2020年5月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書9章11〜12
    マタイによる福音書14章1〜12
●説教 「人命の軽さと重さ」

 
    イエスさまが登場しない
 
 「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」‥‥イエスさまのことを伝え聞いたヘロデは、そのように語ったと書かれています。
 本日の聖書をお読みになって、お気づきになったかと思いますが、今日の聖書箇所にはイエスさまが登場しません。そういう珍しい個所です。いわばイエスさま抜きの世界です。そこで何が起こっているか。それは身も凍るようなおぞましい出来事です。洗礼者ヨハネという一人の預言者が死にました。ヨハネはイエスさまに洗礼を授けた人です。イエスさまが救い主であることを証しした人です。人々に悔い改めを説き、神のもとに立ち帰ることを説いていた神の僕です。そのヨハネが、まことに人間の身勝手な思いによって殺されるんです。
 そうすると私たちは「こんなことがあって良いのか?」と思うんじゃないでしょうか。そして「神はなぜこのような暴挙を放置しているのか?」という問いが出てくる。そしてさらにその問いは「神はなぜ悪が行われることを許しておられるのか?」とか「なぜ神は戦争が起こることを許しているのか?」‥‥そういった疑問ヘと発展していきます。
 もちろん、洗礼者ヨハネを殺害したのは神ではなくヘロデですし、戦争を起こすのも神ではなく人間ですし、悪を行うのも人間です。なぜ悪が起きるのか?‥‥それは人間の罪に由来している。それが聖書の語るところです。今日の所では、たしかにヘロデが悪い。しかしそれは単にヘロデが悪いということなのか?‥‥そんなことを考えながら読み進めていきたいと思います。
 ちなみにきょうの聖書の場面は、昔からいろいろな画家が絵に描いていますし、戯曲や小説などの文学作品、そしてオペラやバレエの音楽などにも題材として使われているという人気ぶりです。こういう出来事が取り上げられるというのは、スキャンダラスな展開が多くの人々の興味をかき立てるのだと言えると思います。
 
    ヘロデによるヨハネの処刑
 
 洗礼者ヨハネが殺害された経緯について書かれています。それは、ヨハネが領主ヘロデの行為を批判したからであると書いています。
 このヘロデという人は、イエスさまがお生まれになった時のヘロデとは違います。その息子で、ヘロデはヘロデでもヘロデ・アンティパスという人です。こちらのスライドを見ながら説明いたします。 イエスさまがお生まれになった時、東の国からやって来た博士たちが会ったヘロデはヘロデ大王と呼ばれます。それは今日のヘロデのお父さんです。そのヘロデ大王が亡くなったあと、領地は息子たちに分割されます。もちろん、ローマ帝国の皇帝のもとでのことです。
 そしてこのヘロデ・アンティパスですが、妻がいました。それは隣りのナバテヤ王国という国の王女でした。ところが彼は、ローマ皇帝に謁見するためにローマに行った時、当時そこに滞在していた異母兄弟であるヘロデ・フィリポの妻ヘロディアにぞっこんとなり、彼女を説得して奪うんですね。実をいうとこのヘロディアという女性もヘロデ大王の孫であり、血縁ということになるんですが。そしてアンティパスは前の妻とは離婚する。なんともすごい話しですね。
 このことを洗礼者ヨハネは糾弾したんです。前の妻との離婚の理由、そして生きている兄弟の妻を自分のものとしたことが、律法に違反している、すなわち神の掟に背いていると言って非難した。するとこのヘロデ・アンティパスは、ヨハネを捕らえて牢に入れたんです。すなわち、ヨハネを捕らえた理由は、なにかヨハネが犯罪を犯したというんじゃない。ヘロデの個人的な怒りです。現代の独裁者が自分の都合で人を投獄したり処刑したりというのと同じです。
 そうしてヨハネはあわれにも領主によって投獄されました。ところがそこで話は終わらなかった。それはヘロデの誕生日のことでした。宴席が設けられました。政府の高官や、貴族、地域の有力者などが招かれ、ごちそうがふるまわれ、酒が酌み交わされ、宴たけなわといったところだったでしょう。その宴席で、妻であるヘロディアの娘が余興として舞を舞って見せた。それは場を盛り上げ、主人であるヘロデを大いに喜ばせた。なお、この娘の名前は聖書には記されていませんが、一般的な伝統ではサロメという名前であったと言われています。
 そこで機嫌をよくしたヘロデは、娘に「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。そうすると娘は、なんと「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言ったんです。恐るべし。それは母親に唆されての答えでした。母親とはもちろん、ヘロデの妻ですね。つまり、ヘロデの妻ヘロディアは、自分がこのヘロデ・アンティパスの妻となったことを洗礼者ヨハネが批判したのを根に持っていたわけです。それは、ヨハネを殺してやるというほどの憎しみであった。
 そうするとヘロデは、「心を痛めた」と書かれている。なぜ心を痛めたのか? このマタイ福音書では、民衆がヨハネを預言者であると思っていたからだと書いています。民衆がヨハネを神の預言者であると思っていた。そのヨハネを殺せば民衆の反発を招くことになる。そういう極めて打算的なことで心を痛めた。しかし、ヘロデは先ほど「願うものは何でもやろう」と誓いました。誓ったことは必ず果たさなければならないというのは旧約聖書の律法です。しかも宴席に連なる人々の前で誓ってしまった。今さら取り消せない。それでヘロデは牢屋の中のヨハネの首をはねさせたということになった。
 こうしてヨハネは殺されました。
 
