2020年5月17日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 列王記上18:21
    マタイによる福音書13:53〜58
●説教 「奇跡をなさらない場所」

 
   不信仰だと奇跡が行われない?!
 
 58節「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」
 みなさんは、このイエスさまの言葉を聞いて、驚かなかったでしょうか? そこの人たちが不信仰だったので、イエスさまはあまり奇跡をなさらなかったというのです。つまり、イエスさまの奇跡というものが、私たち人間の信仰と関わりがあるというんです。私たちがイエスさまをどのように信じるかによって、違ってくる。
 ハッとさせられます。私たちは、ともするといつのまにか信仰がマンネリ化してしまって、イエスさまを信じていてもいなくても、なにも違わないような思いになってしまわないでしょうか。しかしそこに、「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と記されている。明らかに、「信じる」という私たち人間の行為と、「奇跡」という主のわざが関係あると書かれているのです。言い換えれば、私たちの態度いかんによって、主の業があらわれるのかどうかが違ってくるということです。これはたいへん重大なことにちがいありません。
 
奇跡とは?
 
 「あまり奇跡をなさらなかった」とあります。ここで言う「奇跡」とは何でしょうか?ここで言う「奇跡」という言葉は、ギリシャ語では、「力」とも訳される言葉です。ですから奇跡は「力あるわざ」とも言われます。神の力があらわれることを言うのです。具体的に言えば、今までも出てきましたように、病気の人を癒すとか、目の見えない人の目を開けるとか、そういうことです。
 もちろん、奇跡というのは、そういう明らかに目に見える形であらわれるものばかりではありません。しかし今日の聖書で言えば、そういう力あるわざである奇跡を、イエスさまはあまりなさらなかった、ということです。今日の同じできごとを書き記しているマルコ福音書のほうを見ると、そこには「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、その他は何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(マルコ6:5)と書かれています。人々が不信仰だったので、イエスさまにしても奇跡をおこなうことができなかった、というのです。そのようにイエスさまが奇跡をなさらなかった、その原因が人間の不信仰にあるというのです。
 
     先入観の大きさ
 
 さて、では次に「不信仰」というのは、どういうことを言うのでしょうか?これは今日の聖書を具体的に見てみましょう。
 イエスさまが故郷にお帰りになった、とあります。イエスさまの故郷とは、ナザレという村です。イエスさまは、そのナザレの村で育たれました。ですから、そこには小さい頃からのイエスさまを知っている人がたくさんいたわけです。近所のおばちゃん、おじちゃん、いっしょに過ごした幼なじみ、そのお父さんやお母さん、学校の先生、同級生、買い物に出かけた店のおばちゃん‥‥そういうなつかしい人々がたくさんいるのが故郷です。
 イエスさまは、世に出てからは、ナザレのあるガリラヤ地方で神の国の福音を宣べ伝えておられましたが、それはガリラヤ湖畔のカファルナウムという町を拠点にしていたと思われます。それがこの時、初めて故郷に戻られた。そしていつものように、そこのユダヤの会堂で聖書のこと、神の国のことを人々に教えられたのです。‥‥ここまでは、いつもの光景でした。
 ところがその先が違ったのです。イエスさまの御言葉を聞いた人々は、「驚いて言った」とあります。この「驚いて」という単語は、ギリシャ語では、「驚愕した」「仰天した」というような、非常な驚きをあらわす言葉になっています。何をそんなに驚いたのか? イエスさまのなさる力あるわざ=奇跡に驚いた、というだけなら、今までもイエスさまの周りにはいつも驚きがありました。感動がありました。しかし今日のナザレの人々の驚きは、そういう感動的な驚きではなかったのです。むしろ反対に、軽蔑したような驚きだったということができます。
 故郷の人たちはこう言いました。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう?」
 イエスさまの子どもの頃がどうだったか、想像してみるとどうでしょうか。イエスさまがどのような遊びをなさったか知りませんが、おそらくほかの子どもたちと同じように遊び、過ごされたと思います。なぜなら、イエスさまは全く人の子としてお生まれになり、お育ちになったからです。しかも王家に生まれたのでもない。マリアを母としヨセフを父とし、ふつうの庶民の子としてお育ちになったのです。そして聖書は、イエスさまが子どもの頃のこと、世に出られるまでのことを一カ所を除いて、何も書いていません。つまり、他の人とあまり変わることがなかった、ということでしょう。つまり、私たちと同じように育たれた。
 それが、ナザレを出て行って、そしてまた戻ってきたと思ったら、安息日の会堂での礼拝で、旧約聖書の説教をする。「おいおい、なんだイエスが?」「いや、これはびっくり」‥‥そういうことだったのではないかと思うんです。
 しかし、一方では「故郷に錦を飾る」という言い方もあるではないかと思います。「あのイエスが、今や多くの人々から尊敬を受けるようになった。」「病気を癒やしたり、奇跡をするそうだ」「中には、イエスこそ救い主だという人々もいるそうだ」「出世したなあ」‥‥という具合で大歓迎されても良さそうなものではないでしょうか?
 ルカによる福音書の4章にも、このときの出来事が書かれています。するとそちらはまたマタイ福音書には書いていないことも書いています。ルカ福音書のほうでは、会堂でイエスさまのお話を聞いた地元の人が怒って、イエスさまを町の外れの山まで連れて行き、イエスさまを崖から突き落とそうとしたということまで書かれています。
 なにをそんなにナザレの人たちは怒ったのでしょうか?‥‥それは、イエスさまがナザレの町で奇跡を行うことを拒否なさったように聞こえたからです。なぜイエスさまは、そのような言い方をなさったのか?‥‥それはナザレの人々が、高慢な思いでイエスさまを見たからです。
 
