2020年5月31日(日)逗子教会 主日礼拝説教/ペンテコステ
●聖書 ヨエル書3章1節
    使徒言行録2章22〜36節
●説教 「聖霊による開眼」

 
   あなたがたが殺したイエス
 
 「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36節)
 集まった群衆を前に、ペトロはそのように語りました。激しい言葉に聞こえます。それは罪を糾弾するようなことばです。それはまわりに集まった初めての人々に対して語るのには、もともふさわしくないように聞こえる言葉です。しかしそれは聖霊によって語られた言葉であり、その結果、奇跡が起きて教会が誕生しました。そしてペンテコステは、教会が聖霊によって誕生した日となりました。
 
   ペンテコステの出来事
 
 ペンテコステ、それはそのむかしモーセが神さまから十戒をはじめとした律法を授かった日とされていました。それと同時に、大麦の収穫を終え小麦の収穫が始まるという収穫を神さまに感謝する祭りとして祝われました。
 ペンテコステが近くなると、私は富山にいた時のことを思い出します。国道沿いに麦畑が広がっていて、この時期になりますと麦畑が穂を付け一面に黄金色に輝いて見える。それは美しいみごとな光景でした。イスラエルでは、このペンテコステの祭りは、過越の祭、仮庵の祭りとともに、三大祭のうちの一つでした。ですから、このとき、神殿のあるエルサレムにはそのペンテコステの祭りを祝うために、海外から多くのユダヤ人が戻ってきていました。
 ふりかえると、十字架で死なれたイエスさまが復活されて40日間が過ぎ、イエスさまは父なる神のもとへ昇られました。それから10日間、残された弟子たちは待っていました。何を待っていたかというと、イエスさまが天に昇られる前に約束なさった聖霊を待っていたんです。ただ待っていたんじゃない。共に集まって、祈って待っていました。
 そうしてこのペンテコステの祭日の日、約束通り聖霊が来られたんです。しかもしるしを伴って。弟子たち120人が集まっていた時に、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、響き渡りました。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たち一人一人の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ、自分たちが知らないさまざまな国の外国語で神さまの偉大な働きについて語り始めました。そこに、これらの物音を聞いてエルサレムにいた大勢の人々が集まってきた‥‥。聖書にはそのように記されています。
 集まってきた人々は、言ってみれば野次馬ですが、弟子たちが口々に外国語で神を賛美して語っている光景を見て、中には「あの人たちは、新しいぶどう酒を飲んで酔っているのだ」という人もいました。
 そこで弟子のひとりであるペトロが他の使徒と共に立ち上がって、群衆に語り始めた。‥‥これは酒に酔っているのではない。預言者ヨエルを通して神さまが約束されていた聖霊が注がれたのです‥‥と。それがきょう読みました聖書の前のところに書かれています。聖霊が注がれるというと、旧約聖書ではモーセとかエリヤといったような預言者に限られていました。しかしヨエルが神の約束を預言したように、今、このようにすべての人に注がれる終わりの時代が始まったんだとペトロは語り始めました。この群衆に語り始めたペトロの説教そのものも、聖霊によって語っていると言えます。
 
   ペトロの説教
 
 そしてペトロは、きょうの聖書箇所になるんですが、「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」と言って語ることは、イエスさまについてのメッセージです。
 そして23節でペトロは、神が遣わしたイエスをあなたがたは殺したということを語る。「あなたがたは」と語っています。この「あなたがたは」とは誰のことを指すのか?
 おそらくここに集まった群衆の中には、イエスさまを十字架にかけるために直接関わった人はほとんどいないと思います。しかし、イエスさまが十字架にはりつけにされて殺されたことは、ほとんどの人が知っています。有名な出来事でしたから。しかし実際にイエスさまを処刑するために直接関わった人はほとんどいない。にもかかわらずペトロは、「あなたがたは」と語っている。この「あなたがたは」とは誰のことを指しているのか?
 ここに集まった群衆は、ペンテコステの祭りのために海外からエルサレムに戻ってきている人を含めて、ほとんどがイスラエル人。別の言葉で言い換えるとユダヤ人。それは旧約聖書、すなわち律法と預言者を知っている人たちです。律法と預言者を知っているにもかかわらずイエスさまを十字架にかけたのは同じイスラエル人。だから、あなたがたは連帯責任だと、そのように言いたいのでしょうか?
 たしかにそういうことも、言いたいのかもしれません。そうすると、この演説というよりは説教を語っているペトロ自身、その中に含まれます。ペトロはイエスさまの弟子たちの中でも、イエスさまによって選ばれた12人の使徒の内の一人です。それでありながら、イエスさまが捕らえられた時、イエスさまの仲間ではないと言ってイエスさまを見捨てました。だから、この説教を語っているペトロ自身が、「あなたがた」の中に含まれていることになります。そのことを承知の上でペトロは語っている。自分のことは棚に上げ、ではなくて、自分のことを含めて語っているんです。つまり、そこには自分自身の罪というものを見ていることになります。
 そうしますと、「あなたがたは」イエスを十字架にかけて殺したという言い方は、イエスさまを十字架にかけるために直接加担した人に限定して「あなたがた」と言っているのではなくて、神が送られたイエスという方を排斥した、そういう罪が、私の中にもあるし、あなたがたの中にもあると、そういうことを念頭にして語っている。そのように言うことができると思います。
 そうしますと、この聖書を読んでいる私たちにも直接関わってくることになります。ペトロが「あなたがた」と言っているその「あなたがた」に、私も含まれてくるということになる。それは神を排斥しているからであると。自分中心に生きて、神をないがしろにしている。私たちに命を与えてくださった神を信じようとしない。あるいは、神の言葉に耳を傾けて聞こうとしない。‥‥そういう私たちがこの「あなたがた」の中に含まれる。ペトロはそのように語っている。そう言うことができます。
 
