2020年3月8日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 ヨナ書3章4〜10節
    マタイによる福音書12章38〜42節
●説教 「証拠としての十字架」
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    新型コロナウィルス問題とキリスト者
 
 マスクがほしくてもマスクがない。どこにも売っていない。ドラッグストアにはマスクを求めて行列ができている‥‥。今、世間はそういう状況ですが、心配は要りません。この私がしているマスクは、ハンカチを折りたたんで作った「ハンカチマスク」です。インターネットで紹介しているのを見つけて、作ってみました。まことに簡単です。教会のロビーの掲示板にも作り方を掲示しておきましたので、どうぞ参考になさってください。そちらのものは、大きめのハンカチを四つに折って作っていますが、私のはもう少し小さめのハンカチを3つに折って作っています。縫う必要もなく、折りたたんでゴムをはさんで耳にかけるだけです。これは柄のあるハンカチを使っていますので、こんな感じになっていますが、かえっておしゃれかも知れません。最も私がすると、おしゃれには見えないと思いますが。使い心地は十分です。
 今、新型コロナウィルスで、世界中が不安と恐怖の中に置かれています。世界中が、少しヒステリックな状態となっています。嫌なニュースが飛びこんできます。あるヨーロッパの国で、アジア人が「コロナウィルス要らない」と言って暴行されたとか、日本食レストランがいやがらせの落書きをされるとか、ニューヨークでも日本人が「コロナ、この国から出て行け」と罵声を浴びせられたとか‥‥。日本でも、電車の中で咳をしたらケンカになったとか、マスクを買う行列に割り込む人がいてケンカになったとか‥‥そんなニュースが連日のように流れてきます。危機の時に、人間の本性が現れてまいります。それをまざまざと見せつけられているのが、現在の世の中です。
 このようなとき、私たちクリスチャンは何ができるのか? 私たちは主を信じる者として、何ができるのでしょうか? 集会をしない、人混みの中に行かない、感染者に対して迫害をしない、買い占めをしない‥‥といった、何かをしないということも大切には違いありませんが、何ができるのかということです。
 そうしましたら、先週ツイッターを見ておりましたら、ある女性牧師が次のようなことを書き込んでおられました。‥‥「昨日、どうしてもマスクが必要な方へ、週報と一緒に家にある最後のマスクを同封して送ったら、先程、違う方からマスクが届いた。『与えなさい。そうすれば与えられる。』って感じ。」
 すばらしいですね!なけなしの1枚を差し上げたことによって、主が与えてくださったという証しが生まれています。このことは、私たちに大切なことを教えてくれます。
 
    東日本大震災から9年
 
 また、今週の3月11日は、東日本大震災発生から9年目となる日です。水曜日の聖書を学び祈る会は、ただ今休止しておりますが、それぞれの場で被災地のために、そして被災地にある教会のために祈りたいと思います。
 
    しるし
 
 きょうの聖書に入ります。きょうの聖書箇所では、律法学者とファリサイ派の人々が、イエスさまに「先生、しるしを見せてください」と言ったことが書かれています。
 「しるしを見せてください」、この「しるし」とは証拠という意味で、彼らは、イエスさまがメシア(救い主)である証拠を見せろと要求しているんです。旧約聖書において神さまが、この世に遣わすと約束された救い主メシア。あなたがメシアではないかと民衆が言い始めている。ならばメシアである証拠を見せてほしいと言っているんです。
 そうしますと、私たちは不思議に思うのではないでしょうか。なぜなら、今までイエスさまは、人々の間で、多くの病気の人を癒されたり、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出したり、盲人の目を見えるようになさったりしてこられたからです。それは奇跡です。それらの奇跡は、イエスさまが救い主であることの「しるし」に違いないと私たちは思う。しかし、律法学者とファリサイ派の人々にとっては、それは「しるし」ではなかった。では彼らにとっては、何が「しるし」になるというのでしょうか?‥‥結局は、彼らが願うとおりのことをしないと、それは救い主であるしるしにはならないということになってしまいます。自分たちが思い描いたとおりでないと、救い主としては認めない。それは、言ってみれば、神様に対して、自分たちの要求を突きつけるようなものです。
 このことは、私たちにとっても他人事ではありません。私たちも、自分の思い通りのことを神さまに要求していないでしょうか。そういうことを思います。
 
