2020年3月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 箴言13:2
    マタイによる福音書12:33〜37
●説教 「良い木と悪い木」
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    新型コロナウィルス感染問題
 
 今、世界は新型コロナウィルスによる肺炎の問題で大きく揺れています。この日本でも、総理大臣から、今週から全国の小学校・中学校・高校の一斉休校が要請されるという前例のないことがなされるなど、危機感を強めています。当教会でも、役員を中心にこのことを検討し、前例のない措置をとることといたしました。しかし、とにかく主のみことばに耳を傾けるこの礼拝につきましては、お伝えしております通り、プログラムを短縮して執り行うことといたしました。
 さっそくみことばに耳を傾けてまいりましょう。
 
    言葉についての裁き
 
 本日の聖書箇所は、まず最後の所から考えたいと思います。36節37節です。ここでは「裁きの日」という言葉が出ています。「裁きの日」、これは、いわゆる最後の審判の時のことです。すなわち、世の終わりの時の神の裁きのことです。たとえば、ヘブライ人への手紙9章27節にこのように書かれています。
(ヘブライ9:27〜28)"また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている‥‥"
 あるいはまた、イエスさま御自身がおっしゃっておられます。
(ヨハネ 5:29)"善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。"
 すなわち、死んだらそれで終わりではないということです。そのあとによみがえって、神のさばきを受けるということです。
 そうしますと、よく「死んだらどうせ終わりなんだから、生きているうちに好きなことをするに限る」というような言い方を聞くことがありますが、それはちょっと違っているということになります。生前の行いに応じて、神が裁かれるということですから、それは生きているときの生き方が問われることになります。
 よく、「世の中は不公平だ」という言葉を聞きます。「この世で贅沢三昧をし、人を人とも思わないで貧しい人を虐げて生き、そして最後は安らかに死ぬとは、世の中は不公平だ」というようなことも聞くことがあります。しかし、最後の審判について聖書が書いていることを読めば、決して不公平ではないことが分かります。神さまは公平な方です。
 ただし、神さまは公平ですが、それは私たちにとっても諸刃の剣となります。今日の36節でイエスさまが、「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」とおっしゃっているからです。
 私たちは、つまらない言葉を口にしなかったでしょうか? この「つまらない言葉」とは何かということが気になりますが、ギリシャ語では「むだな」とか「無益な」という意味の言葉です。そうするとますます私たちは、無益な、ムダな言葉を毎日毎日口にしているような気がいたします。
 私はいろいろな聖書日課のたぐいの本を持っているんですが、昨年末に、トルストイの『ことばの日めくり』(女子パウロ会刊)を買いました。トルストイと言えば、有名なロシアの文豪であり、キリスト教思想家ですが、なかなか面白いことばをたくさん残しています。先週の2月26日の所では、こんなことが書かれていました。‥‥「長い会話がすんだならば、そこで話されたことを全部思い出してみるように努めるがよい。そうすればそのうちの大部分が、いや場合によっては口に出されたすべてのことばが、いかに空虚で不必要なものであり、しばしば好ましくないものであったことに驚かされるに相違ない。口に出さなかったことを残念に思うことが一度あるとしたら、口をつぐんでいなかったことを残念に思うことは百度もあるに違いない。」
 なるほどそうだなあ、と思いました。つまらない言葉について、すべて神の裁きを受けることになる。そうすると、私たちは、数えきれないほどの罪を指摘され、断罪される他はないのであります。ただし、前回の所でイエスさまがおっしゃっていたように、聖霊に対する冒涜、聖霊に言い逆らう罪以外は、どんな罪でも悔い改めれば赦されますので、私たちはイエスさまの名によって赦していただくことができます。そして、赦されない罪、すなわち聖霊に言い逆らう罪というのは、罪の赦しを拒む罪であるということですから、私たちは、喜んでイエスさまによる罪の赦しを受け入れたいのです。
 さて、しかしきょうの聖書箇所でイエスさまがおっしゃりたいことは、私たちが口にすることばに気をつけなさい、ということなのでしょうか?
 
