2019年9月1日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 詩編 14編 1〜3節
      マタイによる福音書 9章9〜13節
●説教 「罪人とは誰のこと?」

 
    弟子となったマタイ
 
 本日は、マタイという人がイエスさまの弟子になったという所です。今わたしたちが朝の主日礼拝で読んでおります福音書はマタイによる福音書ですから、これはこの福音書を書いたマタイ自身がイエスさまの弟子となった時の証しが書かれていると言ってもよいでしょう。
 イエスさまは、通りがかりに収税所に座っているマタイを見て、「わたしに従いなさい」とおっしゃったと書かれています。収税所というのは、文字通り税金を収める場所です。とくに通行税や市場に出される商品にかける税などを収める場所でした。つまりマタイは徴税人であったわけです。徴税人というのは、ユダヤを支配しているローマ帝国に収める税金を徴収する人でした。つまり占領政府に収める税金を徴収するんです。ローマ帝国は、占領した国から税金を徴収するために、ローマ人ではなく現地人を使って徴収しました。
 マタイは収税所に座っていた。つまり徴税人としての仕事をしていました。そこに通りかかったイエスさまが声をかけられた。するとマタイは立ち上がってイエスに従った、と書かれています。「従った」の「従う」と日本語に訳されているギリシャ語は、「従う」の他に「ついて行く」「同行する」という意味があります。すなわち、イエスさまの弟子となるということは、何も難しいことではなく、イエスさまについて行く、あるいはイエスさまに同行するということであることが分かります。
 9節をよく見ると、収税所に座っていたマタイが、立ち上がってイエスさまに従った。座っていたのが、立ち上がる。‥‥座っていたんですから、イエスさまについて行くためには当然立ち上がらなければならないわけで、わざわざ「立ち上がって」と書く必要がないし、くどい書き方のように見えます。しかしそこに、マタイが強調したいところがあると思うんです。
 すなわち、それまでの自分から、イエスさまに従う新しい自分へと立ち上がったという意味が込められていると思います。イエスさまと共に歩む、新しい自分へと踏み出した。ですから、「座っている」ことと「立ち上がる」ことがわざわざ書かれているというのは、そういうマタイの心の中の変化を書きたいのだと思います。余談ですが、マタイによる福音書の解説の本などを読むと、この福音書は本当はマタイが書いたのではないというような解説をしている学者もいるわけですが、私はこういう心の動きを書いているということは、やはり伝統的に言われているようにマタイ本人が書いたのだと思うわけです。
 また、立ち上がってイエスさまについて行ったというと、そのままイエスさまと一緒にどこかに行ってしまったという印象を受けますが、10節を見ますと、イエスさまや多くの人がマタイの家で食事をしています。ですから、イエスさまに従うとかついて行くという言葉は、どこかに出て行く、つまり出家するということよりも、これまでの自分から、イエスさまについて行く新しい自分が始まるということであることが分かります。
 いずれにしても、イエスさまの弟子となるということは、イエスさまの招きに応えて、イエスさまについて行くということであります。
 
