2019年8月25日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 イザヤ書33章24節
    マタイによる福音書9章1〜8節
●説教 「運んだ人、運ばれた人」

 
    信仰を見るイエス
 
 嵐のガリラヤ湖を向こう岸へと渡り、ガダラ人の地で、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されたイエスさまは、再びガリラヤ湖を渡って戻ってこられました。「自分の町に帰って来られた」と書かれています。「自分の町」というのはカファルナムの町ということになります。カファルナウムには、ペトロたちの家がありました。ですからペトロか誰かの家を拠点とされていたのかもしれません。
 そのようにイエスさまが町に帰ってこられると、人々が中風の人を床に寝かせたままイエスさまのところに連れて来たと書かれています。中風は、脳卒中の後遺症であり、体が麻痺している状態です。この人は相当重い麻痺が残っていたようです。そして、人々がこの人を床に寝かせたままイエスさまのところに運んできた。
 この出来事は、聖書ではマルコによる福音書、およびルカによる福音書にも書かれています。そしてそちらのほうが詳しく書かれています。そちらのほうを見ると、この中風の人を運んできたのは4人の男となっています。そして中風の人を運んで来てみると、イエスさまのいた家にすでにおおぜいの人が詰めかけていて、家の中に入ることができなかった。すると彼らは、中風の人が寝ている床のまま担いで屋根の上に上った。そして、屋根をはがして、その中風の男の人をイエスさまのところに吊りおろした‥‥。そんなことが書かれています。 たいへん衝撃的というか印象的です。
 しかしきょうのマタイによる福音書のほうは、運んできた人たちが屋根に上って屋根を剥がして中風の人を吊り降ろしたということは書かれていません。省略されています。ふつうは、たとえばニュースであれば、屋根を剥がして吊り降ろすということを絶対に書きたいところでしょう。しかしそれをあえて省略しているということは、やはりそこに理由があるのだと思います。ではそれは何なのか。
 4人の男が中風で寝たきりの人を寝床に乗せたまま屋根の上に上がり、そこを剥がして吊りおろした、ということになるとやはりどうしてもその非常識にも見える行動のほうに目がいってしまいます。特にこの後の2節の後半を読むと、“イエスはその人たちの信仰を見て”と書かれている。すると、これを読んだ人は、「そうか!屋根に上って剥がす位の信仰があったから、イエスさまは奇跡を起こされたのだ」という具合に読んでしまいかねないのではないでしょうか。「ただイエスさまのところに行くだけではダメだ。もっと熱烈に、イエスさまに振り向いてもらうために、激しい行動を起こさなければだめなんだ!」と思ってしまうのではないでしょうか。
 しかしマタイは、屋根に穴を開けて吊りおろしたという、読者の目を引く部分を省いている。ただ人々が中風の人を床に寝かせたままイエスさまのところに連れてきた、ということだけを書いています。そして続いて「イエスはその人たちの信仰を見て」と書いている。つまりここでマタイが言いたいことは、何かなりふり構わず、屋根を剥がすような行動をともなうことが「信仰」というわけではない。そうではなく、とにかくイエスさまのところに来ることが信仰だ、ということを言いたいのだと思います。他の誰かのところにではない。イエスさまのところに来ること。それが信仰だ、と。
 この人たちは、とにかくイエスさまのところにこの寝たきりの人を連れて運んできたのです。イエスさまのところにです。この「連れてきた」という言葉は、原文では「ささげる」という意味もあります。イエスさまのところに「ささげた」とも読める。言い換えれば、イエスさまにお任せしたのです。「とにかくイエスさまのところに連れてくればいい。後はお任せしよう。そうすれば大丈夫だ」ということです。それを見てイエスさまは、「信仰」であると見なしてくださるのです。このように、「信仰」というものは、何か難しい理屈ではないのです。とにかくイエスさまのところに来ることです。
 私の最初の任地の教会で、あるご婦人が毎日のように昼休みに教会に来て、お祈りするようになりました。この人は、クリスチャンではありませんでした。ただ、以前お子さんの勉強をちょっと見てあげたことがあるので、クリスマスには教会に来る人でした。この人の息子が大学受験を迎えることになりました。事情があって、彼女は自分一人で二人の息子さんを育ててきた。そしてその息子が受験を迎えて、たいへん心配になったのです。いても立ってもいられない。そのとき、彼女は、神社のにお参りに行ったのではなく、教会の真の神様の所に来て、毎日お祈りするようになったのです。自分の家、親戚、そして周りの人はみな、神社へお参りに行く。しかし彼女は毎日のように昼休みにお祈りに来るようになった。その結果、すばらしいことが起きました。どうすばらしいかと言うことは、またのお話しする機会があることでしょう。そうやって彼女は導かれ、ついには洗礼を受けられたのです。
 それは、もしかしたら「信仰」と呼べるようなものではなかったかもしれない。しかしイエスさまは、そのようにイエスさまのところに来る人に「信仰」を見てくださるのです。
 
