2020年3月22日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 詩編133編
    マタイによる福音書12章46〜50節
●説教 「キリストの兄弟になる」

 
    新型コロナ・ウィルス禍の中で
 
 新型コロナ・ウィルスの感染は、今やヨーロッパ、アメリカで拡大し、各国で移動制限や外出禁止措置がなされるという事態になりました。戦争の時を除いては、前代未聞の危機に直面していると言えるでしょう。各国の指導者たちも、感染阻止のためにどのような措置をとり、そしてどのように国民を誘導するのか、目が離せないところです。
 そのような中で、ドイツのメルケル首相が国民に呼びかけた演説が、一部で注目を集めています。私はドイツ語が分かりませんので、翻訳を読んでみました。ドイツのメルケル首相は、かつての東ドイツ出身の人です。そして彼女はその牧師の娘として育ちました。東西ドイツが統一する前、東ドイツは独裁政権のもとにありました。ですから、教会も監視下に置かれ、不自由な状況にありました。メルケルさんはそういうことを経験し、ドイツ統一後は政治活動に入り、キリスト起用民主同盟の党首となり、今はドイツの首相を務めています。
 そのメルケルさんが、先週、ドイツ国民に対して異例のテレビ演説をしました。その演説は、各国の指導者たちが国民に対して出したメッセージに比べて、かなり違うという印象を持ちました。メルケルさんは、今直面している新型コロナウィルスの問題が、第二次世界大戦以来の危機であることを認めた上で、かつての東ドイツの独裁政権時の自由が奪われた時代を念頭に置きつつ、しかし今回は移動の自由などを制限せざるを得ないことに国民の理解を求めました。そして、食料品などは確保されるので、買いだめ行為に走らないよう訴え、いっぽうでスーパーのレジ係の人、商品棚に陳列する仕事をしている人などの労をねぎらい、感謝を述べています。
 そして、このウィルスに対抗する策として、「思いやり」という言葉を使っていました。相手を思いやって距離を取る、とくにお年寄りは感染に弱いので、お孫さんはおじいちゃんおばあちゃんを思いやって、おじいちゃんおばあちゃんの家を訪ねない。しかし別の方法で、インターネットを使って、あるいは手紙を書くことによって、思いやりを示す。そういうことをしようではないかというのです。自分で買い物に行くことができない近所のお年寄りのために、助け合うことも例に挙げています。そして最後はこのように結んでいました。‥‥「たとえ今まで一度もこのようなことを経験したことがなくても、私たちは、思いやりを持って理性的に行動し、それによって命を救うことを示さなければなりません。それは、一人一人例外なく、つまり私たち全員にかかっているのです。 皆様、ご自愛ください、そして愛する人たちを守ってください。ありがとうございました。」 (Mikakoドイツ語サービス)
 また、先週は、日本の山梨県の中学1年生が、手作りのマスク600枚を県に寄付をしたというすばらしいニュースもありました。この女の子は、お年寄りがマスクを買い求めて何軒ものお店を回る姿を見て、2月26日から母親のアドバイスを受けながら、布のマスクをミシンをかけて600枚作ったそうです。材料費は、この子が幼い頃から一度も使わずに貯めてきたお年玉を使ってまかなったそうです。そうして県知事に渡したそうです。このような子がいるということに、私は心を打たれました。
 たしかに今回のウィルス感染問題は困難な試練であるでしょう。世の中が、ギスギスしているように見えます。しかし、そのような中でこそ、思いやりの心は大切であることを教えてくれています。
 