    預言者ヨハネ
 
 最初に申し上げたように、今日のこの出来事にはイエスさまが登場しません。代わりに書かれているのは、おぞましい人間の罪の姿です。そこで軽く扱われる人間の命です。なんとも言えない、気分が悪くなるようなドロドロした人間模様。その暗闇のような中で、一つ光を放っているのが、やはりヨハネという人です。
 彼は、殿様であるヘロデに向かって「律法で許されていない」などと言ったらどうなるかということを分かっていたことでしょう。しかし彼は言ったんです。なぜ言ったのか?それは彼が預言者だからです。預言者、それは神の言葉を語る人です。彼は自分の語る言葉に命をかけている。
 今のこの世の中は、言葉であふれています。インターネットで世界中の人々の言葉があふれている。まさに言葉の洪水です。しかし、その言葉の中で真実な言葉というのはどれほどあると言えるでしょうか。ウソ偽り、誹謗中傷、我田引水、人を傷つける言葉で満ちています。何を信用してよいか分からなくなる気さえします。
 しかし、このヨハネの言葉は真実です。なぜなら、ヨハネは命をかけている。命をかけた言葉というのは信じることができるのではないでしょうか。神の言葉を語る。それが預言です。相手が誰であろうと、神の言葉を曲げるわけにはいかない。その意味で、ヨハネは真実の預言者でした。真実な言葉があることを命をかけて証ししています。
 