    ファリサイ派の非難
 
 さて、イエスさまと共に歩むことを決めたマタイは、イエスさまと弟子たちを食事に招待したようです。感謝の宴席を設けたのでしょう。するとそこに、「徴税人や罪人」も大勢やって来たと書かれています。そしてファリサイ派の人たちもその席にいて、徴税人や罪人も大勢やって来て食卓に着いているのを見て、イエスさまの弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか?」と問うたと書かれています。これは純粋に質問しているのではなく、批判している言い方なんです。つまり「徴税人や罪人と一緒に食事をするなんて、おかしい」ということです。それを直接イエスさまに言えば良いものを、弟子たちに言ったという。
 ここで徴税人と罪人という言葉について説明しておく必要があるでしょう。まず「徴税人」ですが、これは先ほども申しましたように、ローマ帝国に収める税金を徴収する人です。それがどうして嫌われるかということですが、ユダヤ人はローマ帝国に占領されていることを快く思っていないということがまず前提としてあります。とくにユダヤ人は、自分たちが神の民であると思っていますから、誇り高い。それが異教徒のローマ人に支配されている。そして、同じユダヤ人でありながらローマ仁の手先となって、税金を徴収している徴税人はけしからん、民族の裏切り者である、というわけです。さらに、徴税人は、税務署のお役人さんとは違います。税務署のお役人さんは、サラリーマンであり、国家公務員であり、決められた額を決められたとおり徴収するわけですが、徴税人は公務員じゃないんです。税金徴収を請け負っているんですね。つまり税金徴収の自営業者なんです。だから人々から税金を取るとき、マージンを上乗せして取るわけです。そしてそのマージンをかなり多く取ったりしたようです。そうしてもうける。あるいは、賄賂をもらって金持ちの脱税を見逃したりしていた人もいた。‥‥そういうことですから、同じユダヤ人から嫌われていました。罪人と同じように見られました。
 それで今度は「罪人」ですが、これは私たちキリスト教会がいう罪人とは違う使い方をしているから要注意です。ここでファリサイ派が言っている罪人というのは、ユダヤ教の戒律、すなわち律法を厳格に守ろうとしない人々、という意味です。現在のイスラエルでは、ユダヤ教は超正統派、正統派、世俗派などに分かれていますが、それで言うと世俗派に近いような人々です。神を信じ、礼拝もしているけれども、ファリサイ派のように厳格に戒律を守っていない。そういう人々のことをファリサイ派は「罪人」と呼んだようです。
 イエスさまが神の国の福音を教え、病気の人を癒し、悪霊を追い出し、人々の信頼を集めている。イエスさまも教師であると見られている。そのイエスさまが、なぜ徴税人や罪人と共に食卓を囲んでいるのを見て、ファリサイ派の人々は眉をひそめたというわけです。
 
    罪人とは誰のことか?
 
 するとイエスさまはそれが耳に入って、おっしゃった。それが12節〜13節です。
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。」
 たしかに、医者を必要とするのは病人です。それと同じように、イエスさまが来られたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。そのようにイエスさまはおっしゃいます。
 この言葉を私たちはどのように聞くかということが問題です。すなわち、自分に対して語られた言葉として聞くのか、それとも他人事として聞くのか、ということです。言い換えれば、自分は罪人なのか、そうではないのか、どちらなのかということです。
 ファリサイ派の人にとっては、罪人というのは自分のことではありませんでした。自分たちは神の戒律、律法をきちんと守っている「正しい人」でした。だから律法をちゃんと守ろうとしない人々を非難したんです。だからイエスさまがこのようにおっしゃっても、おそらく「何をバカなことを言っているのか」と思っただけに違いありません。ありがたくもなんともなかった。他人事でした。
 そしておそらく、今日の多くの人も、最初このイエスさまの言葉を聞いたとき、何を言っているのか分からないという人が多いのではないかと思います。せいぜい、「ああ、イエスさまは社会からのけ者にされている人たちを受け入れられたんだなあ。立派な方だなあ」というぐらいにしか思われない。他人事なんです。この自分は「罪人」ではないと思っている。そのように、このイエスさまの言葉、罪人を招くというのが他人事だと思う人が多い。かくいう私もそうでした。教会に通っていながら、罪人ということがよく分からなかったんです。
 しかし、聖書は何と言っているのか? 先ほど読みました旧約聖書のほう、詩篇14編を見てみましょう。
 「善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩編14:3)
 善を行うというと、なにかピンときませんが、使徒パウロがこの言葉を引用しているローマの信徒への手紙3:10ではこのように書かれています。
 「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)
 つまり、正しい者はいない。言い換えれば人間みな罪人だと言っているんです。正しい者は一人もいないと。神さまから見て正しい人は一人もいない。みな罪人である。これが聖書の言うところです。しかしこれがなかなか分からない。私も長い間分からなかった。
 私が富山の教会で牧師をしていたとき、刑務所の教誨師をしておりました。その刑務所は再犯、累犯者の刑務所でした。そうすると、まことに聖書の話がしやすいんです。なぜかというと、私の個人教誨を受ける方は、説明をしなくても皆自分が罪人であるということが分かっているからです。もちろん、法律上の犯罪を犯した罪と、聖書で言う罪というのは違うわけですが、少なくとも自分が正しい者ではないということはだいたいの人が分かっている。そこが分かっていると話が早いんですね。
 しかしここで罪とは何かということを一からお話ししようとは思いません。しかしイエスさまが、13節の始めでファリサイ派の人たちにおっしゃっています。‥‥「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味が、行って学びなさい。」 
 これは旧約聖書のホセア書6:6の引用です。そちらではこうなっています。「わたしが喜ぶのは愛であって、いけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア書 6:6)
 つまりきょうの13節で「憐れみ」というのがホセア書本文では「愛」になっている。これは同じ意味だということです。「いけにえ」というのは旧約聖書で言う礼拝のことだと言ってよいでしょう。ファリサイ派の人々は、たしかに戒律通り正しい礼拝をし、決まりを守っているかもしれない。しかし愛がなかったら、それは神さまの喜ばれることではない、と。もっと言えば、罪とは愛のないことを言っているんです。つまり、罪人とは、愛がない、愛が足りないことを言うんです。それは神さまの前には罪なんです。そのことを悟るようにと、イエスさまはおっしゃった。
 
