2019年10月6日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 ゼカリヤ書8章11〜12節
    マタイによる福音書9章35〜38節
●説教 「収穫多いか少ないか」

 
    憐れみ
 
 35節ではイエスさまのなさった来られたことについて、二つの事柄が挙げられています。一つは、御国の福音を宣べ伝えられたこと、もう一つはありとあらゆる病気や患いを癒されたことです。「御国の福音」とは、神の国の喜ばしい知らせのことです。
 そして36節を見ると、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と書かれています。イエスさまが群衆を憐れまれた。これは35節と続けて読みますと、憐れんだので病気や患いを癒された、と読んでしまいがちですが、実はそうではありません。35節と36節は切り離して読むべきです。すなわち、イエスさまが病気や患いの人を憐れまれたと書いているのではなく、群衆を憐れまれたと書かれているんです。つまり病気の人とか障害をもっておられる方だけではなく、みんなを憐れまれたということです。つまり、その中には私たちすべての人が入ってくるに違いないのです。
 憐れむというと、何か人を見くだしたように思われる人がいるかもしれませんが、そうではありません。この「憐れむ」という言葉は、ギリシャ語では「内臓」という名詞から来ている言葉です。内臓、言葉を換えていえば「はらわた」ですね。日本語でも、「はらわたが煮えくりかえる」とか「はらわたがちぎれる」「はたわたにしみる」という言葉がありますが、そのはらわたです。この「憐れむ」で言えば、「はらわたがちぎれる」に近い表現だと言えるでしょう。すなわち、ここでイエスさまが憐れまれたというのは、何か人を見くだしたというような上から目線のことではなく、その人の身になって心から同情なさったということなんです。
 イエスさまは、人々を見て何をそんなに同情なさったのでしょうか?
 ここでは「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て」と書かれています。飼い主のいない羊‥‥。それはどのような状態でしょうか? それには、羊という動物について知る必要があるでしょう。
 羊という動物は、たいへん古くから人間の家畜となったようで、なんと8000年以上も前から飼われていたようです。羊は群れになる性質が強く、前の羊にくっついて移動する習性があるそうです。ときには、たまたま群れから飛び出した羊のあとを皆がついて行ってしまうこともあるそうです。そのように群れで行動するので、人間がコントロールするためには、羊飼いのいうことをよく聞くように訓練された羊を用いて動かせば、あとの羊はそれについてくるんだそうです。
 しかし、羊飼いがいないと、羊は非常に困る。羊飼いがいないと、山の斜面を上へ上へと進み、また風上に移動する習性を持っているんだそうで、自分たちでは元の場所に戻れないということがあるそうです。猛獣などの外的に対しても、なすすべがない。食べる草のある場所にも、飲み水のある場所にも自分たちで行くことが難しい。‥‥それが羊という家畜だそうです。
 イエスさまは、人々がそのような状態であることを深く憐れまれたという。羊が、たまたま群れから飛び出た羊のあとをみんながついて行ってしまって、自分たちがどこにいるのか分からなくなるように‥‥神さまのところから離れて行ってしまって、戻ることができなくなってしまっている。どこに行ったらよいのか分からない。何をしたらよいのか分からない。とりあえず、みんながしているようにするしかない。しかし平安があるかといえば、平安がない。‥‥それはまさにこの社会の姿ではないでしょうか。そして今、人間が置かれている状況ではないでしょうか。
 
    憐れみの目
 
 しかしそれは、人間の自業自得とも言えるわけです。人間が、勝手に神さまのもとを離れていって、みんなそれについて行っている。なにか確信があって歩んでいるわけではない。羊飼いがいないと、羊は斜面を上へ上へと行く習性があるように、単になんとなく草を求めて歩んでいるに過ぎない。みんながそうしているからというだけで、何をしたらよいのか分かっているわけではない。そしてどこかに不安とあきらめがただよっている。‥‥それは神さまが悪いのではない。人間が悪いんです。神さまという羊飼いに聞き従わなかったからです。だから、それは神のさばきを受けて当然とも言えるわけです。打ちひしがれていても仕方がない。
 ところが、イエスさまは、深く憐れまれたというんです。同情の余地なしと言えるのにもかかわらず、心から同情された。はらわたがちぎれるような思いで、憐れまれたというんです。
 私が前任地で、刑務所の教誨師をしているとき思ったことがあります。その刑務所は、再犯・累犯の方の刑務所でしたが、受刑者の話を聞いていると、不幸な家庭環境で育った人がけっこういるということに気がつきました。たとえば、物心ついた時から、両親がいつもいがみ合っていたとか、親に捨てられ、親戚をたらい回しにされて育ったとかです。つまり、愛されるということを知らないで育っている人がけっこういるということに気がつきました。世の中の人は、刑務所に入れられるようなことをする犯罪者は、ろくでもない連中だと思っている。たしかにやったことは犯罪であり、刑罰は受けなければなりません。しかし、その刑務所の中の受刑者の人たちも、子どもの頃もっと違う環境で育てられたら、こんなことにはならなかったかもしれないな、と思いました。
 イエスさまも、そのような目で見てくださっているんじゃないかと思うんです。私たち自身について考えてみても、自分の内になぜ愛がないのか、なぜなかなか信じられないのか‥‥それは自分自身の責任ということもあるでしょうけれども、この世で生きていくうちに自然にすり込まれたものも大きいのではないかと思います。
 そしてイエスさまは、そういうところもちゃんと見てくださっている。断罪するのではなく「深く憐れまれた」ということには、そういうことも含まれていると思います。そのように深い同情を寄せて、私たちを見てくださっているというところに、私たちの救いがあると言えます。
 
