2020年6月14日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書55章1〜3節
    マタイによる福音書14章13〜21節
●説教 「奇跡のパンをあなたから」

 
   5千人の給食のできごと
 
 本日の聖書箇所は、イエスさまが多くの人々を満腹にさせたという奇跡が書かれている箇所です。一般に「5千人の給食」と呼ばれています。最後の所の21節を見ると「食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった」と書かれていますので、「5千人の給食」と呼ばれるわけです。しかしよく見ますと、「女と子供を別にして男が5千人」と書かれていますので、女性と子供の数が入っていないことになります。これは当時のイスラエルでは、女性と子供の数は数えないことになっていたので、そう書かれているわけで、実際には女性と子供もいたんです。なぜならいつもイエスさまのまわりには多くの女性や子供も集まってきていたからです。ですから、1万人以上いたと思われます。そんなに多くの人をイエスさまが奇跡によって食べさせた。‥‥これは想像しただけでも驚きです。
 この奇跡は、新約聖書の4つの福音書すべてに書かれています。4つの福音書すべてに書きとめられている奇跡というのはたいへん珍しいものです。それほどこの奇跡は印象的であったということになります。また、紙が貴重であった時代ですから、この奇跡を必ず載せているということは、やはり福音書を読む人に伝えたい大切なメッセージがあるということだと思います。
 
   迎えるイエス
 
 話しは、イエスさまが舟に乗ってひとり山里離れたところに退かれたという記述で始まっています。13節の冒頭を読むと「イエスはこれを聞くと」と書かれています。「これを聞くと」というのは、この前の所に、洗礼者ヨハネが領主であるヘロデによって首をはねられたという悲惨なできごとがあって、そのことを洗礼者ヨハネの弟子たちがイエスさまに伝えたということが書かれています。ですから、イエスさまは洗礼者ヨハネの死を聞いて、ひとり人里離れた所に退かれたということになります。
 ひとりになりたかった。イエスさまでもひとりになりたいということがあるんだなあ‥‥と思う方もいることでしょう。イエスさまはひとりになって何をなさるのか?落ち込んで、誰にも関わりたくないということなのか?
 しかしイエスさまがひとりになられる時というのは、たいてい父なる神さまに祈る時です。天の父なる神さまと、一対一になって祈りの時を持つ。そのために人里離れたところに退かれたんです。それはイエスさまにとって大切な時でした。
 しかし人々はイエスさまをひとりにさせてはくれなかった。イエスさまが舟に乗ってガリラヤ湖を渡ったことを知って、人々は、おそらく海岸沿いに歩いて先回りしたんでしょう。イエスさまが舟から上がられると、すでに多くの群衆がイエスさまを待っていたという。
 イエスさまはどうなさったか。「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒された」と書かれています。受け入れられたんです。イエスさまにはイエスさまのなさりたいことがあった。しかしイエスさまは人々を憐れんで、受け入れられた。ここにもイエスさまという方が、どのような方であるかが伝わってくるように思います。
 
   給食の奇跡
 
 そうしてイエスさまは、人々の求めに応じて病人を癒された。そうすると夕暮れになってしまった。それで弟子たちが、「群衆を解散させて下さい」とイエスさまに言います。もう夕食時だから、人々を解散させ、食べ物を買いに行かせましょうと。ところがここでイエスさまは意外な言葉をおっしゃる。それは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」という言葉です!
 1万人もの人々!‥‥こんなに大勢の人たちを、わずかの弟子たちでどうやって食べさせろというのか?‥‥そんな無茶なと思います。調べてみたところ、手元にあるのはパンが5つと魚が2匹。この魚は干物でしょうけれども、この少ししかない食べ物で、どうやって食べさせるの?といわんばかりの弟子たちの返事。
 するとイエスさまは、「じゃあ無理だな」と言われたのではなく、「それをここに持って来なさい」とおっしゃった。ここで、イエスさまが弟子たちに対して「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われたわけですが、それは弟子たち自身で工夫して直接群衆に食べる物を与えなさい、という意味でおっしゃったのではないことが分かります。そのわずかと見える物をイエスさまの元に持って来なさいと言われた。そしてイエスさまが、その差し出された5つのパンと2匹の魚を受け取られた。
 するとイエスさまは、群衆を地面に座らせた。そしてイエスさまはその5つのパンと2匹の魚を手に、天を仰いで神を賛美する祈りを唱えられた。この「賛美」という言葉は「感謝」という言葉でもあります。5つのパンと2匹の魚があることを神さまに感謝をされた。そして、そのパンを裂いて弟子たちに手渡し、配られた。そうするとすべての人が食べて満腹した。さらに残ったパンを集めると、12の篭いっぱいになった。
 これが今日聖書に書かれている奇跡です。
 