   断罪から赦しと祝福へ
 
 ペトロの話しがそこで終わりですと、これは単に断罪して終わってしまうことになりますが、そこで終わりではありません。23節をもう一度見ると、「このイエスを神は、お定めになったご計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが」と語っています。‥‥「神がお定めになったご計画により」ということは、神が送られたイエスさまが人間の手によって十字架にかけられることを、神はご存じであり、しかも神さまのご計画の中に含まれていたということになります。
 さらに24節には「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」と続きます。すなわち、ペトロの説教は、単に「あなたがた」と言って人々を断罪するのではなく、その罪ある人間を救うために神は十字架で殺されたイエスさまをよみがえらせた、復活されたというんです。それはつまり、神が送られた御子イエスさまを排斥して殺してしまうような罪人を断罪して終わりではなく、その罪人を見捨てるのではなく救ってくださるというありがたい恵み。それが「復活」という言葉です。つまり、十字架で殺されたイエスさまは、その殺すような罪がある私たち人間を救うために、神によって復活されたということです。
 それがイエスさまという方であり、救い主メシア=キリストであるとペトロは語るんです。そしてそのことは、何かペトロが発明したことではない。荒唐無稽な話しでもない。イスラエルの人ならすでに知っている旧約聖書の中にちゃんと書かれていることですよ、と語る。それが続く個所で、ダビデの詩編を引用して語っている個所です。ペトロは2個所のダビデの詩編を引用しています。あの旧約聖書の登場人物でありイスラエル王国の王であったダビデも、聖霊によってキリストのことを預言していたと、聖書に基づいて語っています。そして、キリストの復活のことを預言していたと。
 このようにしてペトロは、神が送られたキリスト(メシア)を、人間がその罪によって十字架にかけて殺してしまうことを神はご存じであったし、それは神のご計画であった。しかしそれは罪人である私たち人間を断罪して滅ぼすためではなく、かえって罪人である私たちを救うために、キリストを復活させられたのだと。そして再び神のもとへ引き上げられたのだと。それが今、このようにして実現したのですということをペトロは語っているんです。
 
   事実・真実を語る
 
 ペトロはこれらのことを、物音を聞いて集まって来た、野次馬である群衆に向かって語りました。ペンテコステの祭日に、イエスさまの約束通り聖霊が来られて弟子たちに注がれ、教会が誕生した。その教会としての最初の説教です。イエスさまがお命じになったとおり、これから世界に向かってキリストのことを宣べ伝えていく。その最初の説教がこれです。
 それにしては難しい話しだと思われるでしょうか。たとえば、なにかのお店が開店をするというときには、開店記念セールをしてチラシを配り、特別割引価格で商品を提供いたします。そうしてお客さんを呼び込もうとする。あるいは何かの講演会を開くとします。私も子ども小学生の頃、PTAの役員をやることになり、親御さんたちに向けた教育講演会に誰を呼ぼうかという話しになった時、それはやさしく分かりやすく上手に話をしてくれる人、ということになったことを思い出します。世間では、ふつうはそのように考えます。
 それに比べて聖霊によって誕生したばかりのキリスト教会の、いわば初めての特別伝道集会の説教であるとも言える、このペトロの説教はどうでしょう?‥‥難しすぎる、と言いたくなりませんか? そればかりか、最後に36節ですが、ダメ押しのように語っています。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」‥‥再び「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」と。「あなたがたが」と。きつい言葉ですね。伝道どころか、およそ反発を招きそうな言葉です。
 しかしペトロは、神の告げる真実だけを語るんです。本当のことを語る。そして聖書に基づいて、神さまのことを語る。それは人々にとって耳障りの言い言葉ではないかもしれない。しかし真実を語る。聖霊が語るように導かれたことを語っているんです。
 このことは私たち、現代の教会にとっても大切なことを教えています。すなわち、教会は真実を語るということです。大げさに語らない。はったりを語らない。この世の風潮に流されるようなことを語らない。時がよくても悪くても、たとえ聞く人にとって心地よいことではなかったとしても、真実を語る。もちろん、聖霊の助けを求め、できるだけわかりやすく語ることを願う。しかし聖書に基づいて真実を語る。そのようなことを教えてくれます。
 
    砕かれた人々
 
 さて、ペトロの説教を聴いた人々は、どう反応したでしょうか? そのあとのところを読むと、怒って反発したのでもなく、去ったのでもありませんでした。それどころか、こう書かれています。
"人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。"(37節)
 人々は、心を打たれて、救いを求めたというんです。これが奇跡です! 人間、なかなか自分が間違っているとは思いたくないものです。自分が正しいと思いたいものです。しかしこのとき群衆は、悔い改めたんです。ペトロの説教を聴いて、自分の中の罪を認めたんです。神が遣わしたイエスを殺したのは、この自分であると気がついたんです。これは聖霊の奇跡です!
 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。するとペトロは答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
 ‥‥「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」‥‥すなわちこの2020年に生きる私たちにもと。
 本日、先ほど洗礼式を執り行いました。一人の兄弟がキリストの体なる教会に加えられました。これは聖霊の奇跡です。神の招きが、今現在も、私たちに、そしてこの世の人々になされている。このことを深く心に留めたいと思います。


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