2019年11月3日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 創世記19章27〜28節
      マタイによる福音書10章9〜15節
●説教 「持たずに出かける」

 
    台風被害教会訪問
 
 週報にも書きましたが、先週火曜日に、皆さんからささげられました台風被災教会救援緊急献金を携えまして、川崎市の3つの教会を訪問いたしました。向河原教会と川崎戸手教会と宿河原教会です。このうち宿河原教会はご不在でしたが、あとから丁重なお礼のメールをいただきました。川崎戸手教会は多摩川の河川敷に建っていまして、1階部分が完全に水没し2階まで水が来ました。向河原教会と宿河原教会は多摩川の近くに建っていますが、多摩川が氾濫したわけではなく、水が多摩川に排水できずに浸水し、床上まで水につかったということです。向河原教会も川崎戸手教会も、泥出し作業は終わっており、拭き掃除も終わっていましたが、まだ床下に水が残っていたり、片付けや修理が終わっていないという状況でした。
 そういう作業中にお邪魔したわけですが、2教会とも快く迎えてくれました。そして言うには、たいへんはたいへんだけれども、このようにいろいろな人が来てくれてはげまされるのはうれしい、というようなことをおっしゃっていました。
 災害の被害を受けた教会や人々に対して、神さまが直接乗り出してその全能の力を持って奇跡的に助けてくれないのか?‥‥と思う人も世の中に入るかもしれませんが、その牧師の言葉のように、人間がお互いに励まし合い助け合う。そこに神さまの御心があるのだと思います。
 神さまが直接乗り出されるのではなく、人を通して働かれる。それはきょうの聖書の個所にも通じるところがあります。神さまが直接人々を神さまのもとに連れてくるというのではなく、人を通して神のみもとへと招かれるということです。
 
    神を信じるということ
 
 その神を信じるということについてですが、それは何か特別なことなのではなくて、当たり前のことであるということを、最近あらためて確認させられています。
 それは、当教会の夕礼拝においてであります。一昨年の4月から開始しました夕礼拝では、ヨハネによる福音書をずっと続けて読んでまいりましたが、それが9月末で終わり、10月から旧約聖書の創世記の説教を始めております。いうまでもなく創世記は聖書の始めです。そしてそれは、私たちのルーツを書いています。私たちはどこから来て、どこへ行くのか。私たちは、私たちがやがてどこに行くのか、ということばかりに関心を持ちがちですが、それを知るためには、私たちがどこから来たのかということを知らなければ分かりません。創世記は、そのことを教えてくれます。
 天地宇宙は偶然発生したのではなく、神によって造られたこと。すべてのものは神によって造られたこと。そして私たちも、たまたま進化してたまたま生まれて何の脈絡もなく死んでいくのではなく、神によって造られたこと、しかも神によって愛されて造られたこと、そして神によって命を与えられたことを記しています。自由意志によって愛することのできる存在として造れた私たち人間。それは、神と共に生きるべきものとして命を与えられたのでした。命を与えてくださった神と共に生きるところに、祝福があり、平安があることを教えています。
 しかしその私たち人間が、神を離れて出て行ってしまったと書いています。人間は、愛されて、たいせつに造られたのに、その造り主である神のもとを離れていった。それはまるで、子供のうちはかわいらしくて親のいうことを聞くけれども、やがて大きくなって反抗して出て行ってしまうような姿に似ています。
 
    伝道
 
 きょうのマタイによる福音書の聖書箇所は、イエスさまが12弟子を町や村へ派遣する時におっしゃった注意の言葉が書かれています。弟子たちを派遣するということは、それは言葉を換えていえば、伝道に出かけるということになります。そして、伝道ということは、なにか特殊な秘密めいた教えを宣べ伝えたり、なにか奇妙な宗教に引き込もうとするというようなことではありません。私たち人間が離れてしまった神のところに戻るように導くということです。ルカ福音書15章の、あの「放蕩息子のたとえ話」はそのことをよく表しています。私たちに命を与えてくださった神のもとに帰る。それが7節の「天の国は近づいた」という言葉です。私たちが神のもとに帰るというよりも、天の国のほうから、つまり神さまのほうから私たちのところに迎えに来て下さっている。それがイエスさまです。そういうことです
 きょうの聖書箇所の直前の8節で、イエスさまが12弟子に、病人を癒し、死人を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い出す力をお与えになったのも、イエスさまの言葉を宣べ伝える福音が、喜ばしい知らせであることのしるしとして、そのようにさせたのです。
 