    三日三晩の予告
 
 さて、それに対してイエスさまは、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」とおっしゃいました。
 ヨナというのは旧約聖書に「ヨナ書」という文書がありますが、その中の登場人物です。短くて、しかもたいへん面白く読みやすいので、まだ読んだことのない方はぜひ読んでください。その物語を説明すると長くなるので、割愛いたします。とにかく、ヨナは海に投げ込まれました。しかし主が大きな魚に命じて、ヨナを飲み込ませ、死を免れたんです。ヨナはその大きな魚の腹の中で三日三晩過ごしました。そして、そこで悔い改めると共に主を賛美しました。そして主は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させました。それでヨナは、行きたくなかったアッシリア帝国の首都ニネベの町に行き、先ほど読みましたとおり、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と、主の預言の言葉を叫んで回りました。そうすると、意外にも、この異邦人の大都市ニネベの町の人々はそれを聞いて悔い改め、ニネベの王に至るまで悔い改めて、断食をしました。‥‥というのが、ヨナ書のおもな部分の物語です。
 三日三晩というのは聖書の言い方で、日本流に言うと足かけ3日というのが正確な言い方です。いずれにしろ、そのようにヨナが海の中を泳ぐ大魚の腹の中で三日間過ごしたように、人の子、すなわちイエスさまも三日間「大地の中にいることになる」と言われました。この「大地の中」というのは、死後の世界である陰府のことです。昔の人は、陰府の国というのは地下深くにあると思っていて、イエスさまもそれに合わせておっしゃっているんです。つまり、やがてイエスさまも陰府に三日間いることになるのだと、予告されているわけです。それが「しるし」であると言われます。
 すなわち、死んで陰府に行くことが、救い主であるしるしであるという。私たちはイエスさまの生涯がどうなるかしっていますから、「ああ、これは十字架にかかって死なれることなんだなあ」と思いますが、これを聞いていた人は、何を言っているんだかさっぱり分からなかったでしょう。ここでイエスさまは、死んで陰府に行くことがしるしだとはおっしゃっていますけれども、よみがえり、つまり復活のことはひと言もおっしゃっていない。これは注目すべきことです。もちろん、私たちはやがてイエスさまが十字架につけられて死に、墓に葬られて3日目によみがえられたことを知っているわけですがここには何も言われていません。ただ、三日三晩陰府にいることが言われているのみです。
 すなわち、死んで陰府に行くことが「しるし」であると強調されている。なぜそれがしるしとなるのか? それは、何のために十字架で死なれるのか? 誰のために十字架で死なれるのか?‥‥そのことを考えたときに、私たちは、イエスさまがご自分の命と引き換えにして、私たちを救う。それが十字架の意味であったことを思い出すことができます。イエスさまが、私たちに代わって死なれ、私たちに変わって陰府に行ってくださった。私たちを救うために。
 これこそが、本当の救い主であるしるしであるに違いありません。それは同時に、神の愛のしるしです。イエスさまが、私たちのために命を捨ててくださったんです。そのことが、「三日三晩大地の中にいることになる」ということの意味であります。
 
