2020年6月21日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書41章10
    マタイによる福音書14章22〜36節
●説教 「海上のキリスト」

 
   逆風に悩む
 
 今日の出来事の前に、イエスさまが5つのパンと2匹の魚によっておおぜいの人々を満腹にさせたという出来事がありました。その続きです。イエスさまは、弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられたと書かれています。すなわち、人々を食べさせたあと、弟子たちを舟に乗せてガリラヤ湖を渡らせたのはイエスさまであるということです。イエスさまが弟子たちを行かせたんです。このことをまず覚えておきたいと思います。
 そして群衆を解散させたイエスさまは、祈るために一人で山にお登りになった。もともとイエスさまは洗礼者ヨハネが処刑されたことを聞いて、父なる神さまに祈るために人里離れたところに行ったはずでした。しかしイエスさまを求める群衆が先回りしてイエスさまを待っていたため、できませんでした。そして今度こそといいますか、イエスさまはひとりになって山に登られ、父なる神との祈りの時を持たれたのです。「夕方になっても」と聖書に書かれていますが、5つのパンと2匹の魚の奇跡があったのが夕暮れだったと書いてあるのに、ここで夕方と書かれているのはおかしいな?と思いますが、きょうの所の夕方というのは「晩」とも訳せるので、むしろそう訳したほうがよい。夜になってもイエスさまは父なる神に祈っておられたということです。
 ところが先に舟で行かせた弟子たちのその舟が、逆風のために波に悩まされていた。この逆風ですが、相当強い風です。ガリラヤ湖も相当荒れた様子です。本来ならば1〜2時間ほどで渡れるところが、数時間も経っても何スタディオンしか進んでいない。新改訳聖書のほうではここを「何キロメートルも離れていた」と訳しています。まあ、ガリラヤ湖の真ん中あたりでしょうか。夜明け近くになってもその状態ですから、そうとうな風と波で苦労していたことになります。
 
   海上のキリスト
 
 さて、そうしますとこれはどうしたことでしょうか? といいいますのは、弟子たちは、自分たちから舟に乗ってガリラヤ湖を向こう岸へ渡ろうとしたのではありません。イエスさまが強いて弟子たちを舟に乗せて向こう岸へ渡らせようとなさったんです。イエスさまの指示に従って舟に乗って行った。にもかかわらず、このような逆風に悩まされることになったんです。これはいったいどういうことかと思わないでしょうか?
 しかし、こういうことは私たちにもあると思うんです。イエスさまのみことばに従って行ったのに、逆風に悩まされるようなことがある。イエスさまの導きを信じて行ったはずなのに、困難な問題に直面する。同じです。
 順調であれば1〜2時間で行けるところが、何時間経っても湖の真ん中。すると、もう夜明けも近いという頃、イエスさまが湖の上を歩いて弟子たちのところに近づいて来られた。予想外の出来事です。それはそうでしょう。海の上を歩いてこられるなんて、誰も考えない。それで弟子たちはびっくりして、「幽霊だ」と言って、恐怖のあまり叫び声を上げたと書かれています。
 申し訳ないんですが、私はここを読むと苦笑したくなるんです。だって、いい年したおとなたちが「幽霊だ」と言ってこわくて叫び声を上げたなんて、みっともないと思いませんか。しかし同時に、こういうところに聖書の真実さがあると思うんです。弟子たちが「幽霊だ」と言って恐怖の叫び声を上げたということが、ちゃんと書いてある。その弟子たちの中には、このマタイによる福音書を書いたマタイもいたんです。そしてこの弟子たち、つまり使徒たちは、ペンテコステのあと教会の指導者になっていった人たちです。その人たちが、自分たちはこの時海の上を歩いて来られたイエスさまを見て、恐怖におびえて「幽霊だ」と言って叫びましたと、正直に告白しているわけです。ここがすごいところです。つまり自分たちが弱いひとりの人間に過ぎないと言うことを赤裸々にさらけ出しているんです。だから、キリスト信仰というのは、何か強い人のための信仰ではないんです。おとなのくせに幽霊におびえるような弱い、情けない者のための信仰であるということです。
 私は、「宗教を信じるなんて、弱い者のすることだ」と言われたことがあります。私は、それはその通りだと思います。そしてその時は聞き返しませんでしたが、聞き返したい。それは「ではあなたは強い人ですか?」と。どうか自分が本当は弱い、ひとりの人間であることに気がついてほしいと思います。
 