    イエスに面会を求めてきた家族
 
 本日の聖書箇所では、イエスさまの家族がイエスさまに会いに来たということが書かれています。イエスさまが、おおぜいの人々にお話しをなさっているときに、イエスさまのお母様と兄弟たちが話したいことがあって来た。それである人がイエスさまに、「ご覧なさい。母上とご兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と告げたということが、最初に書かれています。
 イエスさまのお母様とはもちろんマリア様のことであり、兄弟たちというのは、このマタイによる福音書の13章55節に名前が記されていますが、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという人たちです。クリスマスの物語が書いていますように、イエスさまが聖霊によって母マリアからお生まれになりましたので、この兄弟たちというのは皆イエスさまの弟たちということになります。また、イエスさまの地上の父であるヨセフの名前がありませんが、すでに他界していたと言われています。
 そのイエスさまの肉親が、イエスさまと話しをするために来たという。家族総出でといってもいいでしょう、そのようにしてイエスさまと話しをするために来たというのは、何か物々しい感じがします。いったい何を話しに来たのでしょうか。
 このマタイによる福音書には書かれていませんが、同じ時のことを書いていると思われるマルコによる福音書3章21〜22節を見ますと、"「あの男は気が変になっている」と言われて身内の者が取り押さえに来た"‥‥と書かれています。イエスがおかしくなってしまったと言われて、取り押さえに来た。どうして気が変になっていると言われたのかということですが、それはやはり今読んでいるこのマタイによる福音書の個所の少し前、12章22節からの「ベルゼブル論争」と見出しに書かれている個所と関係があるでしょう。そこでは、イエスさまのことを苦々しく思うファリサイ派の人々が、イエスさまについて、「悪霊の頭ベルゼブル」の力によって悪霊を追い出していると言っています。つまり、イエスさまのなさる癒やしの奇跡は、神の力による奇跡ではなくて、悪霊によるものであると言ったわけです。ファリサイ派と言えば、人々に神さまの掟を教える先生たちですから、その人たちが「イエスは悪霊の頭ベルゼブル」の力を用いていると言えば、イエスさまのお母様と兄弟たちは「これはたいへんなことになった」と思って、イエスさまを連れ戻すために来たのだと考えられます。
 
    冷たいイエスさま?
 
 そうするとイエスさまは、話しを中断して家族の所に行ったのかと思いきや、そうではありませんでした。イエスさまは「私の母とはだれか。私の兄弟とは誰か」とおっしゃり、さらに弟子たちのほうを指して「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。‥‥」とおっしゃったのです。
 いかがでしょうか。もし仮に、私たちがイエスさまのお母様であるマリア様だったとしたらどうでしょう。イエスさまのことを心配して行ったところ、イエスさまがそのようにおっしゃったとしたら。マリアにしてみたら、自分が本当の母ではなく、イエスさまの弟子の中に本当の母がいると言っているような、何か親子の縁を切られたようなことを言われたように思わないでしょうか。イエスさまにとっては、本当の肉親である家族はどうでもよいと考えておられたのでしょうか?
 しかし、聖書を読むと、そうではないことが分かります。このあとのほうの15章4節では、旧約聖書の十戒の掟の一つである「父と母を敬え」という戒めを引用なさっています。また、ヨハネによる福音書19章の十字架の場面では、十字架にはりつけにされたイエスさまが、十字架の下で見守っているお母様の今後のことを、愛する弟子にゆだねられたことが書かれています。「見なさい、あなたの母です」と言って。ですから、イエスさまは、肉親などどうでもよいと考えておられたのではありません。
 
    弟子たちに語られたみことば
 
 今日のイエスさまの言葉は、肉親に対して語られた言葉というよりも、イエスさまの言葉を聞くために集まっていた人々に対して語られている言葉だと言えます。イエスさまの後についてきている弟子たち、そしてイエスさまの言葉を求めてきているその他の人々にとっては、これらのイエスさまの言葉は、すばらしい感激をもって受け止められたと思います。
 なぜなら、イエスさまは、ここでイエスさまの弟子たちとイエスさまのつながりは、まさにイエスさまの母または兄弟と言えるほどに、すなわち家族と言えるほどに強いということをおっしゃっているからです。
 