    罪の自覚
 
 自分が罪人であるということが分かったときに、きょうの最後のイエスさまの言葉が心に響いて参ります。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:10)
 2015年度にNHKの朝の連続テレビドラマ「朝が来た」のモデルとなった明治時代の女性実業家・広岡浅子は、60歳の時にキリスト教と出会い洗礼を受けてクリスチャンとなりました。自伝によりますと、広岡浅子は、梅花女学校校長であり、浅子と共に日本女子大学校を設立した成瀬仁蔵によって、大阪教会の宮川経輝(つねてる)牧師を紹介されました。そして、宮川牧師から「宗教については何も知らぬあなたはこれから謙遜な生徒になって宗教を学ばなければならぬ」と言われ、宮川牧師の教えを乞うに至りました。そして聖書の講義を聴くうちに、教会に通うようになりました。しかし浅子は、この時のことを次のように書いています。「説教に罪人、罪人という言葉がくり返されるごとにいやな心地がして、何も不正なことをした覚えがない人に対して失礼だと考えたり、また会衆の前で祈るのがいかにも偽善者のようで嫌でたまりませんでした。」‥‥自分が罪人であるとは全く考えていなかったことが分かります。しかし浅子は、ある日曜の朝、宮川牧師が時勢を憂いて熱い祈りをささげ、「福音伝道の尊き使命を受けながら、この地に落ちんとする人々の心霊を清むることができぬのは、誠にわが至らぬ処で、神様に対して済まぬ次第である。願わくば万能の神の力によりて、このなし難き事業を成し遂げることができるように」と、切々と祈る言葉に、神が現実になっている人でなければあんな祈りはとてもできないと、少なからず霊感を受けたということです。
 その後、救世軍の山室軍平との出会いと導きなどがあり、神に触れるという体験をし、神の慈愛の御手にしっかりと抱かれるのを覚えるに至りました。しかしその時はまだ洗礼を受けなかった。なぜならば、洗礼を嫌ったのではなく、「このけがれ多き未熟の身を神にささげまつるのに堪えなかった」からだということです。言い換えれば自分が罪人であることを自覚するに至っている。しかし宮川牧師からもう洗礼を受けてもよいと言われ、明治44年のクリスマスに、62歳で洗礼を受けています。
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9:10)わたしという人間が、罪人であることを悟ったとき、このイエスさまの言葉が、他でもない、この私自身に向かって語られた言葉であることがわかります。それは、このどうしようもない私という人間を、キリストが招き、受け入れ、共に歩んでくださるための言葉であります。このあと行われる聖餐式は、そのキリストの招きを現しています。


[説教の見出しページに戻る]