   水の上を歩くペトロ
 
 さて、「幽霊だ」と言っておびえる弟子たちに向かって、イエスさまは語られました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(27節)‥‥この言葉は、「幽霊じゃないよ、私だよ、怖がるなよ」とおっしゃったようにも読めますし、それと共に「逆風でこぎ悩んでいるけれども、私が来た以上もう大丈夫だよ」というようにも読めます。
 するとペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。そしてイエスさまが「来なさい」とおっしゃり、ペトロは舟から海の上に足を踏み出したところ、歩くことができた。
 これは本当にすごい出来事だなと思いますし、イエスさまを信じたら水の上でも歩くことができるようになると宣伝したら、多くの人が教会に詰めかけることになるかと思います。ただここはよく読まないとならないと思います。すなわち、ペトロはなぜ水の上を歩くことができたのか、ということです。
 ペトロは信仰があったから水の上を歩くことができたんでしょうか?‥‥しかしそれは、強い風に気がついてこわくなったところ沈みかけ、イエスさまによって助けられた時にイエスさまから「信仰の薄い者よ」と言われていますから、信仰が強かったから水の上を歩くことができたのではないということが分かります。
 ではなぜペトロが水の上を歩くことができたのかと言えば、それはイエスさまの言葉に力があるからです。イエスさまがペトロに「来なさい」とおっしゃった。その言葉に従ってペトロが足を踏み出したところ、水の上を歩くことができたのです。イエスさまがおっしゃらないのにペトロが自分で勝手に歩こうとして歩けたんじゃないんです。イエスさまがペトロに向かって「来なさい」とおっしゃったから歩けたんです。つまりイエスさまの言葉に力があるんです。
 そのことはペトロも分かっていたようです。なぜならペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28節)とイエスさまにお願いしているからです。ここは「主よ、あなたでしたら、私が水の上をあなたのところへ行くように命じてください」と訳すことができます。つまりペトロは、イエスさまが水の上を歩けるように命じてくださったら歩くことができる、と信じているんです。
 そのように、なんか信仰が強ければ水の上でも歩けるようになるということではないんです。イエスさまがおしゃった、その言葉に力がある。そしてイエスさまの言葉に従って行ったところ、歩くことができたということです。イエスさまがおっしゃらないのに勝手に、歩くことができないところを歩こうとしても無理なんです。そういうことを教えてくれます。
 
   イエスさまを見つめて
 
 ところが、そのペトロが今度は沈みかけた。それは「強い風に気がついてこわくなり」(30節)と書かれている。それまでイエスさまを見ていた。ところがここで、吹いている強風のほうを見てしまった。イエスさまの方を向いて、イエスさまを見ているうちは歩けたんですが、ふと強風に気がついたんでしょう。そちらに気がつくと、こわくなったという。歩けるはずがないところを歩いている自分を見たんですね。そうしたところ、水の中に沈みかけた。イエスさまから目を離してしまったんです。
 私たちも似たようなことを経験しないでしょうか。前に申し上げましたが、私たちは行きたくないところや、会いたくない人というのがいると思うんです。しかし行かなければならないし、会わなければならない。そうした時どうしたら良いかというと、神さまにお祈りするんです。そして、「イエスさま、一緒に行ってください!わたしの前を歩いてください!わたしがその人としゃべる時、どうか助けてください!離れないでください!」と言って行けば良いということを申し上げました。しかしいざ行きたくない所に行った時、そして会いたくない人と会った時、イエスさまから目を離す、言い換えればイエスさまを忘れてしまうと、やはり恐れや不安が生じてきて、どうにもならなくなってしまいます。
 ペトロはイエスさまから目を離してしまった。その結果、恐れが生じ、沈みかけたんです。この世の現実の中で私たちも苦しむことがあります。つらい思いをすることがあります。しかし現実だけを見ているのではなくて、イエスさまの方に目を向けることが大切であることを、きょうの聖書は教えています。
 しかしそれでもペトロは、イエスさま辛めをそらし、強い風が吹いているという現実に目を向けてしまった。それで沈み始めた。そうすると、結局信仰が薄いからダメなんだと思われます。
 しかしどうでしょう? その信仰が薄いペトロは溺れてしまったでしょうか?‥‥助かっています。どうして助かったんでしょうか? それは沈みかけたペトロがイエスさまに助けを求めて叫んだからです。「主よ、助けてください!」と(30節)。するとイエスさまが手を伸ばしてペトロを捕まえ、引き揚げてくださった。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)とおっしゃって。
 信仰が薄いんです。この薄いという言葉は、ギリシャ語では、わずかしかないことを言う言葉です。わずかしか信仰がない。だからダメだとおっしゃってないんです。そのわずかしか信仰のないペトロの叫びを聞いて、イエスさまが助けてくださった。だから自分の不信仰に絶望する必要はないんです。
 