    身代わりの信仰
 
 「その人たちの信仰を見て」と書かれています。誰の信仰か。その人たち、ですから、運んできた人たちと、この中風で寝たきりになっている人の両方と言うこともできます。しかし、やはり文脈から言って、寝たきりの人を運んできた人たちの信仰を見て、ということだと思います。本人にもイエスさまの所に行きたいという願いがあったかもしれませんが、彼を運んできた人々の信仰をご覧になった。
 幼児洗礼もそうですね。まだ自分で信仰告白をすることのできない幼児が洗礼を受ける。それが幼児洗礼ですが、その場合は親の信仰によって洗礼を授けるわけです。その親の信仰というのは、この中風の人を運んできた人々のように、とにかくイエスさまのところに連れて行ってささげる、信頼してお任せするというものです。
 考えてみれば、この私たちもそうに違いありません。私たちも、誰一人として、自分の力で教会に来た、イエスさまのところに来たという人はいないはずです。私自身を考えてみても、私が主を信じるようになるためには、両親の祈りがありました。教会の人の祈りがありました。そして名も知れぬどこかの誰かのクリスチャンが、見ず知らずの人の救いのために祈る、そういう祈りもあったはずです。そのような祈りによって運ばれて、私はキリストのもとに導かれたに違いないのです。私たちは、みな、誰かのクリスチャンの祈りによって、キリストのもとに導かれたのです。その意味では、この中風で寝たきりになっていた人と同じです。
 
    罪の赦しを宣言するイエス
 
 イエスさまは、彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。
 「子よ」。それは愛する者に向かって、親しみを込めて呼びかける言葉です。
 そして、「あなたの罪は赦される」。「あなたの罪は赦される」というと、「これから赦されるだろう」というような未来形のような印象を受けますが、実はそうではありません。この「赦される」というのは文法の時制で言うと現在形です。それの受動態、つまり受け身形。能動態で言うと、「あなたの罪を赦す」ということになります。私たちが誰かに対して、「あなたを赦す」と言ったとしたら、それは「今赦した」という意味になりますね。そういうことです。しかし、罪を赦すことのできるのは神さましかいませんから、「赦される」と受動態で言っているに過ぎないのです。つまりわかりやすく言えば、「父なる神さまが、あなたの罪を今赦す」ということです。そのことをイエスさまがおっしゃっているから、「あなたの罪は赦される」という言い方になっている。他の聖書、たとえば口語訳聖書や新改訳聖書では、「あなたの罪は赦された」と訳しています。そういう意味になります。赦されたんです。今。イエスさまの宣言によって。
 するとそこに居合わせた律法学者が、その言葉をおっしゃったイエスさまについて、「この男は神を冒涜している」と思ったという。どうしてそう思ったかというと、罪というのは神さまに対する罪のことですから、その罪を赦すことのできるのは神さましかいないからです。神さましか罪を赦すことのできる方はいないのに、それをイエスさまが言っているということは、すなわち神を冒涜しているのだというわけです。
 そのように思うのも、無理からぬ話かもしれません。たしかに罪を赦すことのできるのは、神さまご自身しかいないはずだからです。たとえば、Aさんが、私に対して過ちを犯したといたします。その場合、Aさんが私に対して過ちを犯したわけですから、Aさんの過ちを赦すことができるのは、私自身の他にはいないはずです。それを横からBさんという人が出てきて、Aさんが私に対して犯したあやまちを勝手に赦すと言ったとしても、そんなものは何の意味もありません。
 そのように、律法学者が思ったのは、神に対する罪は神しか赦すことができないのであって、このイエスという人が勝手に罪の赦しを宣言するとは、神を冒涜している‥‥。そういうことです。ですからそのように思うのは無理からぬことのように思われます。もしイエスさまが罪を赦すことができるとしたら、それはイエスさまが神であるか、あるいは神さまの代理であるかです。
 
