2020年3月15日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 列王記上18章21
    マタイによる福音書12章43〜45
●説教 「空き家の住人」

 
    たとえ話の始まり
 
 本日のイエスさまのお話しは、いわゆる「イエスさまのたとえ話」であると言えるでしょう。次の13章に入ってから、イエスさまのたとえ話がいくつも登場することになるのですが、今日のお話はその先駆けとも言えます。
 イエスさまは多くのたとえ話をなさいました。それは天の国、神さまのことを教えるためになさいました。なぜたとえで話されるかということについては、イエスさま御自身が語っている個所があるんですが、他にも、たとえでしか語ることができないという面もあると思います。まだ見たことのないところ、行ったことのない場所について、「それはどんなところ?」と尋ねられたら、たとえで語るのが一番わかりやすいと思うんです。たとえば「ガリラヤ湖って、どんな湖ですか?」と聞かれたら、私は「日本の琵琶湖の岸に立ったような感じ」と答えるでしょう。
 それはともかく、イエスさまは、天の国や神さまのことを私たちに教えるために、たとえで話しをなさいました。さて、今日のたとえ話はと申しますと、これは天の国や神さまのことをお話しなさったのではなく、「汚れた霊」が主人公となって語られています。
 
    「汚れた霊」
 
 さて、汚れた霊とは何かということですが、まずこの言葉が出てくるたびに申し上げているように思うんですが、日本語の聖書が「汚れた」と訳しているこの漢字は正確ではないんですね。間違いとは言いませんが、この漢字を使うとどうしても外見的に「よごれた」という印象になるからです。この霊は、汚(よご)れているということではありません。宗教的な意味でのけがれなんです。そうすると日本語には、ちゃんと「穢(けが)れた」という字があるわけですから、こちらの穢れたという字を使うほうが正確ですし、日本人にはすぐ分かります。
 またその字にすると、穢れた霊の性格をよく表すことができるんです。聖書にはもう一つ、悪霊という言い方が出てきます。悪霊も穢れた霊も同じものを指しています。ただ、穢れと言った場合はレビ記によく出てくる言葉です。これは日本の神道でも同じなんですが、旧約聖書でも、穢れると神さまに近づくことができないんですね。穢れた人は、清めないと神さまに近づくことができない。それが宗教的な穢れです。ですから、穢れた霊の役割も、人間を神さまから引き離すところにあります。悪霊がサタンの配下であるわけですし、サタンは創世記の第3章の蛇があらわしているように、人間が神を信じなくなるように仕向けるのが仕事です。
 
    けがれた霊が出ていく
 
 今日のイエスさまのたとえ話では、その穢れた霊が、まず人から出ていくところから始まっています。悪霊が出ていくというのはまことにけっこうなことです。イエスさま御自身が、悪霊に苦しむ人々から悪霊を追い出してこられました。しかし今日の話は、悪霊である穢れた霊が出ていくだけで終わっていません。出ていった霊が、また戻ってくるんです。つまり、悪霊が出ていった後が問題であるということです。
 穢れた霊が人から出ていって、砂漠をうろついて休む場所を捜した。しかし見つからなかったという。それは砂漠だから当たり前だろうと、聞いている人たちは思ったことでしょう。つまり、悪霊というのは人を惑わして神から離れさせるのが目的なんですから、人間の住んでいない砂漠には用がないんですね。ですからここは、あくまでも人がターゲットであるということを強調している言い方だと言うことができます。
 
    けがれた霊が戻ってくる
 
 それで穢れた霊は、「出てきた我が家に戻ろう」という。「我が家」という表現がおもしろいですね。この我が家というのは、もちろん人間のことです。穢れた霊・悪霊が人間を内部からそそのかして、神を信じなくさせることがよく表れている表現です。
 そうして、最初出て行った人のところに戻って見ると、「空き家になっており、掃除をして、整えられていた」という。この「整えられていた」という言葉は、ギリシャ語では「整頓されていた」とか「飾り付けられていた」という意味があります。つまり、掃除がしてある上に、お客さんを迎えるように片付いていたというんです。
 私の教会の牧師室をふだんごらんになったことがある方は、ふだんどういう状態かお分かりかと思いますが、およそ片づいているというのとは正反対です。それでも客人が来るということになると、あわてて片付けます。片付けると言うよりも、テーブルの上においてあった書類とかそういうものを、デスクの上に移すだけなんですが‥‥。
 このたとえ話の場合は、空き家になっていて、掃除がしてある上に、片付いており、飾り付けまでしてあった。すなわち、「どうぞお入りになってご自由にお使いください」と、貸別荘かコテージのような状態になっていたというんです。これが、ある人の状態だという。そう言われますと、「そんなばかな」と思いませんか? 「いくらなんでも、穢れた霊をそんなふうに歓迎する人なんか、いるはずがない」と思われるでしょう。
 しかしそこが肝心なところです。イエスさまのたとえ話というのは、たいてい、「そんなばかな」とか「おかしいぞ?」というところがあるんです。そしてそこにイエスさまの言いたいことがある。
 空き家になっていて、掃除がしてあり、どうぞご自由にお使いくださいと悪霊を歓迎していたなんて、そんなバカなことがあるはずがないと私たちは思います。だいたいその空き家というのは人間のことなんだから、空き家であるはずがない、と。しかしいくらその当の本人がいても、心の中の状態は、魂の状態は、空き家同然であるということです。本人がそんなつもりではなくても、空き家であるということ。それで、その穢れた霊は自分よりも悪い他の7つの霊をいっしょに連れてきて中に入り込んで住み着き、その人の後の状態は前よりも悪くなる。
 
