2020年3月29日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 詩編119編105節
    マタイによる福音書13章1〜9、18〜23節
●説教 「実を結ぶ人」

 
    新型コロナウィルスによる肺炎
 
 新型コロナウィルスによる感染症。いまやヨーロッパとアメリカで感染爆発が起きています。その危機は、日本にも迫っています。教会はどうすべきなのか。そして何ができるのか。主の助けと導きを求めています。
 イタリアでは爆発的な感染拡大が起き、すでに8千人以上の方が亡くなり、中国での死者を超えていることは、皆さん報道でご存じの通りです。報道では、医療崩壊が起きていると言われています。そして日本では、イタリアのようになってはならないように対策をとると言われています。しかし、そのイタリアで、証しが生まれています。コロナウィルス対策で時間短縮を申し上げている以上、この説教の中でご紹介するには時間がかかりますので、別紙資料として教会員の皆さんには週報棚に、それ以外の皆様には受付に置いておきましたので、どうぞあとでご覧下さい。命をかけた証しが生まれています。まさに、「一粒の麦」が地に落ちて、豊かに実を結んでいくのだと思わされました。
 
    湖のほとりにて
 
 きょうの聖書箇所は、イエスさまのたとえ話が語られています。朗読した聖書箇所を1節から9節、そして少し飛んで18節から23節といたしましたが、これはその前半個所でたとえが語られ、後半にその解説が語られていて、そのあいだに「たとえを用いて話す理由」が語れているからです。イエスさまが語れた「たとえ話」で、イエスさま御自身がその意味を説き明かしておられるものは珍しいんです。その一つが今日のたとえ話です。
 聖書箇所は、イエスさまが家を出て湖のほとりに座っておられたということから書き始められています。私はこういう個所を読むと、本筋とは関係のないところに興味を持ってしまうんですね。今日のところで言えば、イエスさまは湖のほとりに座って何をなさっていたんだろうと、そんなことを思ってしまいます。私のようにボーッとしておられたんだろうか? それとも父なる神さまに祈っておられたんだろうか? あるいは何か考え事をしておられたんだろうか?‥‥と、なんだかこういうところに、ものすごくリアリティがあって、「ああ、本当にイエスさまは人の子としてこの地上を生きられたんだなあ」などと感慨深く思ってしまいます。いつも人々がイエスさまのところに押し寄せてきましたので、このようにお一人で海辺に座っておられるというのは、貴重なお時間だったに違いないと思います。
 しかし、人々のほうはそんなイエスさまを放っておきませんでした。さっそくイエスさまを見つけて、大勢の群衆がそばに集まってきたと書かれています。ボーッとしている暇もないという状況です。するとイエスさまは、舟に乗って、そこで腰を下ろされたという。そしてそこから岸辺に向かって、今日のたとえ話をなさったんです。舟が演壇で会衆席が浜辺という、天然の舞台となりました。
 
