2020年4月26日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書42章1〜4
マタイによる福音書13:31〜35
●説教 「秘密の開示」
秘密の開示
本日は「秘密の開示」というよう謎めいた説教題をつけてみました。「秘密」といいますと、なにか謎めいた危ない宗教のような印象を受けるかもしれませんが、この場合の秘密というのは、私たちに喜びと平安を与えるものであることを最初に断っておきたいと思います。それがなぜ秘密と言われるのかというのは、多くの人々が求めようとしないから隠れたままになっているということです。
「秘密の開示」という説教題は、きょうの聖書の35節からつけたものです。35節は、こう書かれていました。‥‥「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」そしてこの言葉は、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書かれています。預言者を通して言われていたこととは、旧約聖書の中の言葉であるということです。それで旧約聖書の中のどの言葉かと言いますと、詩編78編3節です。そこにはこう書かれています。
「わたしは口を開いて箴言を、いにしえからの言い伝えを告げよう。」
しかしこれですと、今日のマタイによる福音書に引用されていたことばとずいぶん違いますね。そこで口語訳聖書の同じ個所はどうなっているかと申しますと、こうなっております。
「わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう。」
これで納得という感じですね。つまり聖書の翻訳の仕方でずいぶん印象が違うということです。この預言が実現するために、イエスさまはたとえで語られたというんです。そしてそれは、天地創造の時からの謎を明らかにするものであると。
私たちにはさまざまな大きな謎があります。たとえば、「この世界・宇宙はどうやってできたか」ということはこの世の中では最も大きな謎のうちの一つでしょう。それについては現代の科学者もいろいろなことを言っていますし、なによりも聖書の一番はじめのところに、神が天地を造られたということが書かれているわけです。そのように、天地の創造主なる神さまにすべてのもののルーツはあるということ。それが聖書の第一ページが語っていることです。
しかし、ではなぜ神は世界をお造りになったのか? 私たちはなぜ造られたのか? 私という人間はなぜ生まれたのか? そして何のために生きるのか?‥‥こういった問いを抱かなかった方は、おそらくいないと思うんですが、そういう世界の謎、人生の謎というものがあります。その謎というものについて、今イエスさまが語られる、明らかにされるということでもあります。
そのように考えますと、イエスさまのたとえ話というものが、なにかの「とんち話」のような、この世の中を上手に生きていくすべというようなものではなくて、私たちが生きる理由というようなものに関わることであると言えます。
本日のたとえ話
さて、本日は、短い二つのたとえ話が語られています。そしてこの二つを読みますと、共通していることがある。それは、二つのお話しとも「大きくなる」という点が共通してます。そのようなことから、この二つのお話しは、別のものを用いて同じことを言っているのではないかと考える考え方もあるかと思います。
しかし、よく見ると、この二つは「大きくなる」という点では共通していても、違っていることがある。それは、「からし種」のたとえのほうは小さな種自身が大きく成長するのに対して、「パン種」のたとえのほうは、パン種自身が成長するのではなく、まわりのものを、ここでは小麦粉を成長されているということです。自分自身が成長するのか、まわりを成長させるのかという点は、たしかに分けて考えてもよいと思います。
そして、たとえ話について、おかしな点に注目するということをいつも申し上げております。人間の常識とは違う神さまの常識がそこに現れています。
からし種のたとえ
まず「からし種」のたとえですが、「天の国はからし種に似ている」とイエスさまはおっしゃっています。からし種といいますと、たいへん小さな種です。私はまずここに驚かされたんです。なぜなら、天の国と日本語に訳されていますが、要するに天国ですね。ルカによる福音書では神の国となっていますが、天国がからし種にたとえられているとなると、それは非常に小さい種であるわけです。
こちらはイスラエルで売っていた栞のおみやげなんですが、辛子の花と実が描かれ、種は実物がついているんですね。大きさとしては、ゴマの半分に満たないような大きさです。天国がそのようなものにたとえられているというのは、「えっ?!」と思うわけです。おかしいよ、と。だって、天国ですよ、神の国です。神さまがいらっしゃるから神の国であり天国。その神さまは、先ほど触れましたように天地宇宙の造り主です。宇宙って、何百億光年という気の遠くなるような巨大なサイズだそうです。私たちは想像もできないほど大きい。ところが、その宇宙を造った神さまの国がからし種にたとえられているんですから、これは「えっ?」と思うのではないでしょうか。
そうすると、イエスさまがここでおっしゃる天の国とはいったい何のことかと考えざるを得ません。さて、そうしますと、どうもこのたとえ話は、小さな小さなものが大きく成長するということにポイントがあるということだと思われます。
この辛子がどの植物を指すかについては諸説あるようですが、先ほどのは、きだちたばこという辛子の一種です。成長すると、2〜3メートルにもなるそうです。また、このからし種とはクロガラシという植物を指すという説もあります。こちらは成長すると5メートルにもなるそうです(新共同訳聖書辞典)。ごく小さなものが、野菜の中でも一番大きくなるというこの成長力。