    前よりも悪くなる
 
 前よりも悪くなる。今の時代もそういうところがあるように思います。昔の日本は信心深い国だった。もちろんそれはキリスト教では無いわけですが、明治になって外国の宣教師が日本にやって来た時に、日本人が信心深い民族なので驚いたという記述があります。しかし今はどうでしょう。日本はまるで無宗教の国のようです。戦後になって、自由になって、経済発展したのは良かったのでしょうが、実に殺伐とした時代になりました。自分さえ良ければそれで良い、助け合うこともしない、見て見ぬふりをする、そういう風潮がますます強まっているように思われます。空き家になっているんです。空き家になると、そこに悪い者が入り込んでくるんです。そして前よりも悪くなる。
 私はこのようなことをいい気になって言うつもりはありません。なぜなら、私自身がそうだったからです。大学生の時、神を捨て教会を離れた私は、自由になったと、その時は思いました。しかしそうではなかった。空き家になって、飾り付けをして、悪霊に対して「どうぞご自由にお住みください」という状態になっていたということが、後になってイエスさまを信じるようになって分かりました。神を捨て、神から自由になったと思った若き日の私は、まことに自分勝手の極みでありました。人を人とも思わない、規則も法律もなんのその、人が悲しもうが苦しもうが知ったことではないという状態でした。今振り返ると、赤面する思いです。
 空き家になっていて、掃除がしてある上に、飾り付けまでしてあって、悪霊を歓迎していたんです。確実に、前よりも悪くなりました。
 
    聖霊に住んでいただく
 
 このたとえ話で、穢れた霊はなぜ家に入ってきたんでしょうか?‥‥それは、空き家だから入ってきたんです。私の家なのに、私は住人ではないという。つまり、私たちでは穢れた霊に対してなすすべがないということです。穢れた霊、悪霊がしほうだいするしかない。自分は悪くなる一方です。どうしたらよいのか?‥‥空き家にしておかないことです。すなわちそれは、聖霊に住んでいただくしかない。聖霊なる神さまに住んでいただくほかはないということです。聖書に、次のような言葉があります。
(Tコリント 6:19)「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」
 ここでは、私たち自身が聖霊が宿ってくださる神殿であると言われています。神殿というと何か大げさな感じがしますが、要するに空き家ではなく聖霊が住まわれるということです。
 最初に申し上げたように、悪霊・穢れた霊の目的は、私たち人間を神から引き離すことにあります。神を信じないように、神の言葉を信じないようにさせる、そこに悪霊の目的があります。なのに聖霊が住んでしまったら、もう悪霊はどうすることもできません。神から引き離そうとしても、聖霊御自身が神ですから、もはや穢れた霊はどうすることもできないんです。ここに、唯一の解決があります。
 
    聖霊が住んでくださる
 
 しかしもう一つの疑問は、「その聖霊は、私のような者の所に来てくださるのだろうか?」ということです。「この私のような、清くない、穢れた者であり、掃除がしてある上に飾り付けがしてあるどころか、神さまに対しては、物が散らかっている上にホコリがかぶり、ゴミがごった返しているような私のところに、本当に来てくださるのだろうか?」‥‥と思わずにおれません。
 しかし、そんな私のところに来てくださったんです。何よりも、私たちの主が、どこにお生まれになったかを思い起こさなければなりません。
(ルカ2:6〜7)"ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。"
 私たちの主イエスさまは、馬小屋の飼い葉桶の中に生まれた方です。どんなところにでも来てくださる方です。馬小屋の中にお生まれになったイエスさまは、私たちのところにも来てくださいます。
(黙示録 3:20)"見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。"
 私たちがお招きするまでもなく、主イエスがすでに私たち一人一人の家の戸口に来てくださっていて、その玄関の扉をたたいていてくださっている。私たちはただ、お迎えすれば良いんです。主をお迎えする。そして、日々、主のみことばに耳を傾け、主を賛美しながら歩んでまいりたいと思います。


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