    何が悪いのか
 
 さて私たちは、きょうの聖書の出来事を読んで、なんとひどいと思う。ヘロデもひどい人だが、ヘロディアもひどい。とんでもない連中であると思って怒りがこみ上げてくる。しかしそこでとどまっていると、それは他人事で終わってしまいます。聖書がなぜこの出来事を書いているか。それは洗礼者ヨハネがなぜ死んだかという理由を書き留めるということがあるでしょう。しかし、それだけではありません。聖書があえてこの出来事を詳しく書いているのは、そこに人間の罪の問題が現れているからであり、そのことを読者である私たちに悟るようにと語りかけているんです。
 たしかに、私たちはヘロデでもなければヘロディアでもありません。私たちはヨハネを処刑したりしていない。しかし、私たちがこの時のヘロデのような権力を持ち、あるいはどこかの独裁国家の独裁者のようであったとしたら、同じことをしないと言えるのでしょうか。自分の意のままに、嫌な人を扱えるんです。「うるさい」と思う人を抹殺することもできる。そして、ヘロデやヘロディアがこのような罪を犯したその同じ罪が、実は私たちのうちにある。そう言うと「そんなことはない」といいたくなる方もあるでしょうが、あるんです。心の中に、同じ罪が。
 まずヘロデの罪は何でしょうか?‥‥洗礼者ヨハネを捕らえて投獄した。それは、洗礼者ヨハネの言葉を神の言葉として聞かなかったからです。兄弟の妻を奪った。これは律法で言う姦淫の罪ですね。そして、その罪を指摘するヨハネの言葉は、神の掟に背いたと警告する神の言葉でした。しかし彼はそうは聞かなかった。神の言葉を神の言葉として聞かない。神を神としない。それは聖書の記すところの最も大きな罪です。
 また、彼はヨハネを処刑しました。殺人です。ヨハネを処刑することにヘロデは躊躇した。しかし処刑してしまった。なぜか?それは、宴席の客の手前、誓ったことを果たさないわけにはいかなかったという。客の手前です。見栄です。見栄や体裁で、つまり自分の名分が傷つくことを恐れて人の命を奪った。
 こうして、神の言葉を神の言葉として聞かない、神を神として崇めない、そして見栄や体裁で自分をよく見せることを優先させた。そのような罪が、表に現れてヨハネの処刑という結果を招いたことになります。そのような罪、そのような心は、他人事でしょうか?
 また、ヨハネの首を盆に載せて持ってくるように娘に言わせた妻のヘロディア。ヘロディアはヨハネを亡き者にしたかった。‥‥理由は、自分とアンティパスとの結婚に対してヨハネが律法違反だと言ったから。言い換えれば、それは神の御心ではないと言われて腹を立てた。ふつうの人なら、心の中でヨハネのことを憎むということで終わるしかないわけですが、夫はこの地方の殿様。だから夫の手によって憎いヨハネを抹殺することができたというわけです。すなわち、心の中の憎しみから始まっていると言えます。神さまの言うことよりも、自分の思いのほうが優先しているんです。
 このように見ていきますと、ヘロデ・アンティパスといい、ヘロディアといい、共通していることは、神の言葉を神の言葉として聞かない点です。言い換えれば、神を神としない。神を信じていないんです。そして愛がない。愛がないから、自分の憎しみとか怒りという感情が優先し、人を抹殺するに至る。隣人に対する愛がないんですね。そして神を信じないということは、神に対する愛がない。
 聖書では愛がないということを「罪」と呼んでいるんです。何か規則に違反したから罪だと言っているのではありません。愛がないことを罪と言っているんです。神に対する愛、そして隣人に対する愛です。その罪の結果としての今日の出来事なんです。
 
    私たちの中にある同じ罪
 
 そして聖書は、私たちの中にも同じ罪があることを悟るように語りかけているんです。けれども「そう言われても私は実際に人を殺したりしていない」と言いたくなります。しかし聖書には、次のような言葉があります。「私は人が見るようには見ないからだ。人は目に映るところを見るが、私は心を見る。」(サムエル記上16:7)これは主ご自身が預言者サムエルに語られた言葉です。人間は外見や表に現れた行動で人を評価します。しかし主は違う。私たちの主は、私たちの心を見られるとおっしゃいます。
 そういたしますと、ヘロデヤヘロディアの心の中にあった憎しみという感情は、私たちの中にはないのでしょうか?愛がないことを罪と言う。私たちの中には、主なる神さまに対する愛、そしてまわりの人に対する愛で満ちているんでしょうか?‥‥そう考えていきますと、私たちはもはや他人事ではなく、「主よ、おゆるしください」としかいいようがないのではありませんか?
 実はそこからが始まりです。私たちの真の神さまとの出会いは、そこから始まります。そして、いつでも始めることができます。神さまとの出会いの道をです。
 
   神は暴挙を放置されない
 
 はじめのほうの問いに戻って見ます。「神はなぜこのような暴挙を放置しておられるのか?」という問いです。そうするとこの問いは、「神は、私自身の暴挙を放置しておられるのか?」という問いでもあることに気がつきます。すなわち、「神は私たちの罪を放置しておかれるのか?」という問いです。
 神は放置しておかれませんでした。神は私たちの罪を放置しておかれなかった。その表れが、イエスさまの十字架です。この罪人である私たちを滅ぼすのではなく、救われる。イエス・キリストの十字架を通して。この罪人である私たちは、ありがたいことに、罪人であるままで神のもとに招かれています。


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