    種を蒔く人のたとえ
 
 お話しになったたとえ話は「種を蒔く人のたとえ」と見出しに書かれています。このたとえ話は、教会学校に通ったことのある人ならば一度は聞いたことがあるというものでしょうし、またその光景が子どもでも頭の中に思い浮かびますから、印象的に覚えている方も多いことでしょう。
 この種というのは麦の種であると思われます。イエスさまは、人々の生活の中の身近なものを題材にして語られました。このときも、もしかしたら、舟の上から陸のほうを見て、ずっと向こうで種まきの作業をしている人がいたのかも知れません。その身近な光景を題材にして、神さまのことをお話しになるのが、イエスさまのたとえ話です。
 (スライド映像を示し)こちらのほうの種まきは、おそらくミレーやゴッホの描いた「種蒔く人」の絵のように、手で種をつかんでバラバラと畑に蒔いたと考えられています。(こちらがミレーの描いた「種蒔く人」、そしてこちらがゴッホの描いた「種蒔く人」です。)2人の絵の巨匠がそれぞれ種蒔く人を書いたというのは興味深いですね。
 それはともかく、そのように種をバラバラと蒔くのは、なんと無造作なことかと思いますが、あとから鍬で土をその上にかけるんです。当然ですが。さて、その種ですが、ある種は道ばたに落ちてしまって鳥に食べられてしまったという。鳥から見たら、貴重な種でも、それはエサでしかないわけです。また、他の種が石地に落ちた。そして芽を出したんだけれども、石地ですから根を張ることができなくて、日が昇ると石が焼けて枯れてしまった。他の種は、茨の間に落ちた。茨というのはとげのある低い木で、イスラエルにはよく生えています。その種は芽を出したけれども、茨が伸びてふさいでしまった。結局、実を結ぶことなかったでしょう。しかし、良い地に落ちた種、これは本来のよく耕された畑に落ちた種です。その種は実を結んだ。それもあるものは一粒から百倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなったという。‥‥これが今日のたとえ話です。
 これだけを聞くと、何ということもないように思われますが、後半でイエスさま御自身がこのたとえ話について説き明かしておられることから、実に興味深い信仰の話であることが分かります。
 ただ、前半だけでも興味を引く点があります。それは一つには、「蒔いた種が道ばたに落ちたり石地に落ちたり茨の中に落ちたり、そんな無造作な蒔き方ってあるのかな?」‥‥という点です。当時は現代とは比べものにならないぐらい、生産性の低い時代です。麦も品種改良がされていません。一粒から10粒程度、豊作だったとしても一粒からせいぜい30粒程度が収穫できる程度だったと、私の恩師である清水恵三先生は本に書いておられます。そうすると、一粒は貴重です。ムダにできません。なのに、道ばたに種が落ちたり、石地に落ちたり、茨の茂っている間に落ちるなんて‥‥あまりにも無造作すぎて、おかしいぞ?!と、聞いている人々は思ったはずです。
 それからもう一点あります。それは、今申し上げましたように、品種改良がされていなくて、一粒の麦の種からは、10倍から豊作でも30倍と申し上げましたが、イエスさまのたとえ話ですと、良い土地に落ちた種は30倍から100倍と、当時としてはあり得ないほどの実を結んだことになっています。ですからこれについても、聞いている人々は「そんなことあり得ないよ」と思ったと思われます。「イエスさまは農業のことなんか分からないんじゃないか」と苦笑した人もいたかも知れません。
 しかし、イエスさまのたとえ話は、そのように「おかしい」と見えるところに、実は神さまの恵みが隠されているんです。なぜおかしいのかというと、それが人間の常識と神さまの常識のちがいが現れているからです。
 
    常識を超えた結実
 
 後半の、イエスさま御自身によるたとえ話の解き明かしを見てみましょう。その意味はそこに書かれているとおりです。すなわち、ここで言われている「種」というのは「御国の御言葉(みことば)」であるということです。御国の御言葉、すなわち神の国の御言葉、天国の御言葉であり、神の言葉です。種が蒔かれるように、神のみことばが人々の間に蒔かれる、つまり語られ伝えられる。ところが、それがどのように人々に受け止められるかに、違いが表れているんです。
 イエスさまは、道ばたに蒔かれた種とはこういう人のことである、石だらけのところに蒔かれた種とはこういう人のことである、茨の中に蒔かれた種とはこういう人のことである‥‥と順に語られています。私たちはこの説明を聞いて、「ああ、道ばたに蒔かれた種の人というのは、あの人のことだな」などと、他人のことを勝手に思ってはならないと思います。それは他人を裁くことになるからです。他人のことを、あの人はこの種に該当する、などと批評してはなりません。イエスさまは、そのように人を決めつけておられるのではないんです。私たちも、この中のどの土地にもなり得る。そのように読まなければなりません。
 たとえば、道ばたに蒔かれた種とは、鳥が来て食べてしまうように、悪い者が来てそれを奪い取ってしまうと言われる。だから何も生えてこないし、実を結ばない。これだって、私たちもそうなりうるんです。というよりも、すぐにそうなるんではないでしょうか?
 この「悪い者」というのは、何か泥棒だとか、犯罪者だとかいうことではありません。これは悪魔、サタンのことです。わたしたちがせっかく御言葉を聞いても、サタンがそれを取って行ってしまう。だから心に残らない。たとえば以前、テサロニケの信徒への手紙1の 5章16〜18のみことばを学びました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。そしてこれを実践する具体的な例として、あるドイツ人クリスチャンが実践していることを申し上げました。それは10分間に一度、5秒間祈る、または主を賛美するということでした。それを実践してみられた方もいると思います。いかがだったでしょうか? ずっと続けることができたでしょうか?‥‥すぐ忘れるんじゃないでしょうか?
 そうすると、「ああ、自分はなんて弱いんだ」と悟り、悔い改める。しかしやはり続かない。御言葉の種の根が出てこないんですね。もちろん自分が弱いのはその通りなんですが、今日のイエスさまのお話しでは、もう一つ理由があるということになります。それは、わたしたちが御言葉を聞いても、それが根を張る前に取って行ってしまう者がいるということです。それがサタンです。鳥が道ばたに落ちた種を探しているように、サタンがいつも狙っているということです。だから御言葉が私たちの心にとどまらない。そうすると私たちはどうしたらよいか。イエス・キリストの名によって、サタンにどこかに行くように命じる。あるいは、聖霊にお願いして、私たちが御言葉を心に留めることができるように助けてもらうことです。聖書を読むときも、聖霊の助けを求めながら読むんです。そうして、サタンに御言葉の種を奪われないようにしていただく。自分の力では無理ですから、聖霊の助けをいただくんです。
 石だらけの土地に落ちた種の場合も、茨の中に落ちた種についても、これはいずれも私たちも直面する課題です。艱難や迫害、今もそうですね。コロナウィルスによって、私たちも教会も試練に直面しています。不安になってしまって、いても立ってもいられなくなる。御言葉が力のないもののように思えてくる。
 しかし、このようなときこそ、みことばに耳を傾け、それを受け入れたい。23節に、「良い土地に蒔かれたものとは御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである」と言われています。
 先ほど、当時は生産性が低く、品種改良がなされていなくて、豊作でもせいぜい30倍の実を結ぶだけで、60倍、100倍なんてあり得ないと申し上げましたが、そのあり得ないほどの実を結んだということです。すなわち、神のみことばは、人間の常識を超えた豊かな豊かな実を結ぶという、驚くべき約束が語られているんです。
 
