2020年5月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記28:16〜19
    マタイによる福音書13:44〜50
●説教 「究極のお宝」

 
   三つのたとえ
 
 本日は、イエスさまによって三つのたとえ話が語られています。
 @畑の中に宝を見つけた人のたとえ
 A良い真珠を見つけた商人のたとえ
 B世の終わりのたとえ
の三つです。いずれも天の国のことがたとえられています。ここから主の恵みを受けたいと思います。
 
   たとえ@ 〜畑の中の宝を見つけた人のたとえ〜
 
 ここでは、畑の中に宝が隠されていたのを見つけた人が登場いたします。話しからすると、おそらく偶然見つけたのでしょう。
 畑の中に宝が埋まっているなんて、なにか日本昔話の「花咲かじいさん」みたいで、そんなことがあるのかと思いますが、実際にそういうことはあったようです。というのは、イスラエルのある中近東は昔から戦乱の絶えない地域でした。戦争や内乱があると略奪が起こります。それで財産をどこに隠しておくかということが問題になります。それで、畑を掘って埋めておくということがあったそうです。見えるところに隠すなんて危ないように思えます。むしろ家の中の金庫とか床下とか、そういうところに隠すほうが安全ではないかとわたしたちは思いますが、そうではないそうです。なぜなら、略奪する人は家の中のものは当然もっていきます。だからそんなところに隠してもムダです。むしろ、広い畑の地面のどこかに埋めておいたほうが、どこに埋めたのかはまったく分からないので安全ということになるそうです。
 それはともかく、この人は自分の畑ではないのだけれども、おそらく畑の持ち主に雇われたか小作人かで、畑を耕していたのでしょう。すると偶然そこに宝の箱を見つけた。それでこの人は、このことを隠しておき、自分の持ち物をすべて売り払ってその畑を買ったというんです。畑の中から金品が見つかった場合、それは畑の所有者のものになったからです。
 このたとえ話ですが、倫理的には問題がありますね。見つけた宝を自分のものとするために、宝があったことは畑の所有者には黙っておくんですから。しかし、前にも申し上げましたように、イエスさまのたとえ話というものは、ある一点を強調するために話されるんです。たとえ話の中の素材の一つ一つをあれこれ言っても始まりません。
 ここでは、見つけた宝を、何としても自分のものにしたいという思い、その喜びを強調していると言えるでしょう。
 
   たとえA 〜良い真珠を見つけた商人のたとえ〜
 
 次のたとえですが、ただ今の「畑の中の宝を見つけた人のたとえ」と比べて、たしかに貴重なものを見つけた喜びという点や、持ち物をすっかり売り払ってそれを手に入れるという点は共通しています。
 しかし違う点もあります。それは、先ほどのたとえでは、畑の中に偶然に宝を見つけたのですが、今度のたとえで登場する商人は、今までずっと良い真珠を探し求めてきたという点です。つまり、思いがけず見つけたのか、今までも探し求めてきてついに見つけたのか、という点です。
 真珠がそんなに昔から高価な装飾品として売り買いされていたというのは驚きですが、昔から人間は美しい物を求めてきたんだなということが分かります。この商人は、ずっと良い真珠を探してきた。私などは真珠を見ても、大きさや色の違いは分かりますが、その他はどれもあまり違わないなと思うだけですが、真珠の商人にとってはその違いは大きな違いとして分かるのでしょう。
 とにかく彼は良い真珠を探し求めてきました。そしてついに見つけたんです。その喜びといったらたいへんなもので、持ち物をすべて売り払ってその一個の真珠を買ったという。むしろ私などは、ああ、それほどこの商人はさいこうの真珠を探していたんだなあ、と感心いたします。つまりここでは、ついに見つけた、という点が強調されていると言えます。
 
   共通点・相違点
 
 さて、以上二つのたとえ話を見ましたが、まとめますと、まず共通点は、自分にとって非常に貴重なものを見つけたということ、そして自分の持ち物を売り払ってそれを手に入れたということ。つまりそこにはたいへんな興奮と喜びがにじみ出ています。逆に異なる点は、偶然見つけたか、それとも探し求めてついに見つけたか、という点が異なっています。
 しかし、これらの二つはいずれも天の国のたとえであるということです。さて、そうすると、ここに登場する人は誰のことを指しているのかということになります。まずふつう思うことは、これは私たちのことを指しているのではないかということではないでしょうか。
 まず最初の「畑の中に宝を見つけた人」とは、偶然キリストと出会った人であり、「良い真珠を見つけた商人」とは、救いを探し求め続けてキリストの所に導かれた人‥‥というように思われるのではないでしょうか。
 たしかに思い当たることがあります。偶然キリストと出会った人がいます。その偶然は本当は偶然ではなく、神の導きに他ならないのですが、当の本人には偶然に思われる。私もそれに似たところがあります。若き日に教会を離れ神を忘れてしまった自分でしたが、病気をきっかけにキリストに出会いました。もちろん、実際にイエス・キリストという方を目で見たわけではありませんが、たしかにキリストが生きておられるという出来事があった。その時の驚きと喜びといったら、たとえようもないほどでした。
 天の国を知る喜びというものには、他に代えがたいほどの喜びがあるというのは本当だと思います。
 2番目の「良い真珠を見つけた人」は、先ほど申し上げたように、今度は救いを探し求め続けて、ついにキリストのもとへ導かれた人と考えることができます。私もそういう人と出会ったことがあります。たとえば、ある病気の息子さんをもつご婦人のことを思い出します。彼女は最初、教会に通いました。しかししばらくしてそこを去り、いくつかの宗教を転々としたそうです。しかし結局、息子さんの病気は治らなくて、最後にまた教会に来るようになった。また教会に来るようになった時、その時点でイエスさまを信じることを決心しており、洗礼を受けました。息子さんの病気は治りませんでしたが、彼女はキリスト信徒として信仰生活を全うされました。そういう人のことを思い出します。
 
