2019年9月15日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教/敬老合同礼拝
●聖書 詩編 116編 9〜11節
      マタイによる福音書 9章18〜26節
●説教 「信仰による救い」

 
 今日は敬老合同礼拝です。一年に一度だけですが、こうして教会学校に来ている皆さんと、大人が一緒に神さまを礼拝しています。教会は大きな家族のようなものです。赤ちゃんから、お年寄りまで、一緒に集まって同じことをするということは、この世の中には他にほとんどありません。幼稚園・保育所では幼い子どもたちだけ、学校ではそこに通う生徒や学生だけ、会社では働き盛りの人だけ、老人ホームではお年寄りだけです。ところが、教会では赤ちゃんから高齢者まで、同じ教会に集まって同じ神さまを礼拝しています。そう考えると、教会という所はとてもすばらしい所だと思います。
 
    台風
 
 先週の日曜日の夜から月曜日の朝にかけて、台風15号がきました。皆さんの所は大丈夫だったでしょうか? 屋根が飛んだり、窓ガラスが割れたり、家が壊れた人もいます。まだ停電で電気が使えない人たちもいます。とてもたいへんです。わたくしも昔、台風の被害に遭ったことがありますので、本当に被害に遭った人たちはたいへんだと思います。どうか神さまのお助けと導きがあるように、祈っていきましょう。
 
    愛する者の死
 
 さて、きょうの聖書のお話しには、二つの出来事が書かれています。一つ目は、イエスさまに娘を生き返らせて下さいとお願いした人のできごとです。もう一つは、長い間病気で苦しんでいた女の人の出来事です。
 まず一人目を見てみましょう。「ある指導者」がイエスさまのそばにひれ伏して言いました。「わたしの娘がたった今死にました。」‥‥この人の娘さんが亡くなった。死んだんです。
 みなさんは、お葬式に出たことはありますか? あるいは、自分の親しい人が亡くなったという経験はありますか? 人が死ぬということは、とても悲しいことです。死ぬと、もうその人が動きません。言葉もしゃべりません。名前を呼んでも答えません。息もしていません。今まで仲良くしていたり、お話をしたり、一緒にどこかに行っていたのに、もうどこに行くこともできません。お話しをすることもできません。動きません。とても寂しく、とても悲しいことです。
 きょうの聖書に出てくるこの人は、自分の娘が亡くなりました。どんなに悲しく、つらいことでしょう。人間、みな年を取って、やがて必ず死にます。でもこの人は、自分の子どもが死んだんです。まだ子どもです。親が先に死ぬのなら分かります。親が死んでも悲しいです。でも、子どもが死んだらどんなに悲しいでしょう。やりたいこともいろいろあったでしょう。大人になったらどんな人になるのか、楽しみだったでしょう。でも死んでしまったんです。このお父さんはどんなに悲しく、つらかったでしょう。でも、死んでしまったら、もうどうすることもできません。生き返ることはないからです。もとにもどらないんです。
 でもこのお父さんは、あきらめなかったんです。イエスさまの所に行ったんです。そしてイエスさまに言いました。「わたしの娘が、たった今死にました。でも、お出でになって手を置いてやって下さい。そうすれば、生き返るでしょう。」
 いくらイエスさまでも、死んだ子供を生き返らせることなんかできるんでしょうか? 無理のように思います。でもこのお父さんは、イエスさまにお願いしたんです。イエスさまのすがったんです。他にどうすることもできなかったけれども、イエスさまのところに来てお願いしたんです。みんなが見ている前で、このお父さんは、地面にひれ伏して、イエスさまにお願いしました。
 イエスさまはどうしたでしょう。イエスさまは立ち上がって、このお父さんと一緒にこのお父さんの家に向かったんです。さあ、どうなるのでしょう。ドキドキします。今死んだ。だから、早く行かないといけない。そんなふうに思います。
 
