2020年4月19日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨエル書4章13
    マタイによる福音書13:24〜30、36〜43
●説教 「麦と毒麦〜神の忍耐と愛〜」

 
    たとえ
 
 イエスさまのたとえ話が続きます。神さまのこと、神の国のことを教える時に、イエスさまは「たとえ話」というものを使ってお話しになりました。そして、なぜそのようにたとえ話で語られるのかということについては、前回の個所、同じ13章の10節からのところでお話しになっています。
 それは、天の国、すなわち神の国には秘密というものがあり、それは誰にでも分かるものではない。そしてその秘密は、神の国を求める者に対してだけ明らかにされるものであるということ。そのために、たとえで語られるのだということでした。それゆえイエスさまは、9節で「耳のある者は聞きなさい」と言われています。もちろんこれもたとえて言われているのであって、「耳の遠い人は聞こえなくても仕方がない」という意味ではありません。そこで言われていた「耳」とは、心の耳のことです。
 私たちの耳は、さまざまな音を拾っています。しかしふだんはすべての音に私たちが集中しているわけではありません。テレビを見ている時は、テレビから出ている音声に集中している。そのために、台所でヤカンが沸騰しているのに、その音に気がつかなかったというようなことは日常の中にあるわけです。仕事をしている時は気がつかなかったけれども、休憩中にふと耳に入ってきた鳥のさえずる声。それは、もっと前から鳥が鳴いていたのだけれども、仕事に集中していたために気がつかなかったということにすぎません。そのように、人間は、自分の集中しているものや、関心のあるものの音を自然に選んで聞いているわけです。
 たまに、「教会に誘われて行ってみたけれども、説教が難しくてよく分からなかった」と言うことを聞くことがあります。たしかに説教をするその牧師の話し方にも課題はあるとは思いますが、しかし本当のところをいえば、聞く耳があるかどうかということです。関心もない話しは、いくら分かりやすい話であったとしても、もうけっこうということになるんです。ここのところでいえば、神さまとか神の国とか言われても、そういうものには興味がないと、それはつまらない話しということになります。
 イエスさまは「耳のある者は聞きなさい」と言われ、たとえ話を語られる。イエスさまは、無理に聞くようにはおっしゃらないんですね。押しつけません。しかし、求める者に対しては、その秘密を明らかになさる。たとえ話自体は分かりやすい。しかしそれが何のことを、どのようにして語っているのかということになると、それは神を求める人に対して明らかにされる。それで、イエスさまの言葉は、神を求める人のための言葉ということになります。
 
    毒麦のたとえ
 
 本日のたとえ話は、見出しに「毒麦のたとえ」と書かれています。
 「毒麦」と言われますと、かなり強く印象に残る言葉だと思います。実際に毒麦というものは、どういう麦なのか。ここで書かれている毒麦とは、どういう植物を指すのか。調べますと、だいたい2つの説があるようです。一つは、毒はないけれども、この毒麦が混ざってしまった小麦粉は苦くなってしまう植物を指すという説(新聖書辞典)。もう一つは、実際に毒があり、それを食べると下痢や嘔吐の症状が出る、そういう麦に似た植物を指すという説です。いずれにしても、これを食べても死ぬわけではないようです。しかし食用に適さない。
 また、毒があるにしてもないにしても、それは本来の麦ではない。つまり雑草です。雑草は農作物の成長を妨げます。よく、農業は雑草との戦いであると言われます。ですから、そういう意味でも毒麦は、早く抜いてしまうべきものであるはずです。
 
    意外な展開
 
 ところが、話は意外な展開を見せることになります。それは、麦畑の所有者です。僕たちが、「行って抜き集めておきましょうか?」と主人に言うと、主人は意外な答えをしたんです。それが29節〜30節です。
 『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』
 先ほど申し上げましたように、毒麦であろうとその他の植物であろうと、雑草は作物の成長を妨げます。だから、それが毒麦であると分かった時点で抜いてしまったようがよい。ところがこの主人は、刈り入れの時、つまり収穫の時まで待つように言うんです。
 