   イエスへの信仰告白
 
 そしてイエスさまとペトロが舟に乗り込むと風は静まったとあります。そして舟に乗っていた人たちは、「本当にあなたは神の子です」と言ってイエスさまを拝んだ(33節)。この「拝んだ」という言葉は、ただごとではありません。なぜなら、これは神を拝む時に使われる言葉だからです。すなわち、イエスさまを神として拝んだんです。
 日本では、たとえば天神様(天満宮)が菅原道真を祀ってあり、明治神宮が明治天皇を祀っているように、人間が神として拝まれる場合があります。しかしイスラエルでは考えられない。なぜなら神の掟であるモーセの十戒に、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)と記されているからです。唯一なる天地宇宙の造り主である神以外のものを神として拝むことはありません。しかし、舟に乗っていた弟子たちは、イエスさまを「神の子です」と言って拝んだ。それは誰に言われてでもなく、今体験したことを見て、心からそう思ったということです。
 きょうの聖書はここに導いています。イエスとはいったいどなたなのかと。それは、私たちにとってどういうお方なのかということです。そして私たちもこの弟子たちと同じように言うことへと導いています。
 向こう岸に無事に着いた舟。そこは異邦人の土地でした。しかしそこでもイエスさまを待っている人々がいました。そして、イエスさまはその人々の中でも病を癒されました。
 
   責任を負われる主
 
 さて、最初の問いに戻りましょう。それは、弟子たちはイエスさまの指示に従って舟に乗ったのに、どうして逆風に苦しむこととなったのか?‥‥という問いです。たしかに、舟に乗るようにお命じになったのはイエスさまですから、それに従ったのに苦しむことになったというのは、なにか理不尽なことのように思われます。
 しかし、向こう岸に着くまでの間に、彼らはイエスさまが神の子であると言って賛美し拝まざるを得ないような出来事を見たのも事実です。イエスさまの指示に従って、舟に乗らなかったとしたら、海の上を歩き、また海の上を歩かせ、さらに風と波を静めることのできるイエスさまを知ることもできなかったでしょう。
 そうすると、イエスさまは、私たちに対して必ずしも平穏で何もないことを約束される方ではないことが分かります。しかしその代わり、あり得ないような仕方でイエスさまが近づいてきてくださり、救ってくださる経験をさせて下さる方であることが分かります。そして、「本当にあなたは神の子です」と告白せざるを得ないような、すばらしい救いを見せて下さる。そして、向こう岸へたしかに到着させてくださる方であることを教えてくれます。
 19世紀にハドソン・テーラーというイギリス人の宣教師がいました。彼は中国での伝道に長い間献身した人でした。しかし、激しい迫害があり、それに加えて経済的にも貧しく、彼は疲れ果ててついに病気になってしまいました。失望感に打ちひしがれて横たわった病床で、彼は心を神に向けざるを得ませんでした。そのとき、光が彼の内に届きました。彼は思いました。「そうだ、もし私が主に従ってさえいるならば、責任は主が負っておられるのであって、私のほうにはないのだ」と。彼の心労は直ちに癒され、彼は再起して、再び働きを始めたということです。(藤井康男編著『台所の祈り』一粒社、より)。
 主の言葉に従ったなら、主が責任を負ってくださる。ここに私たちの平安があります。


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