2020年6月28日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 列王記上22章24〜25節
    マタイによる福音書15章1〜9
●説教 「偽善者」

 
   偽善者
 
 「偽善者たちよ」とイエスさまがおっしゃいました。「偽善者」、それは痛烈な言葉です。今日の説教題の看板が教会の玄関前に掲示してありますが、先週、外出をして教会に戻ってきたとき、その看板の「偽善者」という字が目に飛びこんできまして、思わずドキッとしました。自分で決めた説教題に自分でドキッとしているのですから世話はないわけですが、やはり「偽善者」という言葉はインパクトがあるなあと、あらためて思った次第です。
 イエスさまはどうしてこんなに厳しい言葉で反応なさったのか? ファリサイ派と律法学者の人たちはイエスさまに質問しただけなのに、このような厳しい言葉で反応なさった。やはりそれは、イエスさまに質問した彼らの心を見抜かれたからだと思います。イエスさまは人の心の中にあることをご存じだからです。
 
   手洗い
 
 ファリサイ派と律法学者、彼らは言わずと知れた宗教家です。人々に神の掟を教えていた人たちです。彼らがイエスさまに尋ねました。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
 彼らの質問を聞いて、今の私たちは「そりゃそうだ」と思ってしまいますね。新型コロナウイルス感染症の問題が世界を覆い尽くしている今、私たちが奨励されているのは、必ず手を洗う、またはアルコール消毒するということです。ですから、ファリサイ派と律法学者の言っていることがもっともなことであって、弟子たちに手を洗わせないイエスさまのほうが間違っている‥‥というふうに誰もが思ってしまうでしょう。
 しかし実はここで彼らが言っているのは、そういう衛生上の問題として手を洗うこということではないんです。これは宗教上の問題なんです。すなわち、ここで彼らが言っている「手を洗う」という行為は、穢(けが)れを清めるための所作なんです。
 穢れを清めると言えば、日本人には説明抜きで分かるでしょう。だいたい、神社の主な仕事の一つが穢れを清めるということです。「お祓い」がそうですね。禊ぎという行為もそれです。塩を盛るということもそうです。面白いことに、旧約聖書の律法で言われている「穢れ」というのは、日本でいう穢れの清めとほぼ同じです。それは旧約聖書のレビ記に記されています。たとえば死体に触れたら穢れる。穢れたものに触れたら穢れる。そしてそれをどうやって清めるかと言えば、第一には水で清めるんです。これも日本と同じです。
 きょうのところでファリサイ派と律法学者が言っているのは、外から帰って来たときに、外でなにか穢れたものに触れたかも知れないから水で清めるということなんです。旧約聖書のレビ記には、そこまで書かれていません。穢れたものに触れたら水で清めるとは書いてあるんですが、もしかしたら穢れたものに触れたかも知れないから念のために水で手を洗って清める、とまでは書いていない。そのように律法には書かれていないけれども、神の掟をもっと忠実に守っていることになるということになった。それがイエスさまのおっしゃる「言い伝え」ということなんですね。ヘブライ語では、言い伝えによる規則をミシュナーと呼んでいます。
 このとき、ファリサイ派と律法学者たちがイエスさまの弟子たちはその規則を守っていないではないかと言っているわけです。「あなたの弟子たちは」と言っていますが、実際はイエスさま自身が守らないといいたいのでしょうが、ここは弟子たちのことをまず取り上げている。
 
