2019年9月29日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 創世記3章15節
    マタイによる福音書9章32〜34節
●説教 「見えない世界の出来事」
 
    口の利けない人が
 
 32節を見ますと「二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た」と書かれています。この「二人が出て行くと」というのは、この前の出来事のことで、イエスさまによって目を見えるようにしていただいた二人の盲人のことです。彼らが出て行くと、入れ替わるようにこの口の利けない人が連れられてきた‥‥。まさにイエスさまには、休みなしという状況です。そのように、休みなしという状況でも、イエスさまはお断りにならない。人々の求める声に応じられます。それはいったいなぜか、と考えてみますと、やはりそれは憐れみであり、愛であると言わなければならないでしょう。前回の二人の盲人についても、その前の死んだ少女を生き返らせたことも、長血を患っている女性の癒しも、それまでのさまざまな病を抱えている人の癒しにしても、イエスさまにはそれらの希望に応じる理由など何もないと、私たちには思われるのですが、応じてこられました。義務感からでもない、強制されてでもない、もちろん商売ということでもありません。ただ、憐れみからであり、愛から出てくる対応だと言うほかはありません。
 そしてきょうはこの「悪霊に取りつかれて口の利けない人」と書かれている人です。悪霊に取りつかれてというと、何かキツネ憑きのような印象を受けますが、この言葉は「悪霊に支配されている人」という意味なんです。そしてこの人は口が利けなかった。この「口が利けない」というギリシャ語には、「耳が聞こえない」という意味にもなる言葉なのですが、とにかくそのような状態だった。
 そのように書かれていますと、中には「古代人は、病気でも障害でもなんでも悪霊のせいにした」と言う人がいるんですが、それは違っていると思うんです。なぜなら、悪霊というのは悪魔の配下ですから、悪霊を否定すると悪魔、つまりサタンがいないことになってしまいます。そうすると聖書全体がひっくり返ってしまうんです。だから悪霊は存在する。ただ注意しなければならないことは、病気や障害、ここでは口の利けないということがすべて悪霊のしわざであるわけではないということです。今日の登場人物であるこの人は、ということです。この人は、悪霊に支配されて口が利けないようにされていた、ということです。
 そしてイエスさまは、その人から悪霊を追い出された。悪霊がこの人を支配して苦しめることを許さなかったということです。そのように、イエスさまには悪霊を制する権能を持っておられることが分かります。
 
    口の利けない人
 
 口の利けなかった人が利けるようになる。これは奇跡ですね。そうすると、「こんなこと、ありえない」と思う人がいたり、あるいは「これは実際に奇跡が起こったのではなく、このような物語を書くことによって何かを教えようとしているのだ」とかいうように考える人もいるわけです。
 しかし、私は、そのように客観的にあれこれ詮索するのではなく、まず本人の身になって考えたいと思うんです。ここには、悪霊によって苦しめられてた人がいるわけです。その人の身になって考えたい。
 たとえば、もう26年も前の話ですが、当時の皇后だった美智子さまが失語症になられたことがありました。原因は週刊誌等による事実無根の記事によるバッシングであったと言われています。それで声が出なくなられた。つまりその背景には、ものすごい精神的なストレスがあったと思うんです。言葉が出なくなるほどのストレスと苦しみ。そう考えるだけで心が痛みます。
 今日のこの口の利けない人が、失語症であったかどうかは分かりませんが、いずれにしろ、そこには本人にしか分からないような非常な苦しみがあったはずです。悪霊というのは、そのようなことを引き起こし、人を苦しめて、神を信じないように仕向けるんです。
 それがイエスさまによって悪霊から解放され、ものを言うことができるようになった。どんなにうれしかったことか、と思います。そういう、本人の苦しみや喜びを想像して考えてみる。聖書学的にどうこう言うよりも、そういうところを考えながら聖書を読むものでありたいと思います。
 
    中傷
 
 さて、そのようにすばらしいことが起きた。多くの人々も驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言いました。驚いて喜んだんですね。
 ところが、です。これを喜ばない人がいた。それが宗教家であるファリサイ派の人たちです。彼らはイエスさまについて言いました。「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と。悪霊の頭と言えば、それは悪魔、つまりサタンでしょう。このファリサイ派の人たちの言葉は、きょうの口の利けない人の解放だけを見ていったのではないでしょう。これまでイエスさまがなさってきた、さまざまな病気の癒やしなどを見聞きしてきて、このように言ったと思われます。
 多くの人々はイエスさまのなさっている奇跡を見て、感動して、それは神のわざだと信じ始めている。ところが、人々を教える立場であるファリサイ派の先生たちが、それは神のわざではなく悪魔・サタンの業であると言うんです。180度違う見解を表明しているんです。神のわざなのか、サタンの業なのかでは正反対です。
 ちょっとおさらいしておきますと、神は聖書では天地の創造主であり、私たちをお造りになり私たちに命を与えた方です。それに対して、サタンは神ではありませんから、神によって造られたものであるに違いありません。だから、神に並び立つような存在ではなく、圧倒的な神の力とは比べものになりません。ですから、サタンも天使のような存在なんですが、ただサタンは神の愛を信じられないんです。愛というものを信じない。そして人間に対してどのように働きかけてくるかと言えば、人間が神を信じないように働きかけてくる。
 私たちはふだんはあまり意識していませんが、サタンは過去の存在ではなく、今もそのようにして私たちに働きかけているんです。つまり、人々が本当の神を信じないように、そして愛を信じないように誘導しているってことです。そう考えますと、まさにサタン、悪霊は現在も大活躍しているということが分かります。この世の中を見ておりますと、さまざまな問題が横たわっています。争いがあり、憎しみあいがあり、トラブルがあり、悩みがあり、犯罪があり、自分勝手なことがあり、嫌なことが山ほどあります。まさに、神などいない、愛などどこにあるのか?‥‥と思わざるを得ないような世の中です。みんな自分のことしか考えていないように思われます。
 そのようなことを見ておりますと、まさにサタン、悪霊の勝利であるようにさえ見えます。悪霊は、人が真の神さまを信じないようにさせることに成功し、本当の愛など決してないのだと人間に思わせることに成功しているように見えます。神など信じてもムダだと、だから他人のことなどほうっておいて、自分のことだけ考えていれば良いんだと思わせている。サタンの勝利です。
 しかし、聖書はそうは言っていません。神は聖霊を通して、働いておられると語ります。神は愛であり、この罪人である私たち人間を、見捨てるのではなく救うために、今も聖霊を通して招いておられると。
 イエスさまの働きはどうでしょうか? 最初に申し上げたように、休む間もなく病気や悪霊で苦しむ人々を受け入れ、癒されているその働きは、愛から出ていると言うほかはありません。人々には喜びが生まれ、神への感謝と讃美が起きています。これは悪霊の働きなどではなく、神の働きそのものと言わなければならないでしょう。
 