   疑問
 
 さて、以上の解釈は、たしかに天の国のすばらしさを教えてくれます。天の国、言い換えれば神さまという方について、畑の中に見つけた宝のような、あるいは最高の真珠を見つけた商人のような、そういう喜びがある、最高の喜びがあるということを教えてくれます。そしてまだ私たちが、神さまという方について、それほどの喜びを感じていないとしたら、これからそういう喜びに出会うことができるということも教えてくれます。そのような喜びがたしかに伝わってきます。
 しかしです。そのように解釈することは決して間違っていないし、事実その通りだと思うのですが、一つ気になるのは、あまり意外性がないということです。たしかに畑の中に宝が隠されていたとか、全財産を投げ打っても手に入れたいほどの真珠に出会うというのは想定外のことかもしれませんが、ありえないことではありません。テレビ番組の「なんでも鑑定団」でも、畑の中から見つかった壺が、高額な値をつけられるということがありました。
 今まで、イエスさまのたとえ話には「おや、おかしいぞ?」というところがあり、そこに神さまという方がどんな方かが表されていると申し上げてきたことからすると、ただ今の解釈は、当たってはいるけれども、意外性という点では足りないように思われる。
 それからもう一つ、他のたとえ話は、ほぼ神さまかイエスさまが主人公だったのに対して、ただ今の解釈は、私たち人間が主人公ということになります。そういうたとえ話があっても良いに違いありませんし、先ほどの解釈も全然間違ってはいない。
 
   神さまイエスさまのことだとしたら
 
 しかし、ここで他のたとえ話のように、この二つのたとえ話の登場人物は、それぞれ一人しかいないわけですが、それを神さま、またはイエスさまのことだとしたらどうなるでしょうか?‥‥それはもう、驚き以外の何ものでもなくなります。
 つまり、畑の中に宝を見つけ、喜んで全財産を売り払ってその宝を手に入れた人、そして、良い最高の真珠を見つけて全財産を売り払ってその真珠を手に入れた人‥‥そのいずれもが、神さまのこと、あるいはイエスさまのことを指しているとしたら‥‥。そうすると、畑の中の宝、そして良い最高の真珠はなにを指すのかということになります。そうするとそれは、私たちのことを指すことになると思います。
 すると私たちは驚かざるを得ない。驚愕します。「私がこの畑の中の宝だって?!」「私が、この罪人でありつまらない人間である私が、全財産を売り払っても手に入れたい良い真珠だと?」‥‥ほとんど絶句であります。「まさか」と思います。
 しかしどうでしょう。聖書にはどのように書かれているでしょうか。
 たとえば、(イザヤ書 43:4)「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」
 そしてイエスさま御自身の言葉、(ヨハネ10:11)「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
 さらに、使徒ヨハネはこう書いています。(Tヨハネ 3:16)「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」
 ‥‥いかがでしょうか。二つのたとえ話は、見つけた人が全財産を売り払ってそれを手に入れいました。イエスさまはいかがでしょう。全財産どころの騒ぎではありません。ご自分の命を捨てられたんです。私たちを救うために。いや「私たち」などというと、その他大勢みたいに聞こえますから、もう少し踏み込んで言いましょう。「私のために命を捨ててくださった」と!
 このように考えると、この二つのたとえ話に隠されている、主の愛が、私たちの想像を超える主の愛が浮かび上がってまいります。
 
   第Bのたとえ 〜世の終わりの時のたとえ〜
 
 さて、今日はもう一つたとえ話があります。それが47節からのたとえ話です。これは、世の終わりの時に起こることが述べられていて、しかも神さまの裁きについて述べられています。なにか先の二つのたとえ話と全然違った印象を受けます。つまり、恐ろしさを感じます。悪い者が裁きを受けて、燃えさかる炉の中に投げ込まれる。‥‥震え上がります。なぜなら、私たちは自分が罪人であるということを知っているからです。
 私たちは、「なぜ神はこのような裁きをなさるのか?」と疑問に思う一方で、世の中の悪を見て、逆に「なぜ神は悪を放置しておかれるのか?」と思うのではないでしょうか。つまり私たちは、悪が裁かれることを一方では願い、しかし一方では自分は裁かれたくないと思う。その狭間にいるわけです。
 しかしこの三つ目のたとえ話は、先の二つのたとえ話とつながっています。つまり、本当は神の裁きを受けなくてはならない私、燃えさかる炉の中に投げ込まれても仕方がない私。その罪人である私を、なんと主イエスさまは、畑の中に隠された宝を見つけたかのように、そして良い真珠を見つけた商人のようにして、喜んでくださる。そして、ご自分の命を十字架で捨てて、それと引き換えに神の国に迎えてくださる。‥‥そういう神の愛、キリストの愛が鮮やかに浮かび上がってまいります。
 
   まとめ
 
 こうして私たちは、先の二つのたとえ話について振り返ることができます。
 まず、宝または真珠を見つけた人が、私たちのことであるとした場合は、天の国、言い換えれば神さまという方が、この地上のすべてのものに変えても良いほどの喜びがあるということ。また、見つけた人がイエスさま御自身であるとした場合は、ご自分のすべてを投げ打って私たちを価値のあるものと見なしてくださり、命を捨てるほどに愛してくださるイエスさまへの驚きとなります。


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