    種を蒔く方
 
 このたとえ話の、もう一つのおかしな点として、貴重な種が道ばたや石地や茨の中にも落ちたなんて、なんて無造作な種まきだ、あり得ない!‥‥と、当時の人は思っただろうと申しました。たしかにそのとおり、この種を蒔く人は、あまりにももったいなく無造作に種を蒔いているように見える。あり得ません。そう思う。
 では、この種を蒔く人とは、誰のことをたとえているのでしょうか?‥‥18節をもう一度見てみましょう。イエスさまは、「種を蒔く人のたとえ」とおっしゃっていますね。「種まきのたとえ」とは言っておられません。「種を蒔く人」のたとえです。種を蒔く人のことを強調しておられる。そうするとこれは、神さま、イエスさまのことを指していると言わなければならないでしょう。イエスさまが、神のみことばの種を蒔く。そのイエスさまが、無造作に種を蒔いているように見えるんです。なんで道ばたに落ちるように蒔くのか?なんで石だらけの土地に落ちるように蒔くのか?なんで茨の中に落ちるように蒔くのか?‥‥そんな無造作な、ムダな蒔き方をする人がいるはずがない。そう思われる。
 しかし、そのおかしな点に神さまの恵みがあらわされているとすれば、その無造作な、ムダとも思える種の蒔き方にこそ、神の恵みが隠されているはずです。私たちは、「たまたま」道ばたや石地や茨の間に種が落ちたように思い込んでしまいますが、本当はそうではないかもしれない。わざとそれらの土地にまかれたかも知れないんです。
 自分自身を振り返ってみました。そうすると、幼い頃から高校生の時まで教会に通っていたのがわたしです。それこそ、聖書の言葉を礼拝で聞いていたはずです。ところが結局大学生になって教会を離れてしまった。神さまのことも信じなくなってしまいました。そうすると、それまで蒔かれていた御言葉の種は、全くムダであったように見えます。まさに私は、道ばたに落ちた種のようであり、また茨の間に落ちた種のごとくでした。しかし、後にキリストと出会うことになりました。そうして教会に戻るに至りました。
 なぜ再び教会に、すなわち神さまのところに戻ることができたかと言えば、それは言ってみれば、神さまが、ムダだと分かっているような土地に種を蒔き続けてくださったからだとも言えるわけです。神さまが、無造作に、この不毛な私という土地に種を蒔いてくださった。そのことがあって、やがて御言葉が心に染み入る時が与えられたんです。
 神さまは損得抜きです。私たちに対して、いつも御言葉の種を蒔いてくださる。それはムダであり、不毛なことのように見える。しかし神さまは、蒔き続けてくださる。そこに神の愛が表れています。


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