    悪意を持って言う人たち
 
 しかるに、なぜファリサイ派の人たちは、イエスさまの働きが悪霊の頭、サタンの働きなのだというのでしょうか? 彼らは旧約聖書を学び、人々に神のことを教える先生ではなかったでしょうか? その彼らがなぜイエスさまのことを悪霊の頭呼ばわりするのでしょうか?
 このことについて、ずっと後のところになりますが、イエスさまが捕らえられて、ローマ帝国の総督であるピラトのところに連れて行かれ、十字架にかけるように訴えられた時のことが書かれているところです。そこにはたいへん恐ろしいことが書かれています。(マタイ27:18)「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」‥‥総督であるポンテオ・ピラトは、イエスさまを憎む人々がイエスさまを十字架につけろと要求する理由が、ねたみから来ていると分かっていた、と。
 やれ、イエスは神を冒涜したとか、律法に違反したとか、表面上はいろいろな理由をくっつけているけれども、本当のところは、イエスさまへのねたみであったと言うんです。これは本当に恐ろしいことと言わなければなりません。ねたみの結果、イエスさまを十字架の死刑台へと追いやっていく。神を殺すということに至るのです。サタンは、人間のねたみを利用したのです。
 そう考えると、悪霊に取りつかれているのは、きょうのところではファリサイ派の人たちということになります。イエスさまのことを「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と彼らが言った理由は、実はねたみから出た言葉であったということになります。ファリサイ派がなぜイエスさまをねたんだのか?‥‥それは、今まではファリサイ派の人たちが、人々から先生と呼ばれて尊敬されていた。ところがイエスさまが出てきてからは、人々はイエスさまを尊敬し、慕うようになっていっています。その辺ですね。そもそもファリサイ派には、自分たちは聖書の専門家であり、神の子とはなんでも知っているという自負があります。プライドがあるわけです。それに引き換え、あのイエスという男は、誰かの師匠に師事して神学を学んだわけでもない。それなのに、民衆はイエスを慕っている‥‥。そういうプライドから出たねたみが、イエスさまのことを正しく見ることができなくさせてしまったと言えるでしょう。そしてこともあろうに、イエスさまは悪霊の頭なのだというに至る。もう神さまが見えなくなってしまっています。喜ばしいことが起こっているのに、それが分からなくなる。
 そのように、人間的なプライドとかねたみというものは、神の恵みを分からなくさせてしまいます。
 
    悪霊からの解放
 
 これは決して他人事ではありません。私たちの中にも、そのような感情があるからです。同僚がほめられたり、賞賛されたりすると、心の中が穏やかではなくなる。ケチをつけたくなる。ねたみです。あるいは、同じような立場の人が成功を収めているのを見ると、おもしろくない。ねたみです。誰かが人のことをほめていると、「いやいや、あの人にはこんなところもあるよ」と、欠点をあげつらいたくなる。ねたみです。それこそが悪霊の思うつぼなんです。その結果、神を見失うこととなる。
 どうしたら、そのような悪から解放されることができるんでしょうか?‥‥それは、自分が人をねたむような心のある罪人であることを知るということです。自分自身が、ねたむ心があり、自分を誇るようなところのある罪人であることに気がつくということです。そしてそれを神さまに告白するということです。
 自分がねたみや、変なプライドを持つような罪人であることを知ることが、どうして悪から解放されることにつながるのか?‥‥と不審に思われるかもしれません。それは逆効果ではないかと思われるかもしれません。しかし実は、そこから始まるんです。自分自身が変えられるということがです。自分自身の中に、そのような悪や罪があることを認める。それが聖書で言う「悔い改め」なんです。そして、そこから聖霊の働きが自分の内側で始まるんです。自分が罪人であることを認めたところから始まります。そして聖霊が、そういう罪人である自分を変えていってくださる。
 そうすると、いかに自分がそういうねたみやプライドといったものに縛られていたかが分かってくるんですね。言葉を換えていえば、悪霊に取りつかれていたかが分かってきます。もう、格好つける必要はない。ありのままの罪人であるこの私を、イエスさまが受け入れてくださることを知るからです。見栄とかプライドとかねたみというようなものから解放されるんですね。だんだんと。それも、イエスさまを信じることの楽しみの一つです。
 このあと歌います讃美歌21の356番「インマヌエルの主イエスこそ」ですが、インマヌエルとはヘブライ語で、「神は我らと共に」という意味です。主イエスが、こんな愚かで弱い自分とも共に歩んでくださる。そこに希望があります。


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