2020年4月5日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 エレミヤ書43章1〜2節
    マタイによる福音書13章10〜17節
●説教 「持つ人、持たない人」

 
    イエスさまに尋ねる
 
 先週は「種を蒔く人のたとえ」の個所を読みました。本日は、13章1節からの「種を蒔く人のたとえ」と、18節からの、そのたとえ話についてイエスさま御自身が解説しておられる個所の間にはさまれたところを読んでいただきました。
 この間にはさまれたような個所は、イエスさまがなぜたとえ話をお話しになるかということが語られています。きっかけは、種を蒔く人のたとえをイエスさまがお話しになったあと、弟子たちがイエスさまに対して「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか?」と尋ねたことから始まっています。「あの人たち」というのは、イエスさまの所に集まってきた群衆です。それこそ老若男女、徴税人もいれば、ファリサイ派の人々もいる、といったように、さまざまな人々でしょう。なぜ、その人たちに対して「たとえ話」という形でお話しになるのか?‥‥そのように尋ねた。それに対してイエスさまがお答えになった。
 当たり前のように思いますが、これは裏を返して言えば、弟子たちがイエスさまに尋ねなかったとしたら、イエスさまも明らかにされなかったということになります。尋ねたから、教えて下さったんです。尋ねなかったとしたら、明らかにされなかったかもしれません。ここにすでに、今日の箇所のポイントがあると思います。すなわち、イエスさまに尋ねるということです。
 私たちも聖書を読んでいて、分からないことがたくさん出てきます。分からないことについて、たとえば聖書の解説書のようなものを読んで調べることもあるかと思います。あるいは今日でしたら、インターネットで検索して調べることもあるかと思います。そのようにして調べて分かることもあります。しかし、調べてもどうしても分からないこともあります。
 たとえば、むかし私が若い頃、主によって再び離れていた教会へと導かれ、そしてイエスさまを信じる決心をした時のことでした。幼児洗礼を受けていましたが、信仰告白がまだだったので、信仰告白を受けました。そうしてクリスチャンとしての歩みが始まったのですが、しばらくして、「罪とはなんだろう?」と思いました。もちろん、罪というものが神にそむくことであるとか、悪いことであるとか、そういう辞書的な意味は分かるんですが、その罪が赦されるということを聖書は非常に大きな恵みとして書いていますね。そういう罪の大きさ、罪の赦しの大きさということが、いまいちピンとこなかったんです。それで、お祈りして神さまに尋ねることにいたしました。神さまに、「罪というものが良く分かりません。教えて下さい」という具合にです。
 そうして何日か経った頃、突然、私の罪というものが示されたんです。それは、私が忘れていたような過去の過ち、またその当時は罪などとは思っていなかったようなことが罪として次から次へと示され、私は衝撃を受けました。そして私は愕然としました。「自分は罪人であった」と心から思いました。同時に、そのような罪人である私を赦して下さったイエスさまの十字架の尊さが示されました。‥‥そういう体験をいたしました。
 もちろん、これは私と神さまとの間のできごとです。神さまは、ひとりひとり、違う導き方をされます。ですから、私と同じように対応されるかどうかは分かりません。とにかく、分からないことがあったら、神さまに、イエスさまに直接尋ねてみるのはとても良いことです。
 弟子たちは、イエスさまに尋ねました。それでイエスさまは答えてくださいました。
 
