2019年10月27日(日)逗子教会 主日・朝礼拝(宗教改革記念礼拝)説教
●聖書 イザヤ書40章9〜11節
    マタイによる福音書10章5〜8節
●説教 「神さまの順序」

 
    宗教改革記念日
 
 本日は、宗教改革を記念して礼拝を守っております。宗教改革は歴史の教科書にも載っている出来事ですが、宗教改革によってプロテスタント教会が誕生しました。宗教改革は1517年10月31日に、ローマカトリック教会の司祭であったマルチン・ルターが、ドイツのヴィッテンベルグの教会の扉に「95箇条の論題」という文書を貼り付けたことによって始まったとされています。それで10月31日の直前の日曜日である本日、私たちは宗教改革記念礼拝として守っています。
 ルターというと、不屈の宗教改革者であり、またそれまでラテン語であった聖書を自国の言葉であるドイツ語に訳したり、ローマの信徒への手紙の講解の本を書いたりと、すぐれた学者でもあったというイメージですが、そのルターはまた音楽の才能もある人でした。歌がうまく声も美声で、少年の時にはその歌声が親切な婦人の耳にとまり、その婦人の援助によって大学まで進むことができたほどでした。またリュートというマンドリンに似た楽器を演奏したそうです。またルターは、それまでは讃美歌といえば聖歌隊が歌うものだったのを、一般の信徒が歌えるように自分たちの国の言葉であるドイツ語でコラールを歌うようにもしました。先ほど歌った讃美歌は、そのルターが作ったものです。今回は以前の讃美歌の歌詞で歌っていただきました。
 ルターの始めた宗教改革について、一般の歴史の授業などでは、よく「免罪符販売に見られるような、当時のカトリック教会の腐敗堕落を正そうとして始まった」というような説明がなされると思います。その説明は、ある点では当たっていますが、本質ではありません。最も大切なことは、宗教改革は聖書の福音信仰を取りもどしたという点にあります。
 宗教改革の信仰の特徴を表した言い方として「5つのsola(ソラ)」というものがあります。solaというのはラテン語で、「〜のみ」「〜だけ」ということを表します。それは「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、神の栄光のみ」ということです。これだけですと、何が「のみ」なのかよく分からないと思いますが、例えばこの中の「信仰のみ」を例に挙げますと、私たちが救われるのは、ただ信仰のみによるということです。私という人間が罪赦されて神の子としていただくためには、なにか償いをしなければならないのではない。荒行苦行をしなければならないのでもない。多くの善行をしなければならないのでもない。そんなことでは全く足りないし不十分だからです。私たちが救われ、罪赦されて神の子とされるためには、ただイエス・キリストを信じる信仰のみが必要だということです。すなわち、イエス・キリストが、神の国に入ることのできないはずの私のために、十字架にかかって完全に入れるようにしてくださったと信じる。私たちの罪も、私たちの過ちも、私たちの至らなさも、すべてイエスさまが十字架で償ってくださった。そう信じる信仰のみが必要であるということです。
 それはキリストの恵みによるのですから、「恵みのみ」にもなります。私たちが救われる理由が、私たちにあるのではなく、キリストの十字架にあるのですから「キリストのみ」にもなります。私たちが偉くて立派だから救われるのではなく、偉くもなく立派でもない罪人の私がキリストによって救われることは、神がなさることですから、ただ神さまだけがほめたたえられる。それで「神の栄光のみ」ということにもなるというわけです。
 従いまして、この救いがたい私という人間が、ただキリストの十字架によって救われるという聖書の信仰を、宗教改革は取りもどしたと言えるのです。
 
    よく分からないし分かっていない人たちに任せる
 
 きょうの聖書の個所は、この前の個所で12使徒を選んだわけですが、その12使徒に対してイエスさまがおっしゃったことが書かれています。
 多くの弟子たちの中から、イエスさまはこの12人をお選びになった。そしてイエスさまの代わりに、多くの町や村に派遣なさいます。なにをさせるかというと、今日のところにも書かれていますが、病気を癒し、悪霊を追い出すためであり、また福音を宣べ伝えるためでした。そのためにこの12人を選ばれた。しかしその選ればれた人については、その人がいったいどういう人であるかということが聖書にはほとんど何も書かれていないということを前回申し上げました。どういう家庭環境で育ち、どういうことをしてきたのか、学歴はどうかというようなことは何も分かりません。しかし、分からないということがむしろ大切なのであって、イエスさまはそういう過去のことはなにも問題になさらないということであることを、申し上げました。その12人の中には、イエスさまを裏切ることになったイスカリオテのユダまでがいたわけです。
 そういう弟子たちに、ご自分の代わりに派遣する。ある意味すごく危ないことだと思うんです。なぜなら、この使徒たちは、まだイエスさまが何者であるかということさえよく分かっていないんです。まだまだ分からないことだらけ。もちろん人間的にも不十分な人たちです。これでイエスさまの代わりが務まるのかな、と思います。
 しかし考えてみれば、この自分もそうだと思うんです。自分も教会の牧師を務めているわけですが、神さまとイエスさまについて、すべて分かっているかといわれれば、分かっていません。というよりも、神さまという方は永遠無限の方なので、私たち人間がこの地上に生きている間に知り尽くすことなど不可能だと、私はいつも申し上げています。もちろん人間的にも不十分。そういう私がなぜ牧師などになっているかと言えば、それはイエスさまに聞いてみなければ分かりません。
 さらに言えば、これは牧師に限りません。クリスチャンである教会員一人一人にとっても同じことです。教会はキリストの体であると言われます。そのキリストの体である教会に私たちが加えられている。イエスさまにとってはご自分の体ということになります。そのような尊いキリストの一部に、私たちがなっているということになります。みな完全な人間ではありません。なのになぜ私たちが教会に導かれたかと言えば、それはイエスさまに聞いてみなければ分かりません。
 そのように、イエスさまは、ある意味危なっかしいとも思える人選をし、12使徒を派遣なさいます。その12使徒も私たちも、では何が他の人たちと違っているかと言えば、それはイエスさまを信じてついて行っているということです。そしてイエスさまがそういう私たちを受け入れてくださっていると言うことです。
 
