2019年10月20日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 創世記49章28
    マタイによる福音書10章1〜4
●説教 「イエスの人選」

 
    12使徒の選び
 
 本日は、イエスさまが弟子たちのうちから12人をお選びになったということが書かれています。イエスさまのまわりには、多くの人が従っていたと思われますが、その弟子たちの中から12人をお選びになった。それはいったい何のためかというについては、冒頭の1節に書かれているとおりです。「けがれた霊に対する権能をお授けになった。けがれた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」と書かれています。ここでいう「けがれた霊」とは悪霊のことです。イエスさまは、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出し、病める人を癒やしておられましたが、その働きをこの12人にもさせるためであったということです。そして悪霊を追い出したり、病気を癒すということはふつう人間にはできませんから、イエスさまの持っておられたそういう力を分け与えられたということになります。
 したがって、この12人は、イエスさまお一人では回りきれない町や村に出かけて行って、イエスさまの代わりの働きをするということになります。
 次に、なぜ12人なのか?ということです。10人でもなく、100人でもなく、12人。何か中途半端な数字のように思えます。しかし、聖書をよく読んでおられる人ならば、12という数字が何を指すかはすぐにお分かりのことと思います。もう一個所旧約聖書の創世記49章28節を読んでいただきましたが、そういうことです。12は神の民イスラエルの12部族を指し、すなわちそれは神の民であるイスラエルを表す数字であるということです。
 イスラエルの民は、昔アブラハムに与えられた神の約束の担い手でした。旧約聖書の歴史は、創世記第12章以降はイスラエルの歴史です。アブラハムの子孫を通して世界の民を祝福する、すなわち救うという神さまがアブラハムに約束された約束を担ってきたのがイスラエルです。そのイスラエルを表す12部族の12。イエスさまが弟子たちの中から使徒として選んだ12人。そうするとこの12使徒は、新しいイスラエルともいうべきものとなります。すなわち新しい神の民です。そしてやがて使徒言行録では、12という数字は教会を指すこととなりました。
 そうするとこの12人というのは、新しい神の民である教会を表す12ということになります。なにかとてつもない大きなことの始まりという印象になります。
 
    人生の背景が分からない
 
 さて、そんなに大きな出来事が始まろうとしている。そのはじめとなる12使徒を選んだ。それぞれどんな人なのでしょうか?‥‥というと、これが実はよく分からないんです。よく分からないというのは、このあとこの12人がどういう働きをしていくかということは、まあ大まかなところはだいたい分かっています。しかし分からないのは、それまでどういう人だったかということがほとんど分からないんです。どんな人?何をしていた人?学歴は?とか、どこで生まれてどういう環境で育った人?‥‥というようなことがほとんど分かっていない。
 だいたい歴史上の人物といえば、どういう生い立ちなのか、家庭環境はどうだったか、どういう人生を歩んできたのか‥‥当然、そういうことをまず書くはずです。ところがこの12人は、そういうことがまったく分からない。
 たとえば、12人の代表格のペトロですが、この人は弟のアンデレと共にガリラヤ湖で魚を捕る漁師であったということは聖書に書かれていますから分かります。しかし、それより前にはどんな人だったかということはまったく分かりません。イエスさまに出会って以降のことしか聖書には書かれていないんです。まあ結婚していて妻がいるということは分かる。しかしそれだって、マタイによる福音書8章で、イエスさまがペトロの家に行ってペトロのお姑さんの病気を治したことが書かれているから分かるにすぎません。またパウロが手紙の中でペトロに妻がいることに触れていますが、それだって何かペトロの人生を紹介しているわけではなく、他のことを述べる中で触れているに過ぎません。つまり、弟子の代表格であるペトロでさえ、イエスさまと出会うまでの人生は何も分からないんです。
 このことは、他の弟子たちも同じで、マタイは徴税人であり収税所で座っていたところをイエスさまに声をかけられ、立ち上がってイエスさまの弟子となったということはすでに学びましたが、それより前のことは何も分からないんです。ヨハネにしてもヤコブにしても同じです。この12人の中には、タダイという人がいますが、この人はルカによる福音書の方ではヤコブの子ユダという名前になっていますが、タダイなどは聖書の中でひと言もしゃべっていませんし、職業も出身地も書かれていませんから、何も分からない人です。でも聖書には書かれていませんが、伝説では、やがて世界に伝道に出かけて行き、アッシリア、そしてペルシャに伝道し、最後はペルシャで命を落としたと伝えられています。しかしイエスさまと出会う前のことは、聖書にはもちろん、伝説でも伝えられていません。
 要するに、使徒と名付けられたこの12人は、どういう生い立ちであったか、どういう家庭環境で育ったか、どういう学歴であったか、などというようなことはまったく分からないんです。しかしその12人をイエスさまはお選びになり、教会を託された。それはまるで、その人の生育歴だとか、育ちであるとか、そんなことは全く関係ないといわんばかりです。イエスさまと出会って従った、そこからが始まりだと私たちに語っているかのようです。
 