   増えた食べ物
 
 さて、この奇跡のできごとはたいへん不思議なできごとなので、と言いましてもイエスさまのなさることはいつも不思議なすばらしいことであるには違いないのですが、やはりほかの奇跡に比べて変わっているように見える。それは人々を食べ物で満腹させたということが変わっているように見える。
 それで、これはお腹が満腹になったということではなくて、心が満腹になったということではないか‥‥と考える人もいるわけです。実際には食べ物は増えなかったのだけれども、心が満たされたのだと。それは、同じ奇跡が書かれているヨハネによる福音書のほうを見ると、5つのパンと2匹の魚を提供したのは少年でした。弟子の子どもなのか、イエスさまと行動を共にしていた婦人たちの子供かは分かりませんが、とにかく少年だった。その男の子が自分の持っていたお弁当をまるごとすべて献げた。それでそれを見ていたおとなたちが心を打たれて、心が満たされた‥‥。そんなふうに考える人もいるわけです。
 しかしそれは話しとしては美しいのですが、ここに書かれたできごととは違っています。と申しますのは、「満腹した」と日本語に訳されているギリシャ語は、動物に草を腹一杯食べさせるという意味から来ている言葉だからです。もちろん、それを精神的に満足するという意味にとれないこともないのですが、それは第一の意味ではありません。それに同じできごとが書かれているヨハネによる福音書のほうを見ますと、腹いっぱい食べさせてもらった群衆は、このあとイエスさまを王にしようとしたことが書かれているんです。イエスさまを国王にしようと、担ぎ上げようとする。もちろんイエスさまはそれを拒絶なさるんですが、人類の歴史は、一部の裕福な人を除いて、食べることに苦労していた時代がほとんどでした。ですから、政治家に求められるのは、国民を食べさせることができるということでした。するとイエスさまが、たった5つのパンと2匹の魚で1万人もの人々を満腹になさったわけですから、これはこれ以上の人はいないわけで、人々がイエスさまを王に担ぎ上げようとしたのも当然です。そういういきさつを考えても、ここは間違いなくイエスさまが実際に、5つのパンと2匹の魚で1万人の人々を満腹にさせた奇跡であったことがはっきりします。
 しかし同時に、この奇跡は、イエスさまは地球の食糧問題の解決者であるということを言いたいのではありません。たしかに、わずかな食糧をもって大勢の人を食べさせることができれば、それはもう世界の食糧問題は解決ですが、聖書を読みますと、イエスさまはこのような奇跡を2回しかおこなっていないんです。
 そうすると、この奇跡は、人々にもう自分で食べ物を買う必要はなく、働く必要もなく、神さまが食べさせてくれるということを教える奇跡ではないということになります。
 
   何かを伝えようとしておられる
 
 そうすると、この出来事を通して主が何を伝えようとされているかということですけれども、今回一つ注目したいのは、弟子たちが言った言葉です。イエスさまが、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」といわれた時、弟子たちは「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」と答えています。「パン5つと魚2匹しかと。たったこれっぽっち、ということです。それは、男だけでも5千人、女性と子供を含めれば約1万人にもなろうかという群衆。その人たちに食べさせるには、たった5つのパンと2匹の魚では、焼け石に水にもならない。何の足しにもならないと計算したわけです。まあ計算するまでもないほどですが。弟子たちはそのように、数だけを見て言ったわけです。
 それに対してイエスさまの反応はどうだったでしょうか? 「なんだこれっぽっちしかないのか」とは言われなかった。イエスさまは、これがあれば十分といわんばかりに、「それをここに持って来なさい」とおっしゃった。わたしのもとに持って来なさいと。そして群衆に草の上に座るようにお命じになった。さあ、今から食事を用意するよと言わんばかりです。そして、弟子たちが「パン5つと魚2匹しか」といったそのパン5つと魚2匹を手にお取りになり、天を仰いで賛美の祈りを唱えられた。最初に申し上げたように、この「賛美」という言葉は「賛美した」とも「感謝した」とも日本語に訳せる言葉です。つまりこの5つのパンと2匹の魚があることを神さまに感謝し、神さまをほめたたえたんです!弟子たちが「たったこれだけ」というものを感謝し、賛美なさった。
 そうして、パンを裂いて弟子たちにお渡しになる。すると、パンはいつまでもなくならず、魚もいつまでもなくならず、結果として約1万人と思われる大勢の人々が満腹になるまで食べることができた。おつりまできた。イエスさまは天の父なる神さまにパンと魚を感謝して祈られたんですから、これは神さまがなさったことということになります。
 
   感謝と献身
 
 弟子たちは、人間の計算をしました。5つのパンと2匹の魚、そして約1万人の人々。割り算をすれば、とても足りないことは一目瞭然です。しかしイエスさまは、一人の人が、持っていたものをすべて提供した、すなわち献げた、そのことをご覧になったのです。それは提供した人にすれば、「パン5つと魚2匹しか」ではない。その時自分の持っているものすべてです。それは、弟子たちから見たら、取るに足りないわずかのものであった。しかしイエスさまから見たら、そうではなかったんです。一人、自分の持っていたお弁当をすべて献げた人がいた。それはその人にとっては、小さなことではなかったでしょう。しかしそれをすべて献げた。それをイエスさまは見られたんです。そしてそれを受け取り、そういう人がいたことを父なる神に感謝なさった。そうしてこの奇跡が起こっているんです。
 私たちも小さな存在です。自分ひとり、いてもいなくても世の中から見たら関係ないように見えます。自分が死のうが生きようが、世の中の人にとっては何の関心もありません。自分が神さまを信じても、イエスさまを信じても、何の力にもならないと思われるかもしれません。
 しかし、イエスさまから見たら、そうではないんです。私たち、私というひとりがイエスさまを信じて、自分をイエスさまに献げる。それはイエスさまから見たら、とても大きなことであり、イエスさまはそのことを喜んで父なる神さまに感謝して賛美を献げられるんです。数が問題なんじゃない。ひとりの人が、神さまとイエスさまをどう信じるかが問題なんです。
 世の中から見たら、いてもいなくてもどうでもいいような私たちひとりひとり。しかしそれは主からご覧になったら、尊いひとりです。そしてそのひとりが献身したのなら、主は喜んで感謝をなさり、神さまはそのひとりを通して奇跡をなさることができる。そのことを教えられています。


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