    血のつながりが最強
 
 肉親、すなわち血のつながりというものは、理屈を超えたところがあります。家族というものは、とくにその家族に産まれた子供というものは、自分で選ぶことができないわけですから、運命的なところがあります。どんなに他人の家族をうらやんで、あんな家族の一員として生まれたかったと思っても、どうするこもできません。それは他人のつけいる余地のないものです。
 私は、前任地にいるときに、あるご婦人の成年後見人、正確には成年後見制度の補助人というものを務めたことがあります。その方は独り暮らしの教会員でした。しかし、ある訪問販売の詐欺的な商法に引っかかってしまい、多くのローンを抱えることになりました。それを、たまたま彼女に関わっていた社会福祉協議会の人が発見し、今後このようなことを防ぐためには成年後見人を付けるしかないと考えたわけです。そして彼女にはお子さんがいらっしゃらない。いるのは甥御さん姪御さんだけなのですが、もうずいぶん昔に縁を切ったという。それで社会福祉協議会の人は、彼女が信頼している教会の牧師ということで、私に補助人になるように頼んできたんです。成年後見制度という者が良く分かっていなかった私は、それを引き受けたんですが、これが引き受けたところたいへんなんですね。はっきり言って、家族の代わりを務めるようなものでした。もちろん、そういう事情でしたから無報酬で引き受けました。しかし、妻や教会員の協力がなければ務まるものではありませんでした。
 そのような詳しいことは省略いたしますが、その後彼女は独り暮らしが困難になり、特別養護老人ホームに入りました。その世話や手続きもいたしました。それからのサポートもいたしました。そして最後は容態が悪くなって、病院に入院しました。その手続きもしました。そこまではまさに家族がするのと同じことをしてきました。そして亡くなりました。すると亡くなった瞬間から、もう成年後見人がすることはないんですね。といいますか、関わることができない。どんなにそれまで家族同然のことをしてきても、亡くなった瞬間、もう完全な他人となるんです。そこから先は、彼女が昔縁を切ったという甥御さん、姪御さんにすべてをお任せすることとなりました。私は、血のつながりというものは、こういうものなんだなあ‥‥ということをつくづく思いました。
 血のつながりというものだけは、どうすることもできないんです。
 またそういったものが利用されることもあります。血のつながりの大きな集団が民族であると言えるでしょう。そして、民族というものを利用して戦争を起こす。「民族浄化」という言葉をお聞きになったことがあると思いますが、浄化なんて言いますと何かと思いますが、要するに敵対する民族を殲滅するという話しです。たとえば、ヒトラーがやった、ユダヤ人抹殺政策はそれです。ゲルマン人至上主義を取り、ユダヤ人を殲滅しようとしました。血のつながりを利用すると、人々を動員するのに一番手っ取り早いわけです。
 
    イエスの家族
 
 そのような目で今日のできごとを見ますと、そういうものを超えてしまっているのが分かります。弟子たちのほうを指して「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる」とおっしゃっている。そこは血のつながりを超えてしまっています。
 しかも、先ほど述べましたように、実の親であるとか兄弟であるとかはもうどうでもよいというのでもない。そちらも神が与えてくださった家族という点で、大事なものには違いない。しかし同じように、このイエスさまの弟子たちも母であり兄弟であると言われるんです。
 ここで使われている「弟子」という言葉ですが、それは「学ぶ者」という意味の言葉です。イエスさまに学ぶ者、そのみことばに耳を傾ける者です。それはなにか、特別な人というのではありません。もちろん、社会的地位があるということでもなく、何か立派なことをしたというのでもありません。とくに善行に励んだというわけでもなく、とくに良い人というのでもありません。そこには、そのようなことはいっさい関係がありません。そこに集まっているのは、ただイエスさまのみことばに耳を傾ける人であり、イエスさまについて来ている人です。
 そういう人たちを指して、イエスさまは、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われるんです。「誰でも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」とおっしゃいます。ここで、父なる神さまの御心が何であるかが分かります。それは、イエスさまに聞き従う人であり、イエスさまのみことばに耳を傾ける人です。
 それ以外のことは問われていません。家族というものはかけがえのないものです。イエスさまから見たら、私たちはかけがえのない家族だということです。つたなくても良い、立派でなくても良い、失敗ばかりしていても良い、そばにいてほしいとおっしゃるのです。かけがえのないものだ、他の何にも代え難いものだ、とおっしゃっているに等しいということです。
 教会では、教会員がお互いのことを兄弟姉妹と呼んでいます。これはもちろん、イエスさまにとって、イエスさまの弟子が兄弟姉妹であることから来ています。イエスさまあっての兄弟姉妹です。イエスさまが私たちを愛して、十字架にかかって、命を捨ててくださったことを信じる。そのことに基づく兄弟姉妹です。わたしたちの間にイエスさまがおられる。このことを心に留めたいと思います。


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