2020年1月1日(水)逗子教会 元旦礼拝説教
●聖書 マルコによる福音書9章24
●説教 「不信の中の信」

 
 明けましておめでとうございます。今年も礼拝をもって新年を始めることができますことを、主に感謝いたします。
 
    ローズンゲンから
 
 今回の説教個所も、ローズンゲン(日々の聖句)から選ばせていただきました。
 「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9:24)
 この聖句は、私にとってたいへん思い出の深い聖句です。それは私が東京神学大学の神学生であった時にさかのぼります。通っておりました三鷹教会で、清水恵三牧師の本を買いました。『手さぐり聖書入門』という本で、マルコによる福音書の黙想を記したもの、というよりもほとんどマルコによる福音書の説教集と言うべきものです。この本は当時の私にとって、聖書の読み方について、非常に深い洞察を与えるものとなりました。そして牧師となってからも、繰り返し取り出しては参考にさせていただいたものです。
 さて、その本の裏表紙に、先生のサインと共に聖句が記してありました。それが今日の御言葉でした。それは口語訳聖書で、このような言葉になります。「信じます。不信仰なわたしをお助け下さい。」
 当時の私にとって、最初これは変わった御言葉を選んで書かれているな、と思われました。ふつうなら、多くの人が愛唱聖句として選ぶような有名な御言葉を選ぶのではないか。たとえば、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)のような御言葉です。しかしその本に手書きで先生が書かれた御言葉は、たしかに当時の私の頭のどこかに記憶があるみことばには違いありませんでしたが、意外な言葉を選ばれたなと思ったことは間違いありません。
 しかし、その後もキリスト者として歩んでいき、信仰生活が重ねられて行くに従って、やがてこの御言葉は、非常に尊い、そしてありがたい御言葉であることが分かってきました。そして、この御言葉が、うそ偽りのない、私たち自身の信仰の姿であると思うに至りました。それはまた、大げさではない、はったりもない、偽りもない、ありのままの自分をまるごとイエスさまにゆだねて歩んでおられた清水先生そのものの姿であり、私たち自身のあり方であろうと思います。
 
    ひとりの父親と息子
 
 この言葉は、悪霊に取りつかれた息子を持つ父親が発した言葉です。いきさつを簡単に見てみますと、悪霊に取りつかれ苦しんでいる息子の父親が、イエスさまの弟子たちのところにその息子を連れて来て、悪霊を追い出してもらおうとしたのでした。本当はイエスさまのところに連れて来たのでしょうが、そのときイエスさまはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて、高い山に登っておられたんです。いわゆる「山上の変貌」と呼ばれる出来事の時のことです。それでちょうどイエスさまはいなかった。それでイエスさまの弟子たちに、息子から悪霊を追い出してくれるようお願いした。ところが、弟子たちにはそれができなかったんです。
 
    イエスのところに
 
 そこにイエスさまが山から降りてこられた。それで父親は、ことのいきさつをイエスさまにお話ししたのでした。するとイエスさまは、「なんと信仰のない時代なのか」と言って嘆かれ、「その子をわたしのところに連れて来なさい」とおっしゃいました。
 なぜ弟子たちには、この子から悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか? 今毎週日曜日の朝の礼拝では、マタイによる福音書の説教をしておりますが、そちらの10章では、イエスさまが12使徒にけがれた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権能をお授けになったということが書かれていました。少し前にそのことを礼拝でも学びました。なのに、なぜ今回は悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか?
 それは、弟子たちに与えられた悪霊を追放し病を癒すという力は、永久に与えた力ではないということです。その時々に、イエスさまが与えられる力であると考えるべきです。また、弟子たちは何か高慢な心が生じていたのではないかと思います。「どれどれ、私たちが悪霊を追い出してあげよう」と。何か自分たちに常時そういう特殊な力が与えられたかのように、錯覚してしまったのではないか。それで思い上がってしまったのでしょう。
 イエスさまは、「その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)とおっしゃいました。弟子たちのところではダメだったんです。イエスさまのところに連れて行かなければならないんです。
 
    苦しみの核心
 
 人々がその息子をイエスさまのところに連れて来ました。すると、その子は倒れ、ひきつけを起こし、転がって泡を吹いたのでした。それでイエスさまは、「このようになったのは、いつごろからか?」と尋ねられました。すると父親は、「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」と答えました。
 幼い時からこのように苦しんできた。この息子が、この時何歳だったか書かれていないので分かりませんが、幼い時からずっとこのような状態だったというのは、どんなにつらく苦しい生活だったことでしょうか。むずかしい病気の子どもを持った親御さんなら皆経験されることですけれども、この父親もあちこちの医者に診せたことでしょう。といっても当時の医学というのはとても医学とは呼べないようなものでしたから、どうすることもできなかったでしょう。それで、おそらくいろいろな祈祷師や、怪しげなまじない師にも見せたことでしょう。それらの祈祷師やまじない師は、高額な報酬を要求したことでしょう。しかしいくらそのような人たちにつぎ込んでも、何の解決にもならなかった。周りの人たちは、両親や先祖が罪を犯したからこのような子が生まれたのだという人もいたことでしょう。それはヨハネによる福音書の9章を見れば分かります。それでこの父親は、おそらく神殿に行って自分の罪を悔い改めることもしたことでしょう。しかしそれでも解決することはなかった。‥‥そうして今、ついにイエスさまの前に来たのです。
 父親はイエスさまに言いました。「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。」‥‥悪霊は、この子を殺そうとしてきたという。言い換えれば、悪霊は、この子とこの父親に対して「お前は生きている資格がないのだ」とささやいてきたんです。「お前など、生きている値打ちはない。お前は、このように人に迷惑を掛けている。神はお前を愛していない。お前は神からも見捨てられているのだ」‥‥そのように悪霊は、ささやいてきたんです。
 私は、ここに、この子と父親の苦しみの根本的なものがあると思います。神から見捨てられた、生きている値打ちがない‥‥。これが私たちの苦しみの根幹でもあります。生きる意味を見失った。悪霊は、そのように誘導いたします。
 