   神の子にして人の子
 
 私たちキリスト教会は、イエスさまが神の子であり救い主であると告白しています。人の子であるイエスさまが、神の子であると。そして私たちを救ってくださると告白しています。ただ人間であるというのではない。そこに神が生きて働いておられると。
 ナザレの人々は、そのことを信じることができなかったんですね。なまじ子どもの頃からよく知っているものですから、先入観があったんです。だってずっと人の子である、しかも当たり前の人の子であるイエスさまと過ごしてきたんですから。
 しかし、実はそこがすごいところなんです。教会が、人の子であるイエスさまが同時に神の子であると告白していることが。神が全く私たちと同じ人となられたということのすごさです。全く人となってくださったんですから、私たちが何を考え、何を悩み、何に苦しむかもすべてご存じだということになります。人の子として育たれたイエスさまは、それらをすべて知られた。私たちの問題が何かも、実際に経験された。私たちがどうしたら救われるのかということも、身をもって悟られた。‥‥そういうことです。
 しかし、ナザレの人々は、この世のことにとらわれてしまって、イエスさまと共におられる神様を見ることができなかった。イエスさまの語る言葉に、神の言葉を聞き取ることができなかった。イエスさまのなさるわざに、神を見ることができなかったのです。これがここでいう「不信仰」ということです。
 
    信仰が足りないから奇跡が起こらないのか?
 