    選んだイエスに焦点
 
 さらに言うならば、この人たちは、有名人というわけでもありません。また権力ある地位にいたわけでもなさそうです。特にお金持ちというわけでもないようです。
 イエスさまのなさることは、言ってみれば、新しい事業を始めようというようなものです。皆さんであれば、新しい事業を始めようとする時、どういう人を選ぶでしょうか?‥‥有名人であれば宣伝に役立つでしょうし、政治家のような権力に近い人であれば何かと便宜を図ってもらえそうです。またお金持ちがいれば、資金を用立てるのに都合がよいでしょう。ところが、先ほど申し上げたように、この12人は、どうやらそういうものとは無縁の人たちのようです。
 さらに言いますと、この中には少なくとも兄弟が二組いるんですね。ペトロとアンデレ兄弟、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟です。兄弟を二組も選ぶなんて、私には考えられないんです。なぜなら、兄弟と言っても全然違うからです。私には弟がいますが、小さい頃から「全然似てないね」って言われました。弟はスポーツ万能のような人で野球少年、健康優良児でした。でも勉強は嫌い。私はぜんそく持ちで学校を休むことも多かったせいか、本を読んだりするのが好きでした。身長も弟の方が高く、体格もよい。性格もけっこう違うんですね。
 そんなことを考えると、なんで12人しかいないのに兄弟が二組もいるのか?って思います。二組ということは4人ですから、12人の3分の1です。ふつうは、兄の方が優秀そうだから兄だけ採用するとかいうことになるでしょう。でもイエスさまは兄弟で選んでいる。なんだか適当に選んでるんじゃないか、なんて思えるんです。兄を選んだから、まあ弟も一緒に選んどくか、みたいな。
 いずれにしても、このイエスさまの選び方というのは、私たちにはよく分からない。さっぱり理解出来ないんです。でも、その私たちにはよく分からない、というところが大切だと思うんです。私たちには分からないってことは、私たちの理解を超えているわけです。でもイエスさまにはちゃんと理由があるということです。私たちには理解出来ないけれども、イエスさまには理由がある。だから、そのイエスさまを信頼していくということです。そしてイエスさまは、選んだ以上、ちゃんと責任を持ってくださるということです。
 つまり、選びというのは私たちに理由があるのではなく、イエスさまの方に理由があるということです。私たちが主人公なのではなく、イエスさまが主人公となるということでもあります。
 
    私たちは関係ない?
 
 12使徒の選びなどというと、「それは私には関係ない」と思うかもしれませんが、選びというのは何も12使徒の選びだけではなく、それぞれ与えられた役割の選びということがあるわけです。さらに、私たちがキリストを信じる者となったというとき、それも聖書では選びと言われています。たとえば次のような聖書の言葉があります。
(Tコリント 1:26-27)「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」
 これは使徒パウロの書いたコリントの信徒への第一の手紙の中の言葉ですが、これを読むと「私は無学でもないし、無力な者でもない」と反発する方もおられるかもしれませんが、それはここでは置いておくことといたしまして、この聖書の言葉は、私たちがキリスト者となったのは自分から選んだのではなく、主がお選びになったのだということ。そして、その選ばれた理由というのは、なにかこの世の目で見て勝ったところがあるから選ばれたのではないということです。むしろ、そういうことを否定しているというのです。
 あるいは次のような聖書の言葉もあります。
(エフェソ 1:4)「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
 この「わたしたち」というのもキリスト者全体のことです。ここでは、神さまは、天地が造られる前から、私たちを選ぶご計画があったと言っています。
 あるいは次のみことばです。
(Uテサロニケ 2:13)「しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする”霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。」
 これは、まわりにキリスト者が少ないのに、なぜ自分だけキリスト者になったのかということの説明になっています。私たちは「初穂」、最初の実りとして、まずキリストのもとに導かれた。それにも理由があるということです。
 このように、私たちは12使徒ではありませんが、キリスト者となったということが、キリストの方からごらんになると「選び」ということになるんです。それは本人がそう思っているか、いないか、ということは関係ない。キリストの側から言うと、そういうことになるんです。
 ですから、12使徒たちについてと同じことが言えることになります。使徒たちがキリストに出会う前の過去のことが何も書かれていないように、キリストにおいては、私たちがどのように生まれ、どのような家庭環境で育ったかとか、どういう生育歴があるかというようなことは全く問題にならないということです。私たちがどんな失敗をしてきたか、どんな過ちを犯してきたかというようなことも、キリストにおいては問題とならない。使徒たちについて、キリストと出会ってから以降のことしか書かれていないように、私たちにとっても、過去のことは問題にされることがなくなり、キリストと出会って新しい自分が始まっているということです。キリストの中に生きる者にとっては、いつも新しいんです。
 
    異なる立場の者が一緒に
 
 あと、この12人の中には水と油のような人が一緒にいるんです。たとえば、徴税人のマタイと熱心党のシモンです。徴税人は、ローマ帝国のための税金を徴収する人。かたや熱心党というのは、ユダヤ民族主義者です。ローマ帝国に協力する者を攻撃する民族主義過激派です。だから徴税人と熱心党は、相容れない。熱心党員から見たら、徴税人なんていうのは民族の裏切り者です。
 ところが、ここにはその両者が共にいる。なぜ一緒にいることができるんでしょうか?‥‥それはイエスさまのもとにいるからです。共にイエスさまを主としているからです。
 私の前任地の教会で、企業でいえば使用者側の人と、いっぽうその労働組合の幹部の人がいました。春闘の団体交渉などでは向かい合って対立する席に着く。でも、教会では共に礼拝し、ともに同じ奉仕をなさっていました。共に同じ主イエス・キリストを仰いでいるからです。その主イエスは、すべてのものの頭(かしら)だから、そういうことが可能になるのです。
 
    キリストの愛のもとで
 
 あと残る問題は、今日の最後のところ。「イエスを裏切ったイスカリオテのユダである」という言葉です。イエスさまは、イスカリオテのユダが、イエスさまを裏切ることをご存じなかったのだろうか、という問題が残ります。しかしきょうのところはこれには触れないでおきます。ただ一つだけ挙げるとすれば、イスカリオテのユダもイエスさまがお選びになったということです。そしてイエスさまは、お選びになった者と常に共に歩んでくださろうとするということです。そのためには十字架にさえ行ってくださるんです。
 こうして私たちは、過去のことは忘れることができ、キリストによって愛され、キリストと共に新しく毎日歩むことができます。


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