    たとえの意味
 
 さて、このたとえ話の意味については、イエスさま御自身が解説をしておられます。それが36節からの所です。イエスさまがご自分で語られたたとえ話を、弟子たちに対して解説をしておられるというものは、今日のたとえ話のちょうど前のところで語られた「種を蒔く人のたとえ」と同じです。きょうのたとえ話は、イエスさまが群衆を離れて家に入られた時に、弟子たちの求めに応じて説明なさっています。つまりここでも、求めに応じて明かされたのです。
 そしてその説明によりますと、良い種を蒔く人は「人の子」すなわちイエスさま。畑は世界である、すなわちこの世の中ですね。良い種は御国の子、つまり神の子とされた人々。言い換えれば、神の国に属する者です。そして毒麦は悪い者の子らであり、それを蒔いたのは悪魔であるとおっしゃる。つまり、悪魔に属する者ということになります。そして、刈り入れの時というのは世の終わりの時であると言われます。そして、その刈り入れの時である世の終わりの時には、燃える炉の中に投げ込まれる人と、天の国で輝く人に分けられる。すなわち、審判が行われる。
 
    わかること
 
 このイエスさまの解説を聞いて、分かることがあります。
 それはまず、悪というものが存在する理由です。この世になぜ悪が存在するのか。それはこのたとえ話によれば、悪魔、すなわちサタンが働いているのだということが分かります。しかしそれだけなら、最後の世の終わりの時に悪魔だけを裁けばよいのであって、人間を裁く必要はないはずです。しかし、人間に対して裁きが行われるというのは、やはり悪魔に全責任を押しつけているのではないということになるでしょう。創世記第3章の失楽園の物語が描いているように、悪魔のそそのかしに乗ってしまった人間の罪というものを、同時に見ていることになります。
 次に、世の終わりがあるということです。この世の終わりがある。もちろん現代では、宇宙の科学が進歩して、いろいろなことがわかってまいりました。たとえば、この地球も永遠に存在するのではないこと、太陽も永遠に輝き続けるのではないことも明らかになってきました。たしかにそのような意味でも、私たちが生きているこの地球の終わりは確実に訪れるわけです。しかしここで言われているのは、そういう科学的、物理学的な話しをなさっておられるのではなく、神がこの世界を終わらせるということについてです。このことがピンとこないという方は、自分の人生の終わりがたしかに訪れるということを考えてもようでしょう。
 そして、その時に神の裁きがあるということです。その終わりの時というのは、一巻の終わりということではない。二つの道の分かれ道であると言われます。一方は燃えさかる炉の中に投げ込まれ、一方は逆に父なる神の国で太陽のように輝くと。
 そしてここでも最後に、「耳のある者は聞きなさい」と言われます。
 