    収穫は多い
 
 続けて主イエスはおっしゃいました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
 この場合の「収穫」という言葉が何を表しているかですが、やはり新約聖書で使われている言葉からすると、救われる人ということでしょう。つまり、イエス・キリストを信じる人です。それが多いとおっしゃっている。
 しかしそのように言われると、私たちはちょっと違うんじゃないかと思うのではないでしょうか。むしろ収穫は少ない、それどころか減っているのではないか、と。たとえば、日本のキリスト教人口は総人口の1%だと言われます。教勢の低下が顕著となってきており、受洗者も減少している。そうすると、イエスさまのおっしゃっているのは違うのではない。収穫はむしろ少なく、受洗者も少ないのだから働き手はそんなにいらないのではないか。そう疑問に思われるんじゃないでしょうか。
 しかしもう少し深く考えてみたいと思います。ここには「収穫」という言葉が使われていますが、収穫の前には何が必要でしょうか。たとえば、今年我が家ではゴーヤ(ニガウリ)をいくつか収穫して食べることができました。収穫できたのは5〜6本程度です。このゴーヤは種を蒔いたわけではありません。勝手に生えてきたんです。おそらく、去年実ったゴーヤの種が自然に落ちて、今年の春になって芽が出てきた。2株出てきました。それを植え替えて水をやったりしたら、成長して実がなったというわけです。その結果、5〜6本のゴーヤを収穫できました。
 しかし、もっとたくさん収穫することもできたはずです。それはどうすればよいかというと、種を蒔くということです。種を買ってきてもっと蒔いたら、もっとたくさんの実を収穫出来たはずです。
 こちらは、有名なミレーの「種を蒔く人」の絵です。当たり前の話しですが、畑一面の麦が実るためには、勝手に畑一面の麦が実るはずはなく、このように種を蒔くということがどうしても必要であるということになります。そこで思い出すのが、パウロの次の言葉です。
(Tコリント 3:6)「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」
 パウロが種を蒔き、伝道者であるアポロが水を注いだ。そのようにそれぞれの役割がある。そして人々の間に蒔かれた種を成長させてくださるのは神である。神さまは、一人芝居をなさろうとはしません。収穫に至るために、神を信じる人を手伝わせるんです。そうして神さまと一緒に収穫の喜びを味わうため、神をほめたたえるようになるためです。
 ですから、イエスさまが「収穫が多いが、働き手が少ない」とおっしゃった時、それは収穫するために鎌を持って刈り取る人だけが少ないとおっしゃったのではなく、種を蒔く人に始まって、水を注ぐ人も含めて働き手が少ないとおっしゃったと言えます。
 そして、働き手が少ないから、みんなを説得して働き手になるようにしろとおっしゃったのではありませんでした。「だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われたんです。収穫の主とは、神さまのことです。神さまに祈りなさいとおっしゃっているんです。種を蒔く人を送ってください、水を注ぐ人を送ってください、収穫する人を送ってください‥‥と。
 ですから、収穫のところだけを見て、多いか少ないかなどと一喜一憂しなくていいんです。種まを蒔く人、水を注ぐ人、そのための働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさいということになります。
 そしてイエスさまがこのようにおっしゃるのは、36節に書かれていたように、イエスさまの深い憐れみの心から来ていることです。人々が、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたと。その憐れみが、人々を救うために働かれる情熱となっておられる。私たちも、そのイエスさまによって救っていただいたことをあらためて感謝したいと思います。
 
    収穫の主に祈る
 
 本日は「世界聖餐日」であると共に「世界宣教の日」でもありますので、少し関連したお話をしたいと思います。キリスト教雑誌である『レムナント』を発行しておられる久保有政牧師によりますと、今、インドでは、イエスを信じるヒンズー教徒が大変増えているそうです。インドはヒンズー教が主体で、キリスト教徒は全人口の1〜2%しかおらず、伝道もきびしく規制されている国ですが、ヒンズー教徒のままイエス・キリストを信じている人が非常に増加しているということです。教会においてではなく、ヒンズー教の会堂でイエス・キリストを礼拝しているそうです。つまり自分たちの宗教に留まりながら、キリストを信じて礼拝している。そういう人の割合が、8〜10%もいるんだそうです。
 そのような現象は、イスラム教徒の中にも起こっているそうです。イスラム教諸国には基本的に信仰の自由はなく、もともとキリスト教の部族で育った人がキリスト教徒になるのは問題ないのですが、イスラム教徒からキリスト教へ改宗するとなると、投獄されたり迫害されたりする国が多いのが実情です。だから伝道がもっとも難しい国の一つがイスラム教国であると言えるでしょう。ところが、そういう国でも、イエスを信じるイスラム教徒という人が増えているそうです。つまりイスラム教の中に留まりながら、イエスを信じて祈る。そういう人々です。
 同じことがイスラエルのユダヤ人の中にも起きています。ユダヤ人も、もっとも伝道の難しい民族の一つですが、ユダヤ教徒のままでイエスさまを信じる人々が増えている。それを、メシアニック・ジューと呼ぶんです。
 そういう人々は統計には表れてきません。しかし実際には増加している。この人々がやがていつか、表立って教会に集うようになる日が来ることを祈るのも今日のイエスさまの御言葉に含まれることでしょう。
 日本でも同じことが言えると思います。「自分はクリスチャンではないが、イエスを信じている」「祈っている」あるいは十字架のペンダントをつけている。‥‥そういう人々に更に水が注がれ、主が導いてくださって、ついにはキリストの体なる教会へとつなげられる。そう祈るこことができます。
 最後にヨハネによる福音書10章11節のイエスさまの言葉を思い出したいと思います。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」‥‥飼い主のいない羊を憐れんでくださり、ご自分の命を捨てて、私たちを救ってくださるイエスさま。このあとの聖餐式は、その十字架のキリストの愛を示しています。


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