2020年6月7日(日)逗子教会 主日礼拝説教/三位一体主日/公開礼拝再開後1回目
●聖書 創世記32章31
    ヨハネによる福音書20章11〜18
●説教 「わたしは主を見ました」

 
   今年度主題聖句
 
 「わたしは主を見ました」。よみがえられたイエスさまに出会ったマグダラのマリアは、そのように弟子たちに告げました。
 私たちの教会ですが、礼拝堂に集まっての主日礼拝を休止したのは、イースター礼拝から先週のペンテコステ礼拝までとなりました。つまり、イエスさまの復活から昇天を経て聖霊降臨という私たちの救いに関わる出来事を記念する時がちょうど重なった。これを単なる偶然と言えるでしょうか。
 もちろん、礼拝堂に集まっての主日礼拝を休止にすることを決めたのは、神さまではなく私たち人間です。具体的言えば逗子教会の役員会です。政府の緊急事態宣言が出されるような新型コロナウイルスの感染状況を鑑みて、決めたわけです。教会によってはもっと早くから公開礼拝を中止したところもありますし、いまだに休止中という教会もあります。また、休止することなく礼拝を続けた教会もあります。しかし当教会では、結果的に主イエス・キリストの復活から聖霊降臨日までの出来事を、それぞれのご自宅で黙想していただくこととなりました。みなさんは十字架で死なれたけれども、よみがえられた復活のイエスさまを見出すことはできたでしょうか。
 そして今日は、教会の暦で「三位一体主日」です。三位一体主日とはイエスさまが天の父なる神の所に行かれて、そしてペンテコステに聖霊が来られた。こうして唯一なる神が、父・子・麗々なる三位一体の神であることが明らかにされたことを覚える日です。そのきょうから、私たちは再び礼拝堂に主によって招かれての主日礼拝を再開することにいたしました。
 
   マグダラのマリアと復活のイエスさま
 
 さて、本日の主日礼拝の聖書箇所は、マタイによる福音書の続きのところではありません。第1礼拝のあとの書面評決による定期教会総会で、今年度の主題を決めます。今年度の主題は、昨年度に引き続き「主を証しする教会」です。そして主題聖句を、きょう読んでいただきましたヨハネによる福音書の20章18節の言葉、「わたしは主を見ました」といたしました。それについての説教となります。この個所はちょうど、イエスさまがよみがえられた復活の出来事を記した個所です。集まって祝うことができなかった今年のイースターでしたが、本日もう一度イエスさまの復活の聖書箇所から、神さまの言葉を聞き取りたいと思います。
 十字架でイエスさまが死なれ、墓に葬られて三日目、「週の初めの日」のことでした。週の初めの日というのは、もちろん日曜日です。その朝早く、まだ夜が明ける前、マグダラのマリアという女性が墓に行ったと、20章の1節に書かれています。他の福音書のこの時の出来事を見ますと、マグダラのマリアのほかにもいっしょに行ったご婦人がいたことが書かれています。このヨハネによる福音書でも、2節に「わたしたちには分かりません」とマグダラのマリアが言っていますので、他にもいっしょにイエスさまの葬られた墓に行った人がいることが分かります。
 しかし、ここにはマグダラのマリアの名前しか出していない。それは、マグダラのマリアという一人の人に焦点をあてているからです。つまり、ヨハネによる福音書は、私という個人と復活のイエスさまとの出会いに注目しているんです。私と復活のイエスさま、あなたと復活のイエスさま、そこにわたしたちを導いていると言えます。
 