    なお残る謎
 
 さて、このようにイエスさまがご自分の語られたたとえ話について、自ら解説をしておられるわけですが、この解説を読んだらすべて納得、というわけにいくでしょうか?‥‥さらに疑問が生じる部分もあるのではないでしょうか。
 たとえば、良い種は御国の子、すなわち神の国の子、毒麦は悪い者の子と言われていますが、これは最初から決まっているだろうか?と。種ですからね。悪い人は最初から悪く、良い人は最初から良いというように、決まっているのだろうかという疑問が生じます。だったら悪い人は救いようがなくなってしまうことにならないでしょうか。
 しかしこれについては、これは「たとえ話」であるということを忘れてはなりません。たとえ話というものは、ある出来事の一つ一つをすべて何かに置き換えてたとえるというものではありません。ある一つのことを言いたい時に、その一つのことを強調するためにたとえて話すものだと思います。
 たとえば、チイロバ先生こと榎本保郎先生のお話しを聞いていると、榎本先生に会ったことのない人が「榎本先生ってどんな人??」と、榎本先生を知っている人に尋ねた時、その人は「鬼瓦みたいな人」と答えたそうで、その話を聞いて私も笑ってしまったわけですが、では「鬼瓦が聖書の説教をするのか?」などと言ってもそれは意味のないことだということは、皆さんもお分かりと思います。「鬼瓦みたい」というのは、第一印象の見た目をたとえたに過ぎないのであって、そのことのみを表現しているわけです。
 ですから、イエスさまのたとえ話についても、これは何を指すのか、このことは何を指しているのか‥‥などとすべて何かに当てはめようと考えても、あまり意味のないことだと思いますし、間違うと話しが変な方向に行ってしまいかねません。ですから、今日のイエスさまのたとえ話では、「最初から神の国に属する人と、悪魔に属する人は決まっているのか?」というような質問は、今日のたとえ話でイエスさまがおっしゃりたいこととは違うと考えたほうがよいでしょう。それは、聖書の他の個所と照らし合わせれば分かることです。
 
    なぜ収穫まで待つか?
 
 今日のたとえ話の中心は、やはり私たちの常識とは違っている点にあると言って良いでしょう。それは、このたとえ話に登場する畑の主人の言葉です。もう一度見てみましょう。
「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」
 毒麦を抜く時に、麦までいっしょに抜くかも知れないというのです。だから毒麦も刈り入れの時までそのままにしておけと。先ほど申し上げたように、雑草は目的の農作物の成長を阻害します。だから早く抜いたほうがいい。ところが、この主人はちょっと変わっている人で、「麦までいっしょに抜くかも知れない」から、待てというんです。
 このところのさまざまな解説書などを読んでおりますと、毒麦の根が麦の根にからまってしまっているから、実際に毒麦を抜こうとして麦まで抜けてしまうことはよくあるのだ、と書かれた物があります。たしかにそうかもしれません。しかし、だとしたら根っこから引き抜かなくても、根本のほうで切り取るという方法だってある。それでもそのままにしておくよりはマシでしょう。しかしこの主人は、刈り入れの時まで、すなわち穂をつけて収穫する時まで取り去らないでおけと言うんです。全体の収穫量が減ることなど、度外視しているんです。
 ここに、そこまでして一本の麦を大切にする主人の姿がクローズアップされます。
 
    毒麦を処理するのは神
 
 よくありがちなのが、このたとえ話を読んで、他の人の論評をすることです。「あの人は毒麦だ」とか、「これはあの人のことを言っているんだ」というようにです。そのように読んでしまっては、完全に的外れだといわなくてはならないでしょう。そのように、他人を裁くために読んでしまってはならないのです。まず最初に、自分自身を見なければなりません。
 自分は良い麦なのか、毒麦なのか?‥‥と。私は、明らかに毒麦でした。聖書に照らし合わせて自分をかえりみると、私はまぎれもなく毒麦でした。だから、23歳で病気で死にかけた時、そのまま死んでしまっても文句が言えない者でした。毒麦だったんですから。とっとと抜いて、火にくべて焼かれてしまって当然の者でした。
 しかし私は、生かされた。そしてキリストのもとに導かれ、救われました。それは今日のたとえ話登場する主人であるイエスさまが、このお言葉どおりの方だったから救われたんです。
 「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」‥‥それは毒麦だったのに、それを麦と見なして下さった。その神の忍耐と愛によって、私は見捨てられずに救われたんです。
 そしてその背後には、イエス・キリストの十字架があるからに他なりません。燃えさかる炉の中に投げ込まれてふさわしい者であった私。しかしその裁きは、このたとえ話を語られたイエスさま御自身が受けて下さったんです。そのキリストの愛を思う時、感謝という言葉しかないんです。そしてそのキリストの十字架に見られる神の愛と忍耐は、すべての人の上に注がれています。


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