるということです。
 
    十字架の愛
 
 そして愛とは、犠牲をともなうものです。子どもを育てる親にもそれを見ることができます。子どもが生まれれば、親は子ども中心に生活するようになります。幼子を置き去りにしてどこかに遊びに出かけるわけにはいきません。子どもが歩けるようになれば、目を離すことができません。子どもが熱でも出れば、仕事を放り出して病院に連れて行きます。自分の買いたいものよりも、子どもに必要なものをまず買います。‥‥そのように、子どものために、時間や労力やお金を使います。それは子どもを愛しているからです。そのように、愛は犠牲をともなうものです。
 そして、もっとも大きな愛とは、その人を救うために命を捨てる愛です。車にひかれそうになった子を助けるために、我が身を犠牲にして救うというようなことです。そしてそれがイエスさまによって、私たちに対してなされたと聖書は語ります。それが十字架です。十字架の愛です。
 人をびっくりさせて神を信じるようになっても、それは神の存在を信じたというだけで、何の解決にもなっていません。神の愛を信じて救われるのです。私たちが失った愛が取りもどされる道がそこにあります。
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:10)
 これが十字架の愛です。この滅ぶべき私という人間を救うために、神の御子が十字架について命を投げ出してくださった。ここに愛があります。この愛を信じることが、真の神を信じるということです。
 
    伝道という道
 
 イエスさまも迫害されて十字架につけられて死なれたけれども、それは、実は私たちを救うために積極的に進んで上られた十字架であった。ご自分の命を投げ出してくださった。それを信じることによって救われると聖書は語ります。
 そしてイエスさまは、同じようにご自分の弟子たちを派遣される。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
 イエスさまが、神の愛を伝えるためにこの地上を歩かれ、犠牲を払って十字架にかかられたように、弟子たちもまた隣人を愛する働きに遣わされるということです。
 私の初任地である能登半島の輪島教会は、1913年(大正2年)の創立です。しかし教会創立に至るには、簡単ではなかったようです。浄土真宗の固い地盤である上に、古い風習が強く残る町で、最初は創立に先立つこと10年前の1903年(明治36年)に、金沢に在住していたカナダ・メソジスト教会の宣教師マッケンジー先生ら2〜3名が輪島に来て、輪島劇場にて演説会を試みたけれども拒絶されて空しく帰ったという記録があります。明治期、北陸では宣教師や牧師が各地で迫害を受けました。その他、日本各地でも様々な困難があったことでしょう。
 もっとさかのぼれば、徳川時代のキリシタンへの迫害がありました。ローマ帝国でも、長い間の迫害がありました。そのような、私たちの先輩たちの多くの苦労があったことを思います。
 しかし私は、そのような迫害や苦労を聖霊のお力によって乗り越えて、天の国の福音が宣べ伝えられたことを心から感謝したいと思います。なぜなら、この私がキリストに出会ったのは、それらの人々の働きがあったからに他ならないからです。そしてそこには、キリストの救いを宣べ伝えるという愛を見ることができるからです。
 もし私がいまだにキリストを信じていなかったとしたらどうだっただろうかと考えることがあります。おそらくいまだに、不平不満や文句ばかり言って毎日を過ごしていたに違いないのです。また人の悪口やウワサを口にし、自分がどう評価されるかに一喜一憂し、夜は酒を飲んだくれて希望もなく暮らしていたことだろうと思います。
 そう考えると、私の出会ったクリスチャンたちは主が遣わしてくださったクリスチャンたちであったのであり、その人たちに出会わせてくださったイエスさまに感謝というほかはありません。


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