さて、このマタイによる福音書13章では「種を蒔く人のたとえ」から始まっていました。また、続いては「毒麦のたとえ」がありました。「毒麦」という言葉が強いので「毒麦のたとえ」と呼ばれますが、実際は「良い麦」に強調点があるわけですが、そこでも麦の種をまくことから始まっていました。いずれも「種」ですね。そして最初の「種を蒔く人のたとえ」では、道ばたに落ちた種が鳥に食べられてしまいました。そして今日のたとえでも鳥が登場いたします。今日登場する鳥は、種を食べたのではなくて、種から成長して大きくなった鳥が、そのからし種の木に巣を作るという仕方で登場しています。たしかに、からし種も種の段階では、鳥のエサでしょう。鳥に食べられて終わり。しかし、成長した段階では、その鳥が巣を作って身を寄せるほどになる。
そのことを考える時、私は自分自身を思い出すんです。かつて教会に通いながら、教会に行くことも、神を信じることもやめてしまった自分です。それは、神さまとか信仰ということが、非常につまらないものに見えたからでした。言い換えれば、とても小さなことにしか見えなくなった。しかし今はどうか。今は、神さまなくして自分もない。イエスさまに身を寄せているような自分があります。
それはまさに、天の国が、自分の中で成長している、大きくなった。そのようなことを思わずにおれません。
パン種のたとえ
次はもう一つの「パン種」のたとえです。パン種というのは何かというと、これは酵母菌が混ざったパン生地なんですね。要するに小麦粉を練ったものだけれども酵母菌が入っている。現代では、ドライイーストというような便利なものがあってそれを加えれば小麦粉が発酵するわけですが、昔はそのようなものがありません。ですから、前回作った酵母菌入りのパン生地を一部とっておく。それがパン種です。次ぎにパンを作る時は、そのパン種を混ぜて発酵させるわけです。そうしてパンが膨らむ。
天の国がそのパン種にたとえられています。この時点で私たちは「えっ!」と思います。いったい何をおっしゃるんだろう?というような意外性ですね。
このたとえ話では、3サトンの小麦粉と出てきていますが、3サトンとは38.4リットルなんですね。ものすごく大量です。多くのパンを焼くんでしょう。そんなに多くの粉なんだけれども、パン種を混ぜて寝かせると、酵母菌が発酵していってパン生地は大きく膨らんでくる。わずかなパン種が、その混ぜられたものを大きくさせていくということです。
ここではそのパン種に天の国がたとえられています。天の国そのものというよりも、天の国がまわりに影響を及ぼしたと考えることもできます。
○ 水野源三さんという方については、ご存じの方も多いことでしょう。もうずいぶん前にもう亡くなられた人ですが、私は昔この方の詩に強い感銘を受けました。水野源三さんは、小学生の時に高熱を出し、それによって脳性麻痺となり、体の自由を奪われました。動くこともしゃべることもできなくなりました。じっと布団に寝ているか、置物のように、部屋に置かれたこたつのテーブルの上に首を載せてじっとしていることしかできなくなりました。しゃべることができないから、人を呼ぶこともできない。ただ視力は残っていたので、お母さんが開いてくれる本を読むことだけはできました。そして、「あいうえお」の50音の表をお母さんが順番に指していって、目的の言葉に来たら、まばたきをして意志を伝えるという気の遠くなるようなゆっくりした方法で、自分の意志を外に表現できるようになったんです。
そして、彼の所に訪問に来た牧師と出会い、キリストの信仰に導かれ、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。そして源三さんは、先ほどの50音の表を使って、詩を作ることをするようになりました。お母さんとの共同作業で、ゆっくりと一つ一つの詩を作っていったのです。
そのうわさを聞いて、ちいろば先生こと榎本保郎先生が、水野源三さんの詩集を出版することになりました。詩集を出す前に、源三さんに会いに行きました。源三さんは、長野県の坂城という町に住んでいました。榎本先生は汽車でその町に行きました。途中、家が分からなくて、道を歩いている人に源三さんの家の場所を尋ねたそうです。すると、その人は丁寧に教えてくれました。榎本先生が礼を言って立ち去ろうとしたとき、その人は呼び止めて「水野さんはこの町の宝です」と言ったそうです。
体の一つも動かすことができず、言葉の一つのしゃべることができない、生活のすべては人のやっかいにならなければならない。そういう源三さんが「この町の宝である」と。その源三さんが、なぜ宝であるのか。彼のしたことは、もちろん詩を詠んだということもあるでしょう。しかしでは彼の詩を読むと、そこに彼の信仰が鮮やかに浮かび上がってくるのを、はっきりと見ることができます。自分が神様によって、生かされている喜びが、たくさんつづられている。
指一本動かすことができない源三さんが、その町の片隅の家の中で、心にイエスさまを受け入れた。言ってみれば、ただそれだけのことです。ただそれだけのことなんですが、その小さなパン種が回りを豊かにしていった。水野さんの心に受け入れられたイエスさま、そしてその御言葉が持つ力が、周囲に良き感化を与えたと言えるでしょう。
天の国自身が持つ不思議な力
これらの二つのたとえ話は、いずれも「さあ、あなたがたはがんばって、大きく成長しなさい」という命令でもありませんし、「世の中の役に立つようにがんばりなさい」という叱咤激励でもない。「天の国」それ自身の持っている不思議な力について語っています。からし種のような、ちっぽけに見えた天の国=神様=イエスさまの御言葉が、成長し、やがては私たち自身を、そして多くの人を養うように成長する。また、わずかなパン種が、この広い社会の中で、静かに影響力を発揮していく。
私たちはそんなすばらしい天の国の持ち主、神様、イエスさまを礼拝しているのです。こんなすごいものを私たちは今、差し出されている。そのイエスさま、神の国を受け入れるんです。
さて、はじめに申し上げました謎、すなわち天地創造の時から隠されていたことは明らかになったでしょうか。世界がなぜ造られたのか? 私たちはなぜ造られたのか? そして私たちはなぜ生まれたのか?‥‥少なくとも、その答えがこのたとえ話を語られたイエスさま御自身にあることが見えてきます。私たちがイエスさまの言葉に耳を傾ける、天の国、神の国を求める。そこに答えに続く道がある。そのように思います。
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