    木の良し悪しは実を見れば分かる
 
 それで、きょうの聖書箇所の最初のところ、33節に戻って見てみましょう。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」
 これは突然何をおっしゃっているのかと思いますが、次の34節を見ますと、「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである」とおっしゃっています。つまり、口から出る言葉は、心の中にあることが言葉となって出てくると言われる。それはその通りですね。心で思っていないのに、口だけが勝手に動いて他のことをしゃべると言うことはないでしょう。よく「心にもないお世辞を言う」などと言いますが、それは「ホンネと違うことを言う」ということであって、そのときの心の中には、「本当のことを言っても損であり、ここはほめておく方が得だ」という心があって、心にもないお世辞をいうと言うことになるわけで、やはりそこには打算という心があるわけです。つまり、イエスさまが指摘しておられるとおり、「人の口からは、心に溢れていることが出てくる」ということになります。
 この前の個所では、イエスさまが、悪霊に取りつかれて目が見えず口も利けない人をイエスさまが癒されたことについて、ファリサイ派の人々が、それは「悪霊の頭ベルゼブルの力によって」悪霊を追い出しているのだと言いました。そのことから今日の箇所は続いています。イエスさまが、聖霊によって悪霊を追い出しているのに、それを悪霊の業だという。そのような暴言を言うというのは、口だけが言っているのではなく、その心から生じていると指摘しておられるわけです。
 たしかにそのとおりでしょう。ファリサイ派の人々にとっては、その前から、安息日の問題をめぐってイエスさまに対する反発と殺意があったわけです。「イエスは安息日の掟を破っている」と決めつけていた。イエスは神の掟に背く者であり、神を冒涜する者であるという偏見が、すでに彼らの心の中にあったんです。ですから、たとえイエスさまが、悪霊に取りつかれて苦しんでいる人から悪霊を追い出して癒すという奇跡をなさったとしても、それが神の力、聖霊によってなされたことだとは思わない。悪霊の頭によるものだと、180度反対のことを言う。それは心の中にすでにイエスさまに対する憎しみがあって、それが口から出てきたわけです。
 たとえば、自分を省みるとどうでしょうか。誰かが同じことをしたとしても、自分が好きな人がした場合と、自分が嫌いな人がした場合とでは、受け取り方が全く違うのではないでしょうか。自分が嫌いな人が言ったりしたりしたことには、ケチを付けたくなる。それは心の中に、その人を拒絶する心がすでにあるからに違いありません。つまり心が悪いから、口から出てくる言葉も悪いと言うことになります。
 そうすると、「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」(33節)という言葉もそのことをたとえておっしゃっていることになるでしょう。木が良ければ良い実を結ぶし、木が悪ければ悪い実を結ぶ。
 私が子どものとき、柿の種を庭に植えました。柿の種とかびわの種って、土に埋めてみたくなるような大きさをしていますよね。柿の種を植えて、約8年。実がなりました。それを取って食べてみました。うまくありませんでした。種を植えて、接ぎ木をしないでそのままにしておいたからでしょう。その木に結んだ柿の実は、どれもうまくない。木が悪いんです。
 そのように、心が悪いから、口も悪い。つまらない言葉、空しい、無益な言葉が出てくるんです。
 
    心を変えて下さる方
 
 ですから、言葉を注意しても、心が悪いから悪い言葉が出てくる。どうしようもありません。がんばって、気をつけて、悪い言葉、無益な言葉を言わないようにしようと努力しても、木が悪いからどうしても悪い実を結ぶように、心が悪いから、どうしても悪い言葉、無益な言葉が出てくるんです。
 だから無益な言葉が出てこないようにするには、黙っているしかありません。しかし、ずっと黙って過ごすことはできません。きょうの聖書箇所でイエスさまがおっしゃりたいことは、黙っていろということではないでしょう。そうではなく、よい木になれば良いということです。良い木は、自然に良い実を結ぶからです。すなわち、心を変えるということです。
 私たちは、自分で自分の心を変えることは難しいんです。ほぼ不可能といって良いでしょう。どんなにがんばっても、自分の心を変えることは難しいんです。ではどうやって心を変えることができるかといったら、それは聖霊が私たちの心を変えることができる。神さまが変えることができるんです。
 聖書にはそのような例が出てきます。たとえば、使徒パウロ。彼はご承知のように、初めはキリスト教徒を激しく憎む人でした。教会を荒らし回り、キリスト信徒を縛り上げて牢に入れるような凶暴な男でした。ところが天から現れたキリストに出会い、キリストを信じる者となってからは、大きく変えられました。世界に出かけて行ってキリストの福音を説く伝道者となりました。そして、小アジアのリストラという町では、キリストを宣べ伝えるパウロに敵意を抱く人たちが、パウロに向かって石を投げつけ、パウロは倒れて死んでしまったかと思われたのですが、主が助けてくださり、パウロは何事もなかったかのように起き上がりました。以前の凶暴なパウロでしたら、復讐の塊となっていたことでしょう。しかしキリスト者となってからのパウロは、キリストのためにどんなことも耐え忍ぶような人になりました。
 私も牧師となってから、いろいろな人と出会い、見てきました。そういう中で、何人も大きく変えられた人を見てきました。人の悪口や陰口、噂話ばかりして、いつも眉間にシワを寄せたような恐い顔をしていた人が、キリスト信徒となってからは、全く穏やかな人になり、「感謝」という言葉を口にするようになった人も見ました。また、これは教会員であった人ですが、以前は小言や嫌みのようなことばかり言い、何人も傷つけた人が、やがて病気を通して全く変えられ、平安な顔になり、感謝ですということをいつも口にするようになり、みんなから頼られる人に帰られたという出来事も見てきました。私は、その人がキリストと出会う体験をしたのだと思っています。
 私たちは自分で自分を変えることができませんが、聖霊によって変えていただくことができます。聖書にこう書いてあります。
(ガラテヤ5:22-23)「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」
 聖霊が私たちの中で結ばせてくださる実です。ここに希望があります。
 私が若いときに出会った、尊敬するアメリカ人の宣教師の先生。その先生の言葉の一つ一つが、当時の私の心に大きな影響を与えました。まさに木が良いから、人を生かす良い言葉が出てくるのだと思います。その先生は、当時60歳ほどでした。今、私がその年齢になっているわけで、先生のことを思い出すと、自分はまだまだだと恥じる思いがいたしますが、その先生があるとき説教の中で語った言葉を忘れることはできません。
 日本語に堪能なお嬢さんの通訳でおっしゃった言葉はこうです。‥‥「私は、這って(キリストを)求めたくありません。歩いて求めたくありません。私は、走ってそれを求めたいんです。」
 20代だった私は、その言葉を聞いて大いに感動いたしました。「ああ、先生ほどの方でも、走って求めたいというほどにキリストを求めたいんだなあ」と。先生は、キリストを走って求めるほどに求めた人でした。そこに聖霊が働き、実を結んでいたのです。
 私たちも、這って求めるのではなく、歩いて求めるのでもなく、走ってキリストを求める者でありたいと願います。


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