    天の国の秘密
 
 そこでまずイエスさまがおっしゃっていることは、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」という言葉でした。
 ここで注目すべき言葉は「天の国の秘密」という言葉だと思います。「秘密」という言葉は、どこか怪しげな雰囲気がありますね。謎めいているといいますが、隠しているといいますか、「それはいったいなんでしょうか?」と、他の人には内緒にして、思わず知りたくなるような言葉です。
 しかしここで、一つの疑問がさらに浮かぶのですが、それは、「あなたがた」すなわち弟子たちと、「あの人たち」すなわちイエスさまの所に集まってきた群衆たちとの間に違いが設けられているということです。では、弟子たちと一般の群衆とではどこが違うかというと、弟子たちはイエスさまの後に付いてきている、従って来ているというところが違います。ただ聞いている人と、イエスさまに従ってきている人。そういう違いがあります。そして、イエスさまに従ってきている人には、秘密を知ることが許されていると言われる。これも、先ほど述べました、イエスさまに尋ねる、言い換えれば「求める」ということに関係していると言えます。
 ではその「秘密」というのは何のことなのか?
 「秘密」という言葉は、ギリシャ語では「ミュステーリオン」という言葉です。英語の「ミステリー」の語源です。推理小説を指したりしますね。この場合は、神さまとイエスさまだけが明らかにすることの出来るミステリーです。
 それは何かということですが、エフェソの信徒への手紙3章3節には「秘められた計画」ということが書かれています。秘められた計画‥‥それは、イエス・キリストによって人々を救うという計画であることが、その個所の前後を読むと分かります。それは、天地創造以来に始まるこの世界の歴史、聖書が創世記から書き始めるその歴史、旧約聖書から始まる物語、その歴史には、秘められた神さまのご計画があったということになります。そして、その秘められた神さまの計画が、イエス・キリストによって罪人である私たちを救うというご計画だというんです。
 同じエフェソの信徒への手紙の1章4〜9節に、このように書かれています。
(エフェソ 1:4〜9)「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。」
 いかがでしょうか。まさに圧倒されるような、神さまのご計画ではありませんか。天地創造の前から、私たちはイエス・キリストによって、救われて神の子とされるというご計画があったというんです。「神は私たちを愛して」と書かれています。
 こうして、聖書の謎、人生の謎が明かされていくように思います。たとえばクリスチャンではない人で、聖書を読もうと思って旧約聖書から読み始める方がいます。最初の創世記は非常にワクワクして面白い。しかし、読み進めていくうちに、だんだんと退屈になる。さらには、疑問が生じてくる。「聖書は神の言葉だというのに、なんで戦争のことばかり出てくるんだろうか?神さまが人を滅ぼしたりするんだろうか?‥‥」さまざまな疑問が生じてきます。そうして、聖書を読むのをやめてしまう。そういう人は多いように思います。
 それでも、なお読んでいくという人は、どういう人でしょうか?‥‥それは求めている人に違いありません。道を求めている、救いを求めている人です。そういう人は、疑問があっても、分からなくなっても、さらに読み進めていく。まるで旅人が、砂漠があっても、荒れ野があっても旅を続けていくようにです。
 そうして、旧約聖書を読み終えて、新約聖書に至る。そこでだんだん分かってくることになります。目が開かれていくように感じる。その時はそれ以上のことが分からなくても、教会につながって、だんだん目が開かれていく。そこには、「求める」という一つのことがあってのことです。そうして、すべての謎の答えがイエス・キリストにあるということが分かっていきます。旧約聖書を読んでいて分からなかったことも、その答えはイエスさま御自身にあるということが分かってきます。
 それは、私たち自身の人生の謎についても言えることです。私たち自身にも、多くの人生の謎があります。「どうしてこんなに苦労しなければならないのか?」「どうしてこんな危機に出会うのか?」「自分はどう生きていけば良いのか?」「なぜ、自分は生まれたのか?」‥‥そのようなさまざまな謎があります。しかし私自身、それらの謎の答えが、まさにイエスさまの御自身の中にあることを教わってきました。
 きょうの聖書の16節で、イエスさまがおっしゃっておられます。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」。‥‥あなたがたとは弟子たちのことです。弟子たちは、今、何を見て、何を聞いているでしょうか??‥‥このとき弟子たちが目の前に見て、話を聞いているその相手とは、イエスさま御自身に他なりません。弟子たちは、イエスさまと顔と顔を合わせて見ている、聞いている。なんとうらやましいことだろうかと思います。まさに、イエスさまと出会うこと、そしてイエスさま御自身に、すべての謎の答えがあるということです。
 
    予言の成就
 
 イエスさまは、14節〜15節で、「彼らが見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」その理由について、旧約聖書イザヤ書6章9〜10節の言葉の成就であると言われています。いま申し上げたことからいえば、彼らはイエスさまという救い主を見ているのに、見えていない。イエスさまという神の子の言葉を聞いているのに、神の言葉として聞いていない‥‥それゆえ、イエスさまの言葉が理解できない。その結果、悔い改めることもなく、いやされることもない。そういうことです。
 「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」‥‥イエスさまを信じたとき、この私を救って下さる方だと信じたとき、それは幸いだと言われます。なぜなら、そこに神さまの愛があるからです。イエスさまの愛があるからです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」とエフェソ1:4で言われている、その神の愛が私たちに注がれているからです。そのことに気がつきなさいと、主は言われるのです。
 
    種であること
 
 最初に申し上げたように、きょうの聖書箇所は、「種を蒔く人のたとえ」の間に挿入された個所です。そして、種を蒔く人のたとえの、種を蒔く人とは、イエスさまと神さまのことを指していると、前回申し上げました。そして、神さまは、その種を、道ばたであろうが、石地であろうが、いばらの間であろうが、いろんな所に蒔いて下さるのだと申し上げました。私たちの心がかたくなで、種である神の言葉を聞いてもサタンに奪われてしまう。この世の思い煩いといういばらにふさがれてしまって実を結ばない‥‥にもかかわらず、種を蒔き続けて下さっていると申し上げました。
 ここでの種というのは麦の種のことでしょうけれども、およそたいがいの種は、固い殻で覆われています。しかしそのために、種によっては鳥に食べられてしまっても、すぐに消化されるわけではないというものもあります。以前、山梨県のワイン製造所にお邪魔したことがありました。そこで聞いた話ですが、日本でもぶどうは古くから山梨県で栽培されていたそうです。しかしそのぶどうは、日本原産ではないそうです。やはり大陸、つまり中国のほうから運ばれてきたらしい。じゃあどうやって運ばれてきたかというと、鳥が運んできたらしいと言うんです。つまり中国のほうで鳥がぶどうの実を食べ、その鳥が日本に渡ってきたときに、フンといっしょに排出したと。その話しを思い出しました。つまり、みことばは鳥に食べられて運ばれて、他の地に行ったとしても、生きているのだと。要は、神のみことばを聞いて受け入れるということが問題なわけです。
 12節ですが、「持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」‥‥この言葉もまたたとえのようなおっしゃり方です。これは、持ち物をもっていることにたとえて言われています。しかしここでイエスさまがおっしゃりたいのは、最初に戻りますが、「求める」ということです。弟子たちがイエスさまのたとえ話について尋ね求めた。他の人々と違って、弟子たちはイエスさまを信じて従って来た。それは救いを求める心から来ています。
 求める者には与えられる。これはイエスさまが約束なさったことです。(マタイ 7:7〜8)「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」‥‥山上の説教の中の、この言葉が浮かび上がってきます。キリストに求める。その答えはキリストにあるからです。
 今週は受難週です。十字架の道を歩まれたイエスさまに思いをいたしながら、神の言葉を求める一週間でありますように。


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