2019年9月22日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 列王記下6章16〜17節
      マタイによる福音書9章27〜31節
●説教 「あわれみを求める」

 
    あわれみを求める
 
 前回は、死んだ少女を生き返らせるという出来事がありました。死というものは、すべての人に必ず訪れる避けられない不幸であり、終わりです。しかしこの出来事は、イエスさまにとっては死は終わりではなく、眠りであると見なされる。そして、やがてイエスさまによって死から起こされて、永遠の神の国に迎えられる。そのことを指し示していました。
 そしてきょうの聖書箇所ですが、「イエスがそこからお出かけになると」と書かれています。少女の家を出て行かれると、まもなく二人の盲人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来ました。まさにイエスさまには、休む暇もないという状況です。
 「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。たしかに目が見えないということは、たいへんなことに違いありません。人の手を借りないと生活ができません。また、この時代は貧しい時代です。福祉もありません。食べていくだけでもたいへんなことです。ですから、誰かの援助を受けるか、あるいは物乞いをしなければ生きていくことができないのでした。そのふたりが、イエスさまに憐れみを求めてついてきました。そしてここで彼らが言う憐れみとは、施しを乞うている言葉ではありません。自分たちの目を開けてくださいということなのです。
 憐れみを求める。私はキリストを信じるようになるまでは、自分が憐れみを求めるというようなことは考えられませんでした。たとえば、誰かから「おまえはあわれな奴だなあ」などと言われたら、それは侮辱の言葉だと受け止め、間違いなくケンカになっていたでしょう。他人から憐れまれるということは屈辱であり、そこまで自分は落ちぶれていないと思うのが普通ではないでしょうか。ですから、憐れみを求めるというと、せいぜい、大学生の時に単位を落としそうになった時に、その教授に憐れみを求める‥‥というぐらいで、人から憐れみを求めるなどということは考えられないことでした。憐れみを求めるということは、自分のプライドを捨てるということに他ならないからです。
 しかし、やがてイエスさまを信じるように導かれてからは、自分が神さまの前には何も誇るべきものがない人間であることが分かりました。神さまに向かって、「主よ、わたしはこんなに良い人間ですから救ってください」などと言うことは決してできないことを知りました。神さまに向かっては、ただ憐れみを求めるしかないことを知ったのです。
 
    ダビデの子
 
 「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。ここで彼らは、イエスさまのことを「ダビデの子よ」と呼んでいます。
 ダビデというのはもちろん、昔のイスラエル王国の王様です。イスラエルの国が全盛期を迎えた時代の王です。そしてダビデは、主を信じ、主の目にかなう正しいことをおこなった王でした。そして何よりも、主は、ダビデの王国の王座をとこしえに固く据えると約束なさいました。ダビデの子孫によって、ダビデの王座はとこしえに続くと。しかしやがて国は滅び、バビロン捕囚となってしまいました。そして今はローマ帝国に支配されています。しかしイスラエルの人々は、昔ダビデに主なる神さまが約束なさったことを信じて、神さまが救い主・メシア・キリストを送ってくださることを待っていました。
 このマタイによる福音書がどういう言葉で始まっていたか、皆さまは覚えておられますか?‥‥「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まっていました。それは単にアブラハム、そしてダビデの子孫ということではなく、その昔、主なる神さまがアブラハムに約束したこと、そして次にダビデに約束した約束が果たされた、それがイエスさまであると述べているのだと、このマタイによる福音書の説教の最初に申し上げたとおりです。
 ですから、このふたりの盲人が、イエスさまのことを「ダビデの子」と呼んだ、それは神さまがダビデに対してなさった約束を受け継ぐ者だと言っているんです。もう少しハッキリ踏み込んで言えば、ダビデの子とは、あなたはキリストですと言っていると言えます。これはちょっとすごいことなんですね。というのは、マタイによる福音書ではイエスさまのことを「ダビデの子」と呼んでいるのは何度も出てくるんですが、このふたりの盲人が言ったのが最初なんです。すなわち、世の中の多くの人々が、イエスさまが何者であるか、まだハッキリ分かっていないときに、このふたりの盲人は、イエスさまがダビデの子であると言っている。
 少し前の8章29節では、悪霊に取りつかれたふたりのガダラ人が、イエスさまのことを「神の子」と呼んでいました。悪霊に取りつかれて苦しんでいた外国人、そして目が見えないために非常な苦労を重ねてきた今日のふたり。世の中の多くの人々が目に留めないような人によって、イエスさまの真実が言い当てられています。
 