    持たずに出かける
 
 さて、そしてきょうの聖書箇所に入りますが、ここでは、その伝道に出かける時に、何も持って行くなとおっしゃっています。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れていくなというのは、今でいうならば財布を持っていくなということです。それどころか着替えの服さえも持って行くなという。
 そのように言われますと、これは何か苦行、荒行をせよとおっしゃっているようにも聞こえます。たとえばお坊さんが修行のために托鉢をして歩く。そのようにして生きて行けというようにおっしゃっているのかと。
 しかし続きを読みますと、どうもそういうことではない。適当な人を見つけて、その家に泊めてもらって食わしてもらえ、ということのようです。「働く者が食べ物を受けるのは当然である」とおしゃっています。たしかに、そのとおりでしょう。では伝道者はどうなのかというと、ふさわしい人は誰かをよく調べ、旅立つ時までその人のもとに留まりなさいと言うんです。
 しかしこの前の個所、8節で「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とおっしゃっていたのではないでしょうか?‥‥しかしこれは、病気の人を癒したり、死者を生き返らせたりと、そういう神の奇跡を行ったことについての見返りとしてのものを受け取ってはならないということです。病気を癒したり、死者を生き返らせたりということは神さまの奇跡であり、神さまのなさることですから、そのお礼を受け取ってはならない。しかし、何も持たずに出かける伝道者が食べて生きていくために必要なものは、人の世話になれというんです。
 人の世話になれと言われても、なんだかすごくむずかしいことのように思えますし、だいたいそれではこのことをおっしゃったイエスさまも無責任のように見えます。イエスさまは無責任なことをおっしゃったのでしょうか? イエスさまは言うだけ言って、イエスさまも神さまは何もなさらないのでしょうか?
 しかし、実はイエスさま、神さまは、その背後で働いていて下さるんです。最初に申し上げたように、神さまは、人の手を介して働かれるからです。
 たとえば、旧約聖書の列王記上17章のエリヤの場合はどうでしょう。エリヤは主を信じないアハブ王と対決しました。そして、数年の間雨が降らず干ばつになることを預言しました。そして主はエリヤに、シドンのサレプタという町に住んでいる一人の貧しいやもめのところに行って、養ってもらうようにお命じになりました。お金持ちに養ってもらうのではなくて、食べるものにも困っている貧しいやもめに養ってもらえとは無茶な話しに聞こえます。実際、エリヤがそこに行ってみると、そのやもめは、壺の中に残った一握りの小麦粉で最後のパンを焼いて息子と共に食べ、そのあとは死ぬのを待つばかりというほど貧しい女性でした。
 ところがエリヤは、そのやもめに向かって、まず自分に小さいパン菓子を作って食べさせてくれというのです。パン一つ分の小麦粉しか残っていないような極貧の人に対して、なんとひどいことを言うのかと思いますが、エリヤは主の言葉を聞いていたんですね。それはこういう言葉でした。「主が地の表に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」(列王記上17:14)。エリヤは主の言葉を聞いていたから、そのように貧しいやもめに言うことができたんですね。そして実際その通りになりました。そのやもめの家の壺の中の小麦粉は、パンを毎日作ってもなくなりませんでした。油も使っても使っても不思議になくならなかった。主が、神さまがそうして下さったんです。そのように、神さまは人の手を通して奇跡をなさってくださいます。
 私も同じようなことを経験しました。神学生時代にさまざまなふしぎな助けがあったことを前にもお話ししました。牧師となってからもそうでした。最初の任地の小さな教会でもそうでした。そこでは夫婦と幼い子供二人の4人で暮らしました。生活費はギリギリでしたが、借金をしたことはありませんし、困ったことはありませんでした。それどころか、いつも不思議な助けが起こって、牧師として必要な本を買うこともできましたし、教会も守られました。それで私たちは、次は神さまが何をしてくださるかを楽しみにして生きていくことができました。
 
    伝道者の責任
 
 さて、きょうの聖書箇所では、最後に弟子たちを迎え入れもせず、語る言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行く時、足の埃を払い落としなさいと言われています。これは、その人たちが神の国の福音を受け入れなかったのは、あなたがたの責任ではないということです。
 そして最後に15節で、イエスさまはおっしゃっています。「裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地のほうが軽い罰で済む」と。ソドムやゴモラというのは、今日最初に読んだ旧約聖書の創世記19章に書かれている町のことです。ソドムやゴモラの町は、悪に満ちていた町でした。神を信じず、悪と不法に満ちていた。その結果、滅ぼされてしまいました。そんな悪い事で満ちていた町が滅んだ罰のほうがましだというほどの罰を受けると。
 本当にそんなひどいことになるのかな、と思われることでしょう。実はそのソドムの町に住んでいた、アブラハムの甥のロトの娘婿たちも、主がこの町を滅ぼされると聞いた時、それは冗談だと思ったと創世記のその個所に書いてあります(創世記19:14)。たしかに現代でも、同じように思われることでしょう。「このままでは滅びる」と聞いても、冗談だと思う人は多いことでしょう。
 しかし本当に冗談でしょうか? この世界は本当に滅びないのでしょうか? 地球環境はますます悪化していく。世界の国々は、さらに軍備を増強しています。世の中は、愛がなくなり、みな自分勝手になり、どんどん悪くなっているように思います。永遠に世界は続くのでしょうか? 何よりも、私たち自身が必ず死ぬ存在だということから目を背けてはならないでしょう。
 そうすると、このイエスさまの言葉は、脅かしと言うよりも、神を信じる世界への招きの言葉だと言えるでしょう。私たちは、神によって作られ、神によって命を与えられた。しかしその神のもとを離れて行ってしまった。だから、私たちの造り主である神さまのもとにもう一度戻るように招いておられるのです。イエスさまと共に「天の国は近づいた」からです。神さまのほうから、こちらに近づいてきてくださっているからです。神の国はどこか遠いところにあるのではなく、イエスさまと共に、すぐここまで来ているからです。
 私たちは、このように礼拝することによって、主の招きに応えています。


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