   墓に行くマリアたち
 
 マグダラのマリアは、朝早く夜明け前にイエスさまの葬られた墓に行きました。墓に行く。考えてみれば、私たちはなぜ墓参りに行くのでしょうか?‥‥やはりそこに愛する故人の遺骨が埋葬されているからだと思います。もちろん、そこに埋葬されているのは遺骨ですから、呼びかけても答えはありません。しかしそれでも墓参りに行くというのは、やはり亡くなったその故人にたいする愛であると言えるでしょう。亡くなったその人に対して、なにかしたい。しかし何もすることができない。だからせめて、故人が埋葬されているその墓という場所に行き、手を合わせて天の神さまに祈りをささげることによって、愛を表したい。そういう思いからだと思います。
 きょうの聖書箇所には書かれていませんが、マルコ福音書やルカ福音書のほうを見ると、マグダラのマリアは他の女性たちとともに、香料を持っていったことが書かれています。一昨日、十字架でイエスさまが死んだ後、安息日が始まってしまう日没までの間に時間がありませんでした。だからあわただしく墓に葬られました。ですからマグダラのマリアたちは、もう一度墓の中に入って、イエスさまの遺体に、丁寧に香料を塗って差し上げたい。‥‥そういう思いであったことでしょう。これだって、「どうせ遺体など朽ちていくんだから、香料を塗っても意味がない」という人だっていることでしょう。しかし、墓参りが愛を表す形であるように、マグダラのマリアたちも、イエスさまに対する愛に押し出されるようにして出かけたに違いないと思うんです。
 そうしてまだ夜明け前というのに、墓に急ぎました。すると墓の入り口をふさいでいた大きな墓石が、すでにどけられていたという。中にはイエスさまの遺体がない。それでエルサレムの市内に戻って、弟子たちにその旨を告げた。それを聞いてペトロともう一人の弟子が墓に駆けつけたが、墓の中には遺体に巻かれていた亜麻布がおいてあるばかりで、イエスさまの遺体がいない。そしてその二人の弟子は戻っていった。‥‥そういうことが、きょう読んだ聖書箇所の前のところに書かれています。
 
   復活の主
 
 マグダラのマリアは、なおも墓の前に泣きながらたたずんでいました。彼女は、イエスさまによって「七つの悪霊」を追い出していただいた人であるということが、他の聖書箇所に書かれています。七つの悪霊というのは何を表すのかはっきりしませんが、要するに大きな苦しみ、そして病気から救っていただいたということです。だから、イエスさまに対する感謝。そして、イエスさまへの信仰があったと思います。
 ところがそのイエスさまが十字架にかけられて死んでしまわれた。まさかの死です。それだけでもたいへんなショックなのに、その遺体すらも失われてしまった。もう涙を流して泣くことしかできない。‥‥そういう姿がここにあります。墓の中をもう一度のぞくと、二人の天使がいたと書かれています。しかしマリアはそのことに驚いている様子もない。泣き続けるだけです。墓の中に天使とおぼしき人がいても、驚く余裕といったら変ですけど、それもないほどにイエスさまのすべてが失われたことに対する嘆き悲しみの深さ。そういうものがここに表れています。
 するとそこに、よみがえられたイエスさまが現れる。そして「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」と、声をかけられる。しかしマリアは、それがイエスさまだとは分からなかったと書かれています。その人は園丁だと思ったと。そしてマリアはその人に「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言った。するとその人が語りかける。「マリア」と。そこでマリアは、それがイエスさまであることに気がついた。これがヨハネによる福音書が伝える、復活のイエスさまが最初に出会った人の記録です。
 