    本気度
 
 さて、ふたりがそのようにして「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言ってついて来るのに、イエスさまは何もお答えになりません。黙っておられる。そして家に入られました。この家は、おそらくペトロの家であると思われるということは、前にも申し上げました。
 なぜイエスさまは、行く道でイエスさまにお願いし続けるふたりの盲人に、答えられなかったのでしょうか?‥‥いろいろ考えられますが、たしかなことは分かりません。ただ、私たちも、神さまにお祈りしていて、すぐに答えられるとは限りません。むしろ、長く祈り続けなければならないことの方が多いように思います。なぜ主がすぐに答えてくださらないのかは、分かりません。しかし、すぐに答えられないことによって、むしろ多くのことを教わったように思います。
 きょうの聖書でも、イエスさまはすぐに答えられませんでした。そうして家に入られた。するとあのふたりも一緒に入ってきた。食い下がるんですね。そしてイエスさまのそばに寄っていった。祝福してくださるまで離れません、という感じです。
 するとイエスさまがふたりに尋ねられた。「わたしにできると信じるのか」。興味深いんですが、ここまでふたりは「目が見えるようにしてください」とは言っていないんですね。ただ「憐れんでください」と言うだけです。またイエスさまのほうも、「わたしにあなた方の目を見えるようにできると信じるのか?」とはお聞きになっていない。ただ、「わたしにできると信じるのか?」とおっしゃっているだけです。
 また、この「信じるか」の「信じる」という言葉ですが、「信頼する」という意味なんです。ふたりが願うことをイエスさまがなすことができると信頼するか、とお聞きになっている。そうするとこのふたりは「はい、主よ」と答えています。何という単純明快な答えでしょう!このふたりは、イエスさまが自分たちを憐れんで、願いをかなえて下さることをいささかも疑っていない。「わたしにできると信じるのか?」と聞かれて、「はい、主よ」と何の疑問もてらいもなく答えています。
 私たちはどうでしょうか。今、難しい問題を抱えているとしたら、イエスさまがそれを解決することができると、単純に信じているでしょうか? 私は大いに悔い改めさせられるんです。解決が考えつかない、思い煩う、心配になる‥‥そういう問題を抱えていて、しかしイエスさまならこれを解決することができると信頼して、平安な気持ちになることができるだろうか、と。
 そう考えますと、このふたりの「はい、主よ」という元気の良い即答は、むしろ感動いたします。今まで目が見えないために、どれだけの苦労を重ねてきたかもしれない。つらい思いをしてきたかしれない。悔しい思いをしてきたかもしれない。貧しさのどん底にあったかもしれない。物乞いをして生きてきたのかもしれません。しかし今、イエスさまと出会って、イエスさまを全面的に信頼している。この方こそ救い主であると信じている。「私たちを憐れんでください」という言葉に応えてくださると信じている。だからこそ、「はい、主よ」と即答している。
 
    あなたがたの信じているとおりに
 
 そこでイエスさまは、ふたりの目に触られ、「あなたがたの信じているとおりになるように」とおっしゃった。するとふたりは見えるようになった。
 「あなたがたの信じているとおりになるように」。先ほども申し上げましたように、ここまでふたりも「目が見えるようにしてください」と言っていませんし、イエスさまも「目を見えるように」とは言っておられません。しかしだからこそ、ここでは何を願うかということよりも、イエスさまを信じる信仰に焦点が合わさっていることが分かります。
 「あなたがたの信じているとおりになるように」。私たちはイエスさまをどう信じるのでしょうか。8章の百人隊長の出来事の時も同じような言葉をイエスさまはおっしゃいました。「あなたが信じたとおりになるように」と。
 「わたしにはできないから、イエスさまにもできない」と信じてしまったとしたら、それは何のためにイエスさまを信じているのか分かりません。「わたしにはできないが、イエスさまならできる」と信じるならば幸いです。そのとき、「あなたがたの信じているとおりになるように」という言葉は、祝福の言葉となります。
 
    救いとは何か?
 
 さて、ふたりの目が見えるようになったあと、イエスさまはふたりにおっしゃいました。「このことは誰にも知らせてはいけない」。しかしふたりは、よほどうれしくて興奮していたのでしょう、その地方一帯に言い広めたと書かれて終わっています。
 このことですが、なぜイエスさまは「誰にも知らせてはいけない」ときびしく命じられたんでしょうか?‥‥これもいろいろ推測はできるんですが、少なくとも、イエスさまは、人々の目を見えるようにしたり、あるいは病気を治したりするために、この世に来られたのではないということだけはハッキリすると思います。もしイエスさまが、病気を治したり、盲人の方の目を見えるようにするためにこの世に来られたのなら、このふたりに対して、もっとこのことを宣伝してなるべく多くの病気の人を連れてくるようにしなさい、と言ったでしょう。
 しかしイエスさまは、そうではない。たしかに病気が治ったり、目の見えない人の目が見えるようになると言うことはすばらしいことであるに違いありません。しかし少なくともイエスさまは、そのためにこの世に来られたのではない。では何のために来られたのか、ということを考えながら聖書を読んでいく。そうするとやがて、イエスさまの十字架に行き着きます。そこで、このためにイエスさまは来られたのかということが分かります。すなわち、わたしたちすべての者を救うということです。
 
    見えないものが見える
 
 さて、今日はふたりの盲人とイエスさまとの出会いについて書かれていましたが、旧約聖書のほうは、列王記下6章16〜17節を読みました。その個所は、有名な預言者エリシャの物語の中の一場面です。
 ある朝、エリシャの従者が起きてみると、その町を敵国アラムの軍隊が包囲していました。従者は驚いて、恐れおののきました。自分たちは殺されると思ったんです。すると主人である預言者エリシャは言いました。「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者のほうが、彼らと共にいる者より多い」。そしてエリシャは主に向かって祈りました。「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」。すると主が従者の目を開かれました。そして従者は、火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのが見えました。これは天の軍勢のことです。肉眼の目には、自分たちを敵のアラムの軍隊が包囲していることが見える。しかし、霊の目、すなわち信仰の目が開かれたところ、実は自分たちのまわりに天の神が遣わされた軍勢が満ちていて、守ってくださっているのが見えたというのです。
 きょうの聖書で、目の見えない人の目をイエスさまが開かれましたが、ではわたしたちは見えているのだろうかと、自らを省みる必要があると思います。わたしたち共にイエスさまがいてくださることを、信仰の目で見るようにさせていただきたいものです。そして、この一週間も、目には見えませんが、聖霊によって共に歩んでくださるイエスさまを、信仰の目で見ながら歩んでいきたいと思います。


[説教の見出しページに戻る]