    なぜ罪の赦しか
 
 そしてもう一つ。なぜイエスさまは、罪の赦しを宣言されたのか、ということです。病の癒やしを宣言するのではなく、なぜ先に罪の赦しを宣言されたのか?
 まず、当時病気というものは、罪に対する罰であると考えられていたという面があります。たとえば、ヨハネによる福音書9章で、生まれつき目の見えない人について、イエスさまの弟子たちがイエスさまにこう尋ねています。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と。つまり、そこにいた目が見えない人は、自分の罪か、両親の罪かどちらか分からないけれども、とにかく罪に対する神の罰として目が見えないのだと信じられていたことが分かります。
 そうすると、この中風の人はどうでしょうか。彼も自分の罪のために、このような病気になったと思っていたことでしょう。罪というのは神との断絶です。神は完全に清い方ですから、罪人は神の前に出ることができません。神と断絶しているわけです。
 ですから彼は、病気で苦しんでいただけではなく、それよりももっと深刻な問題で苦しんでいたに違いありません。それは神さまのとの断絶です。自分は神の罰を受けている。神から見捨てられている。人の手を借りないと何もできない。生活費を稼ぐこともできない。人の手を借りて生きているわけです。人に迷惑をかけているばかりか、神さまからも罰を受け、見捨てられている。その苦しみは、どれほどであったことでしょうか。もはやそこに生きる意味を見出すのが難しい。そういう思いではなかったかと、想像いたします。それは生きることについての、深刻な問題です。
 しかし、彼を運んできた人たちには希望がありました。それは、イエスさまのところに連れて行けば、それが解決するという希望です。そしてイエスさまは、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦された」とおっしゃった。宣言してくださったです。神はあなたを赦し、受け入れられたと。もはやあなたは神の子であると。
 
    赦しの権威
 
 イエスさまはおっしゃいました。「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」
 私たちにとっては、「あなたの罪は赦される」というほうがやさしいという風に、一見思われます。しかし今ご一緒に考えてきましたように、罪を赦すということは、神さまにしかできないことです。神さまに対する罪を、私たちが勝手に赦すことはできない。決して出来ない。
 しかしイエスさまは続けておっしゃいました。‥‥「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」とおっしゃいました。するとその人は起き上がり、家に帰っていきました。癒されたんです。
 ここでいう「人の子」とは、イエスさまのことを指しています。イエスさまが地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう、とおっしゃった。神に代わって罪を赦す権威を、イエスさまは与えられている。その権威はどこに根拠があるのでしょうか。それは十字架です。やがてイエスさまが、自らの命を十字架で投げ打たれる。私たちの罪を負ってくださって。その十字架のゆえに、父なる神が与えてくださる権威です。
 
    私たちの罪は
 
 それゆえ、本日の聖書の、この中風で寝たきりであった人に対して言われたイエスさまの言葉、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」という言葉は、私たちに対して言われる言葉でもあるのです。わたしたちが、とにもかくにもイエスさまのところにかけつけ、我が身をゆだねるならば、私たちもまた「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦された」との声をいただけるのです。「あなたの罪は赦された」は、「あなたは赦された」と言ったほうが分かりやすいでしょう。「あなたは赦された」「子よ」と。


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