    信じる者には何でもできる
 
 そうして今、ついにイエスさまの前に立った。父親は言いました。「おできになるなら、私どもを憐れんでお助け下さい。」‥‥「おできになるなら」、この言葉は、決してイエスさまを軽んじて言った言葉ではありません。これまでの苦しい人生、何をしてもダメだったという事実、そして神からも見捨てられ罰を受けているのではないかという絶望から出た、そういうものをすべて背負ったあげくに出た、遠慮がちな言葉であったと思います。
 それに対してイエスさまは断固としておっしゃいました。「できればと言うか。信じる者には何でもできる。」
 この言葉は、「あなたがわたしを信じれば、あなたが何でもできるようになる」という意味に受け取ってしまいがちですが、そうではないでしょう。信じれば父親が何でもできるようになるという意味ではない。同じように、私たちがイエスさまを信じたら、私たちが何でもできるようになるという意味ではありません。この言葉は、イエスさまを信じる者に対して、イエスさまはなんでもおできになると言うことです。イエスさまが、その人に何でもなさることができるということです。
 
    不信の中の信
 
 そして、今年の言葉、今日の聖句が父親の口から語られます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
 今日のこの出来事は、マタイによる福音書の17章、そしてルカによる福音書9章にも記録されていますが、この父親の言ったこの言葉を書き留めているのは、今日のマルコによる福音書だけです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
 「信じます」と言って、すぐ後に続いて「信仰のないわたし」と言っている。これは矛盾したことのように聞こえます。「信仰のないわたし」が「信じます」と言っている。ならばこの「信じます」という言葉はウソではないのか?‥‥そんなふうに思えます。私が最初神学生の時に、清水先生の本に書かれていたこの言葉を見て思ったのも、そういうことでした。
 しかしどうでしょう。自分自身を省みると分かってくるように思います。じゃあ、この自分は信仰があると言いきれるのか? 100%信仰があると言いきれるのか?
 本当に信仰があるならば、私たちは何があっても常に感謝と平安で満ちているはずです。いつも喜び、すべてのことについて、即座に感謝するはずです。病気にかかっても、大けがをしても、苦痛で寝られなくても、子どもが事故に遭っても、病気で苦しんでも、あるいは台風で家が倒壊したとしても、神さまがすべてをご存じですべてを良いことに変えて下さると100%信じることができるならば、やはり平安であり、喜びがあり、感謝で満ちているはずです。決して不平不満も言わないし、どんな人も愛することができるはずです。決して人を裁かないはずです。また、貧しい人のために、喜んで全財産を投げ打つことができるはずです。たとえ「信仰を捨てないと殺すぞ」と迫害され、脅されても、進んで命を捨てることができるはずです。‥‥
 しかし、そうではない自分がいる。明日のことを思い煩い、神さまが分からなくなる自分がいる。
 しかし、では神を信じないのか?イエスさまを信じないのか?と聞かれれば、そうではない。「信じます」と礼拝でも信仰告白をしています。それはウソでは無い。もう少し言えば、私たちはそれでもイエスさま、神さまを信じたいのです。いや、信じているんです。何を信じているかと言えば、こんな中途半端な信仰しかない私でも受け入れてくださるイエスさまを信じているんです。愛がない、罪しかないようなこの私を受け入れてくださるイエスさまを信じているんです。信じさせていただいているんです。
 言い換えれば、不信仰なこの私であるにもかかわらず、まるごと受け入れてくださるイエスさまに、私たちの身をゆだねるんです。不信仰な私たちを救うために十字架にかかってくださったイエスさまだから、私たちはこのありのままの私という者を、まるごとイエスさまにおゆだねすることが許されているんです。
 それがキリスト信仰のありがたさです。そのイエスさまを思う時、感謝しかないんです。
 イエスさまはこの父親の言葉を受け取ってくださり、この息子から悪霊を追い出されました。あらためて、あなたは見捨てられていない、生きる値打ちがあるということを示してくださったのです。
 この弱く不信仰な私という小さな存在を、まるごと受け入れてくださるイエスさま。安心して身をゆだねることができます。そして神さまの働きを見させていただくことができます。今年一年、主と共に行く年。どんな恵みと奇跡を見ることができるでしょうか。そういう希望が与えられています。主の御言葉に聞き従っていく思いを新たにしたい。