 さて、もどりますが、「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」という言葉を聞いて、不安になる方がいるのではないでしょうか?
 つまり、「自分も不信仰だ。だから、神様が働いてくださらないのだ」という心配です。あるいはもっと具体的に言えば、「自分の病気が治らないのは、自分が不信仰だからだ」というような心配です。‥‥しかし、これはまちがうと、あやしげな宗教と同じ考え方に陥る恐れがあります。たとえば、「あなたの病気が治らないのは、お布施が足りないせいだ」などと言って、お金集めをする教祖がいたりします。まちがうと、そういう考え方になってしまうでしょう。「不信仰だ」といわれると、そんな気もするわけです。
 しかし聖書ではどうでしょうか。病気になるのは、不信仰のせいでもないし、災害に出会うのは信仰が足りなかったからでもない。そのことは、旧約聖書のヨブ記が最もよく説明していると言えるでしょう。
 また奇跡というのは、単に病気が治るということだけではありません。反対に病気が治らなくても、奇跡というのがあるのです。それはたとえば、水野源三さんのような場合です。子供の頃光熱を発して体の自由をすべて奪われ、言葉をしゃべることもできなくなってしまった。そんな水野さんが、ひとりの伝道者を通してキリストに導かれ、体の自由の利かないまま、神をほめたたえ、感謝の日々を過ごし、多くの人の魂を揺り動かしていったのです。それもまた主のわざであり、奇跡です。星野富弘さんが、やはり体の自由を奪われたまま、キリストを信じるようになり、今や多くの人の心を感動させている。これも奇跡です。主のわざです。
 ですから、奇跡というのは、単に病気が治ったとか、摩訶不思議な異常な現象が起きた、ということではありません。聖書の奇跡というのは、神の働きすべてをいうのです。
 しかしやはり、「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」という言葉を聞いて心配を覚えるでしょう。やはり私たちも信じるとは言うものの、その信仰というものが、やはり足りないのではないかと私たちは自分で思うからです。そして、信仰が足りない、というのはその通りだと思うのです。
 私たちは、どんなにがんばってみても、「信じ切る」などということは、自分の力ではできないのです。神を信じていると思っても、やはり面白くないことがあると腹が立つし、収入が少なければ不安になるのです。そして、強盗にナイフを突きつけられたりしたら、やっぱり恐ろしく思うでしょう。そもそも私たちは、信仰が足りないのです。
 では、絶望しかないのでしょうか?
 
     「信仰のないわたしをお助け下さい」
 
 そこで、思い出していただきたいことがあります。それは、今年の元旦礼拝で取り上げた聖句です。(マルコによる福音書9:24)「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 これは、ローズンゲンの今年の聖句でもあります。
 この父親は、自分の息子の病気をいやして下さいとイエスさまにお願いしました。「おできになるなら、わたしどもをあわれんでお助け下さい」。するとイエスさまは答えました、「できれば、と言うか。信じる者には何でもできる」。
 するとその父親は叫んで言いました、「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」
 「信じます」と言いながら、「信仰のないわたしを」と言っているのは、何か矛盾しているように聞こえます。しかし、そうとしか言いようがない現実が私たちなのです。イエスさまを信じたいのです。しかし、本当のところを言うと、「信仰がない」のです。信じ切れない。でもできることなら信じたい。‥‥この息子の父親は、その正直な、ありのままの自分を丸ごとイエスさまの前に投げ出したのです。「こんなわたしを助けてください」と。そのありのままの正直な姿を丸ごと投げ出して、イエスさまにゆだねた父親を、イエスさまは受けとめてくださり、息子は助かったのです。
 不信仰なのです。私たちは不信仰です。なにかピンチが起こると不安になります。神さまが本当に助けて下さるのか、疑います。毎日の平凡な生活の中でも、神さまへの感謝を忘れます。不信仰なんです。信仰がない私たちは、本来神からも見捨てられ、絶望しかない。しかし、ここにイエスさまがおられる。人の子となられ、私たちの弱さも罪もすべてご存じのイエスさまがおられる。「信仰のないわたしをお助け下さい」と、ありのままの自分をそのまま正直にイエスさまの前に投げ出して、イエスさまに丸ごとお委ねするということが残されているのです。
 「信仰のないわたしをお助け下さい」とイエスさまに丸投げする‥‥それを主イエスは「信仰」だと言って下さるのです。それで私たちははじめて救われる。
 それゆえ、今日の聖書で言う「信仰」とは、イエスさまに丸投げする、言葉を換えて言えばゆだねるというそれだけのことです。しかしナザレの人々は、先入観にとらわれてしまって、イエスさまにゆだねることができなかった。
 私たちはほんとうは無力です。信仰すら無い。しかしただ一つ、神様に対してできることがある。不信仰な自分を丸ごとイエスさまに投げ出して、「信仰のないわたしをお助けください」と言って、ゆだねる。私たちの主イエスはその私たちを喜んで受け入れてくださる方です。


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