    ニネベとシェバの女王
 
 ヨナが主の言葉を告げて回ったニネベは、異教徒の国アッシリアの首都でした。しかしヨナが主の言葉を語って回ったとき、そこの人々は皆悔い改めて主を信じました。ヨナが語る言葉を、主なる神さまの言葉であると認め、悔い改めたんです。「ここに、ヨナにまさるものがある」とイエスさまがおっしゃっていますが、ヨナにまさる者とは、イエスさまのことです。預言者であるヨナの言葉を聞いて、ニネベの町の人々が悔い改めたのなら、そのヨナにまさる者の言葉をどうして聞かないのか? どうして悔い改めないのか?‥‥と。そのようにイエスさまはおっしゃりたいんです。
 42節では、「南の国の女王」のことを例に出しておられます。これはシェバの女王のことで、旧約聖書の列王記上10章に出てくる出来事です。アフリカのシェバの国から女王が、イスラエルの王ソロモンに会いに来た。それはソロモン自身に会いたいから来たのではなく、主がソロモンに与えた知恵を確かめるために来たんです。言い換えれば、神の知恵を求めてきたと言えます。そのために遠路はるばるアフリカからやって来た。そのソロモンにまさる者とは、やはりイエスさま御自身のことです。異邦人の女王が、はるばる神の知恵を聞くためにソロモン王の所にやって来たのなら、なぜあなたがたは、それにまさるものに神の言葉を、そして神の知恵を求めないのかと言っておられるんです。
 そのように、私たちを救うために、自らの命を捨てて陰府に行かれるほどに私たちを愛してくださるお方を求めること、悔い改めて主を求めることへと招いておられるのです。
 
    悔い改めて求める
 
 聖書では、悔い改めるということは、自分が罪人であることを知ることであり、神を求めるようになることを言います。
 チイロバ牧師こと、榎本保郎先生の書かれた自伝である『ちいろば』の中に書かれている出来事ですが、終戦後、同志社大学神学部の学生として復帰した榎本先生は、京都市内のある教会に下宿することになりました。その教会は小さな教会で、牧師先生ご一家も貧しく、生活もたいへんだったようです。昭和22年、日本中が物資が不足して、食べるものも満足になく配給制だった頃のある日、起こった出来事をきっかけに、その牧師から「君はまだ罪が分かっていない。罪意識のない者は福音を理解することはできない」と言われたそうです。榎本先生は、眠れぬ夜を過ごし、翌日牧師に、「罪が分かっていないとはどういうことですか。自分は罪が分かっているつもりです。キリストが私たちの罪のために十字架の贖いの死を遂げてくださったことを喜び感謝しているからこそ、私は献身したのです」と言った。すると牧師は、「君が罪が分かっていないといったのは間違いだった。すまん。正確に言うと、君は罪が分かっているが罪にもだえていないと言うことだなあ。いいかえれば、君は罪という概念は理解しているかもしれんが、自分の罪が分かっていないとも言えるかな」と言ったそうです。
 さらに、「なぜ私が罪にもだえていないということがわかるのですか?」と尋ねると、「それは神が罪の悔い改めをしていないからだよ」との答え。「罪の悔い改めってどうすることですか」とさらに尋ねると、「それは自分の罪を全部告白することだよ」という。「誰に告白するのですか」と聞くと、「もちろん神さまに向かってだけれども、具体的には牧師や両親、その他自分の親しい人々に告白することだなあ」という。
 これには榎本先生も困って、毎日悩んだそうです。そしてある日、意を決して、「神さま、どんなことがあっても罪を告白します。どうぞ勇気を与えてください」と祈ったそうです。そうして、「神さま、神さま」と祈りながら、思い出せる様々な罪とけがれの一つ一つを書き記し、面と向かって告白するだけの勇気がないので、手紙で届けることにしたそうです。そうして、小さいときから今に至るまでの思い出せる罪と過ちの一つ一つを、どんなにそれが小さく、みんなが平気でやっているようなことであっても、みんな書き記したそうです。そして、その手紙を、両親宛、神学部長宛、そしてある姉妹あてに書いたそうです。そうすると、何枚か積み重なる便せんの厚さを見たとき、私のこの罪のために、主が十字架に就いてくださったのだという実感が湧き、感激の涙が目からあふれ出たそうです。先生は、「このときほど十字架を身近に感じたことはなかった」と書いています。
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 きょうの聖書で、イエスさまが「人の子も三日三晩大地の中にいることになる」とおっしゃいました。死んで墓の中にいる。誰もそんな目に会いたくありません。しかし、それが何のためであったかと言えば、この私の罪を赦すためであったという。私たちが自分自身の罪を思い起こしていったとき、このことがかけがえのない主の愛の出来事として私たちの前に迫ってきます。


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