   分からなかった。
 
 14節をもう一度ご覧下さい。「こう言いながらうしろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」。生きておられるイエスさまがそこにおられるのに、それがイエスさまであるとは分からなかった!
 みなさん。私たちも同じではないでしょうか。イエス・キリストが、わたしたちの間で聖霊によって生きて働きかけてくださっているのに、それがイエス・キリストであるということが分からないんです。
 私自身がキリストに回心したときのことを思い出します。神を捨て、教会を離れ、無神論の世界に生きていた若き日の私でした。大学を卒業して就職をしたのは良いけれど、喘息の持病をこじらせて救急車で運ばれ死線をさまよった。それは助かりましたが、会社を辞めることとなり、郷里である静岡の田舎に戻った。挫折しました。何もかもがむなしい。何をしていいか分からない。そういうとき、街角で偶然に幼なじみに出会った。誰にも会いたくなかったのに、バッタリ会ってしまった。すると彼はキリストを信じる者になっていた。そして彼が祈ってくれた。それから毎晩、彼の家に行くようになった。そして彼からキリストの話を聞くようになった。さらに教会の信徒の方が、一緒に仕事をしないかと声をかけてくれた。そして一緒に仕事をするようになった。その零細企業は、毎日礼拝から始まりました。また、教会に戻るとふしぎなことに、若い人なんかいなかったその教会に青年が何人か来るようになって青年会ができた。また昼休みに喫茶店に行き、そこのママさんと仲良くなったんですが、ある日そのママさんが他の教会に通うクリスチャンであることが分かった‥‥。そのように、どこに行ってもクリスチャンと出会うという状況になりました。言っておきますが、この神奈川県と全く違って、静岡県は教会も少ないしキリスト信徒も少ないところです。特に私の郷里がある地域では、本当にキリスト信徒は少ない。なのに、どこに行ってもふしぎにキリスト信徒と出会い、しかも関わることになる。
 そして、ある日、私は目が開かれたんです。これは偶然などではない。イエスさまが生きておられるんだと。そしてあの、最初の幼なじみとの出会いも、いっしょに事業をしようと誘ってくれた教会員も、なぜか集まって来た青年も、喫茶店のママも、その他のもろもろの出会いも、イエス・キリストがそのようにお膳立てしてくださったのだと!‥‥そうして私は本当に主が生きておられることがわかり、幼児洗礼を受けておりましたら、信仰告白式に臨んで、キリスト者となりました。
 最初、それらの不思議な出会いの数々が、イエスさまによるものだとは分かりませんでした。「それがイエスだとは分からなかった」んです。しかし目が開かれて、それがイエスさまのわざであると分かったんです。主は生きておられます。
 
   証言者になる
 
 マグダラのマリアは、エルサレム市内のある家に隠れるようにして集まっていた弟子たちに、「わたしは主を見ました」と告げました。マリアにとって、それは誰が何といおうと事実だったんです。誰が信じなくても、それは彼女にとってまぎれもない事実だった。主は生きておられると。
 最初に申し上げましたように、逗子教会の今年の主題は昨年に引き続き「主を証しする教会」です。それは主イエス・キリストが聖霊を通して生きておられる、私たちの間で働いてくださっている、そのことを私たちが証言する者となるということです。
 新型コロナウイルスが猛威を振るい、緊急事態宣言が発令されるような状況の中で、世の中の多くの人々は言うかもしれません。「神は何をしておられるのか?」と。しかしそこには自分自身の悔い改めがありません。それに対して私たちは、「いや、主は生きておられます。なぜなら私たちに対してこのようにして下さったからです」と証言していくんです。
 礼拝堂に集まっての主日礼拝を休止した今までの期間、みなさんは神さまからどのような恵みを受けましたでしょうか? いろいろなつらいこともあったでしょう。不安もあったでしょう。しかし、そのような中でも、「主はわたしにこのようにして下さいました」ということがあったはずです。それを思い出したいと思います。
 
   聖餐に現臨されるキリスト
 
 きょうは、このあと久しぶりに皆で聖餐にあずかります。私たちプロテスタント教会は、洗礼と聖餐のこの二つの聖礼典を「見えるみことば」としてきました。説教が聖書に基づいて語られる「見えないみことば」であり、この二つのみことばを礼拝の中心に置いてきました。
 聖餐が「見えるみことば」と言いますのは、もちろん、それが儀式という形に置いて見えるからでもありますが、もっと言えば、そこにキリストが見えるからです。イエスさまは聖餐を制定された最後の晩餐の時に、パンを裂いてそれを手に取られ「取って食べなさい。これは私の体である」(マタイ26:26)と言われました。また続けて、ぶどう酒の入った杯を手に取られ、「これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」と言われました(マタイ26:27)。
 聖餐で牧師が聖別して配られるパンとぶどう酒は、イエスさまの体と血、つまり命なんです。言い換えればそれはイエス・キリストがパンとブドウ液という形で見えるんです。そこにキリストを見ることができるんです。それは生きておられるキリストのしるしです。
 私たちは生けるキリスト・イエスさまと共に歩むことが許されている。日々、生けるキリストを見出すことができるよう、聖霊の助けをいただきながら歩んでいきたいと思います。


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