    イスラエルからという順序
 
 さて、12人を派遣するにあたり、イエスさまは次のように言われました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(5〜6節)。これをわかりやすく言えば、外国人の所に行かずに、イスラエル人(ユダヤ人)の所に行きなさいということです。
 そうしますと、「イエスさまは、異邦人はどうでもよくて、イスラエル人・ユダヤ人にしか関心がないの?」と思うのではないでしょうか。しかし絶対にそうではないことは、同じこのマタイの福音書の最後のところを見れば分かります。十字架にかかられて死なれたイエスさまが、よみがえられて使徒たちに命じられた言葉です。‥‥「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」(マタイ28:19)。マルコによる福音書ではこう言われています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)。
 ではなぜ今日の箇所では、「イスラエルの家の失われた羊の所へ行きなさい」と言われたのか?
それは、ものには順序があるということです。
 例えば、学校の入学試験を受けたとしましょう。入学試験のあと、合格発表を待つまでの間はドキドキいたします。そして合格発表の日を迎えます。そして試験を受けた学校に行く。そうして合格者が掲示版に張り出されます。そこに自分の受験番号が書いてあった。合格です。そうするとその喜びを、まず最初に誰に知らせるでしょうか?‥‥それは連絡を待っている人に最初に知らせるでしょう。親とか、友だちとかにです。
 それと同じようなことがここで言えるのです。イスラエルの民というのは、神の救いを待っていた人たちです。聖書を学び祈る会に出席している方はよくお分かりと思いますが、というのは聖書を学び祈る会は旧約聖書をずっと学んできたからです。旧約聖書は、天地創造から始まって、イエスさまが生まれる前までの歴史の中をたどっています。歴史と言っても、全人類のすべての歴史ではなく、創世記第12章のアブラハムの選びから始まるイスラエルの民の歴史です。
 なぜイスラエルか、ということを今日説明している時間はありませんので省略いたしますが、結論から言えば、神さまにはご計画というものがあったんです。順序と言っても良いでしょう。
 例えば、建物を建てる時にも順序というものがありますね。この教会の建物で言えば、まず地下の安定した地層に達する杭が打たれます。そして基礎工事が続く。そして鉄筋が組まれ、型枠が組まれ、コンクリートが流し込まれ‥‥という順番で進んでいく。内装工事は、ずっと後のことになります。そういう順序がある。1階ができていないうちに2回を作るなどということはできないわけです。言ってみれば、そういう神さまのご計画がある。それがまず「イスラエルの家の失われた羊の所へ行きなさい」という言葉だと考えていただければ良いのです。
 「失われた羊」という表現は、前の9章36節で、「群衆が飼う主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」という表現がなされていましたけれども、それと同じです。羊の群れは、自分たちでは元の場所に戻ることができない。それで羊飼いが来るのを待っている。その待っている羊のところに、最初に行くということになります。それが「イスラエルの家の失われた羊」です。
 そしてやがてイエスさまが十字架につけられて死なれ、そして復活されたあとは、全世界に福音が宣べ伝えられることになります。
 
    天の国は近づいた
 
 さて、イエスさまは使徒たちに、何を宣べ伝えるように命じられたかというと、「天の国は近づいた」ということを宣べ伝えるように言われました。
 このことは3章でも出てきました。天の国は、神の国と同じです。「天の国は近づいた」と言われると、「自分も死ぬ時が近づいた」という意味に受け取る人もいることでしょう。それは天の国というと、自分が死んでから行くところだと考えるからです。だとすると、どんどん私たちは年を取るわけですから、それは死ぬ時が近づいているに決まっているわけで、「天の国は近づいた」と言われると「そんなこと当たり前ではないか」と思う。
 しかしここでいう「天の国」とは、自分が死んでから行く「あの世」のことというわけではないんです。「天の国」という言葉は、ギリシャ語では「天の支配」ということもできる。天の支配、すなわち神の支配です。その天の国が近づいたという。自分のほうが天の国に近づいたのではなく、天の国のほうからあなたのところに近づいたというんです。しかもこの「近づいた」という言葉は、天の国が日本まで近づいたとか、鎌倉まで近づいたとかいうようなものではない。もうすぐそこまで近づいてきているという感じなんです。ずっと近づいてきている。今も近づいている。すぐそこまで来ている。
 そう言われると、「どこに?」と、あたりを見回したくなりますが、これは目に見える国ではありません。そしてこれはイエスさまと共に近づいているという国です。信仰の国です。ですから、イエス・キリストの国であると言っても良い。
 今は、キリストの復活のあとですから、これは先ほど述べましたようにイスラエル人に対してだけではなく、私たちに向かっても同じことが言われているんです。「天の国は近づいた」、私たちのすぐそばに来ている。
 そして、イエスさまは「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」とおっしゃいました。ある人には伝えて、ある人には黙っていなさいとはおっしゃっていないところに注目です。そこにいるすべての人に対して「天の国は近づいた」と伝えるように言われました。つまり、この私に対しても「天の国がすぐここまで近づいてきてくださっているということです。驚きです。感謝です。
 キリストが私たちのところまでやって来ておられる。だからそのイエス・キリストを信じることによって、天の国に入ることができる。それは死んでから後ということではなく、今、入ることができる。キリストと共に生きる世界です。


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