   ファリサイ派と律法学者
 
 この質問は、純粋な気持ちで尋ねているんのではないんです。この人たちは、エルサレムから来たと書かれています。これは、イエスさまを調査しに来ていると言っていいでしょう。と申しますのは、少し前に戻りますが、12章14節にこう書かれていました。「ファリサイ派の人々は出ていき、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」。思い出されたでしょうか。安息日を守ることについてイエスさまとファリサイ派の人々が対立をした。それで彼らはイエスさまが神の掟を守らない者であるとして、殺す相談を始めたということが書かれていました。律法を守らない者は神を冒涜する者であって、死刑に処すべきであるということです。そしてこのことが、首都エルサレムにいるファリサイ派と律法学者に伝えられた。それで、エルサレムから調査に来た。いわば地方検察庁から本庁のほうに連絡が行き、その本庁からイエスさまを調査するために派遣されてきたのです。宗教警察みたいなものです。
 ですから、彼らは純粋な気持ちで、イエスさまに尋ねたのではない。イエスさまの言葉尻を捉えて、罪に定める口実を探すためだったんです。そしてその心をイエスさまは見抜かれたんです。
 
   偽善者
 
 偽善者という言葉は、ギリシャ語では役者とか俳優という意味の言葉です。つまり演じる。本当の自分ではないものを演じるという意味から来ているのが偽善者という言葉です。そうすると、イエスさまはなぜこのファリサイ派と律法学者の人たちを「偽善者」と呼んだんでしょう? 彼らはなにを演じていたというのでしょう?
 そうすると、やはりイエスさまご自身がおっしゃった言葉にヒントがあると思うんです。8節を見ると、旧約聖書の預言者イザヤの預言を引用しておっしゃっています。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」‥‥神さまの言葉です。口先ではわたしを敬うことを言うが、心の中ではそうではない。
 そうすると、このファリサイ派と律法学者は、一見、敬虔に神を信じているように見えるが、実はそうではないということになります。そのことをイエスさまは見抜いておられる。彼らは神に忠実であるように見せかけている、演じているに過ぎないと。なぜ敬虔さを演じているのか?‥‥それはやはり、自分たちが宗教家であるという権威を守るためであったと言えるでしょう。あるいは、立派な人だと見られたい。神のためではなく、自分のためなんです。
 
   イエスさまの指摘
 
 彼らはイエスさまに問いました。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか」と。それに対してイエスさまは、直接答えを与えておられません。高慢な態度で尋ねても答えられないのです。高ぶった思いで神さまに祈っても、受け入れられないのと同じです。
 イエスさまがおっしゃったのは、あなたがたこそ自分たちの言い伝えのために、神の掟を破っているではないかということでした。そしてイエスさまは「父と母を敬え」という神の掟を例に挙げられます。これはモーセが神さまから直接授かった「十戒」の中の掟です。だから非常に尊い、大事な掟です。「父と母を敬え」と神の掟にあるのに、あなたがたは「父または母に向かって『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてもよい」と言って、神の言葉をないがしろにしていると。
 これはどういうことかと言いますと、子供が年老いた親を養うことについてだと考えられます。子供が親を養うというのは日本でも昔は当たり前のことでした。今は年金制度があって、自分で蓄えたもので老後を暮らしていくということになっていますけれども。このイエスさまの時代はもちろん年金制度などありませんから、子供が親を養う。しかし親と言っても、いろいろあるわけですね。ひどい親だっているわけです。そうするとそんな親を養いたくない。そんなとき、親を養うためのお金や物を親のために使わずに、神さまへの献げ物にしてしまう。そうすると許される。なぜなら、神さまが一番だから。‥‥そのような言い伝えの規則があった。これは、「父と母を敬え」という大事な神の言葉を無にしているとおっしゃっているんです。
 しかし、たしかにひどい親のために大事な自分の費用を使うというのは気持ちがついていきません。たとえばこれが、自分が子供のとき虐待をした親のような場合は、そんな親を養うという気持ちには全くなれないでしょう。親は敵であると思う方もいるでしょう。しかしイエスさまは、それがどんな親であるかということを問題にしておられません。すなわち、ここでイエスさまの言葉が単なる倫理道徳ではなく、神さまに対する信仰に基づく言葉であることがはっきりいたします。
 このような場合の人にとっては親は憎い。しかし神は、父と母を敬うことを命じている。そしてイエスさまは先に「敵を愛しなさい」とおっしゃった。だから神さまとイエスさまを信じて、そんな親であっても敬う、養う。そしてそのとき主は、そんな自分を支え、祝福してくださる。‥‥そのように信じる信仰を必要とする言葉です。
 しかしファリサイ派と律法学者がたいせつにしている言い伝え、ミシュナーは、神を信じているものとは言い難い。本当には神を信じていない。‥‥イエスさまはそうおっしゃりたいのだと思います。
 