    一人の女
 
 ところが、その家に行く途中に、ある出来事が起きたんです。それがもう一人の人の出来事です。病気のために12年間も出血で苦しんでいる女の人が、先ほどの指導者であるお父さんの家に向かっているイエスさまに近づいて、後ろからイエスさまの服の房に触れたんです。
 どうして後ろからイエスさまの服に触れたんでしょうか。さっきの指導者のように、イエスさまに助けを求めてお願いすればよかったのではないでしょうか?
 実は、この人の病気、血が止まらないという病気は、穢れた病気とされていました。それで皆から嫌われていました。いじめられていたと言っても良いでしょう。何も悪いことをしたわけではない。なのに穢れた病気と言われ、病気だけでもつらくて苦しいのに、いじめられてもっと苦しい。でもどうすることもできない。みんなから嫌われるので、みんなに見つからないように、人々の間に隠れて、イエスさまの服にそっと触ったのかもしれません。お医者さんも治すことができない。苦しくてつらくて、もうイエスさまに頼るしかない。でも、正面からお願いするのも気が引ける。それでこっそり後ろからイエスさまの服にでも触れれば治ると信じて近づいたのでしょう。
 すると、こっそり触ったつもりが、イエスさまは気がついてしまいました。イエスさまは振り向いて、その女の人を見ました。怒られるんでしょうか? それとも、断られるんでしょうか?‥‥イエスさまはこうおっしゃいました。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そうするとこの人の病気が治った。すばらしいことが起こりました。
 イエスさまはこの人を「娘よ」と呼びました。自分の娘のように、やさしく受け入れたんです。そして「元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。信仰。イエスさまの所に行けば、なんとかなると信じたんです。
 さっきの指導者のように、みんなの前でイエスさまの前にひれ伏してお願いしてもいいんです。またこの女の人のように、こっそりとイエスさまのところに来ても良いんです。とにかくイエスさまの所に来ることです。
 
    死との対決
 
 さて、イエスさまたちは、さっきの指導者の家に行きました。そうすると、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆たちがいたことが書かれています。これは何かお祭りをしているんではありません。これは、人が死んだので、悲しんで笛を吹いたり、悲しみの叫びを上げて騒いでいたんです。
 日本では、人が死んだら、なるべく静かにしますね。騒いだら失礼と思うからです。でもイエスさまの国では全く反対です。人が死んだら、なるべく大声で悲しみ、泣くんです。それが礼儀なんです。だから騒がしいんです。指導者の人の娘が死んだ。それで多くの人が来て、泣いているんです。
 けれどもイエスさまはおっしゃいました。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」 そうすると人々はイエスさまのことを笑いました。「何をばかなことを言っているんだ。このうちの娘さんは死んだんだよ。なにもわかっていないな‥‥」と笑ったんでしょう。
 イエスさまはこの指導者の家に入って行かれました。死んだ子どもを前にして、イエスさまはどうしようというんでしょう。
 イエスさまは床の上に横たえられている女の子の手を取って、起こされたんです。まるで眠っている人を起こすかのように。するとその子は起き上がった。生き返ったんです!イエスさまがそうして下さったんです。
 この女の子は、今生きているんでしょうか?‥‥いません。この時は生き返りましたが、やがて年を取って亡くなったでしょう。では、どうしてこの時は生き返らせてもらったんでしょうか?‥‥それは、人は死んだら終わりだと思っているけれども、そうではないということをイエスさまが教えて下さったんです。天国、神の国があるよと。そこへイエスさまが連れて行って下さるよ、ということを。
 
    永遠の命の希望
 
 今年の2月に、私の母が亡くなりました。89歳でした。戦争が終わって、間もなくして教会へ行くようになりました。そしてイエスさまを信じて洗礼を受けて、ずっと教会へ通い続けました。神さまを礼拝し続けました。人のためによくお世話をしていました。困っている人がいると、助けていたようです。教会のためにもいっしょうけんめいでした。よく動く人でした。
 ところが、年を取ってから、だんだん何もしなくなりました。できなくなったんですね。やがて、何も動けないし、なにもしゃべらなくなりました。人のお世話を良くしていた人が、人のお世話になるようになりました。そして、2月2日に亡くなりました。次の日の3日、この逗子教会の礼拝をしてから、静岡の家に向かいました。母は、家の布団の上に寝かされていました。顔を見ました。眠っているように見えました。でも死んだんです。声をかけても目を開きません。息もしていません。何も動きません。死んだんです。
 でも、今日のイエスさまのことばを思い出しましょう。「死んだのではない。眠っているのだ。」そしてイエスさまが手を取って、起こして下さる。それは神の国の予告です。イエスさまにとって、死は終わりではありません。イエスさまから見れば、死は眠りです。ですから、母が死んだことは悲しいことですが、でもイエスさまがおられるから、希望があるんです。
 きょうの聖書は、そのように、とにかくイエスさまの所に行くように教えています。娘さんが亡くなった指導者のように、イエスさまの前にひれ伏してお願いしても良いです。あるいは、12年間も病気で苦しんでいた女の人のように、こっそりイエスさまにお祈りしても良いんです。とにかく、イエスさまのお名前によって神さまにお祈りする。それはむだには終わりません。


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