   イエス・キリストを信じない
 
 そもそも、彼らが本当に神を信じているのなら、目の前におられるイエスさまという方がどなたであるかということが分かるはずです。イエスさまは、神の御子だからです。分かりやすく言えば、神さまが来ておっしゃっているのに、その神さまに向かって「あなたは神さまの掟を守っていない」と言っているようなものです。父なる神が、私たちを救うために御子イエスさまを送ってくださった。なのにそのイエスさまを認めない。これはまさに、神を信じているというのは演じている、偽善者であるということになります。
 
   偽善ではない信仰とは?
 
 しかしこのことは同時に、私たちにとっても問いかけていると思います。つまり私たちは、信仰者であることを演じているのではないだろうか?ということです。そうすると私たちも偽善者ということになりかねません。
 もうずいぶん前に亡くなった方ですが、有名な牧師がいました。さまざまな要職にも就かれ、人間的にもたいへん尊敬されていた先生でした。ところがあるとき、その先生をよく知る他の牧師から、その先生についての話を聞かされたんです。それによると、その有名な先生は野球が好きでプロ野球の観戦に行くという。しかしそのとき、自分だということが分からないように姿を変えて行くのだという。別にプロ野球を見に行ってもいいに決まっていると思うんですが、人々が自分に対して抱いているイメージを壊したくなかったんでしょうか。このようなことを申し上げるのは、私たちにとって決して他人事ではないということを覚えたいからです。
 あるいは、全く別の話ですが、牧師の子供の中にはつまづいて信仰を持たない人もいるということを聞きます。それは「うちのお父さんは教会では立派なことを言うが、実際は違う」ということからです。まあ、これも他人事ではないような気もします。
 いずれのケースも「演じている」ということになってしまいます。しかしこれは私たちにとって他人事ではないんです。では、偽善ではない信仰とは、演じているのではない信仰とは、どういうものなのでしょうか?
 それは謙虚で正直な信仰だと思います。前回の聖書箇所を思い出してください。夜のガリラヤ湖。弟子たちの乗った舟が逆風と荒波でこぎ悩んでいました。そこにイエスさまが海の上を歩いて近づいて来られた。弟子たちは「幽霊だ」と言って恐怖の叫び声を上げました。いい歳をした大の大人がみっともない。また、ペトロは「来なさい」といわれたイエスさまの言葉に従って海の上に足を踏み出したら歩けたのはいいけれども、そのあと風に気がついてこわくなって沈みかけたというのは、いかにも格好悪いことです。しかし聖書はそういうことを包み隠さず書いています。といいますか、誓書を記したのは弟子たちですから、自分たちはこんなにもみっともないし格好悪いと書いているわけです。そしてご存じのように、イエスさまが十字架にかけられる前には、イエスさまを見捨てて逃げていったということまで書いてある。信仰もすぐなくなってしまうような弟子たちです。
 しかしそんな自分たちであっても、お見捨てにならずに救ってくださるのがイエスさまであることを、力の限り証言しているんです。こんな自分であっても、こんな情けない自分であっても、イエスさまは救ってくださった。主よ、感謝します!それが私たちの信仰です。イエスさまです。
 「あなたみたいな人がクリスチャン?」と言われたら、「そうです。こんな私でもイエスさまは救ってくださるんです。ありがたいじゃないですか。」と答えればいいんです。こんな私を救うために、十字架にかかって命を投げ出してくださったイエスさまに感謝です。


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