2019年8月11日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 詩編7編7節
      マタイによる福音書8章28〜34節
●説教 「採算度外視」

 
    創立71周年
 
 本日は逗子教会創立記念礼拝としております。昨年70周年のお祝いをしましたので、今年は71周年ということになります。終戦から3年目、当教会はこの地において主の日の礼拝を開始いたしました。そこには、宮崎繁一牧師をはじめとした献身的な奉仕がありました。それらの奉仕者を用いられ、導かれたのは、主なる神さまです。
 そして教会は、主によって導かれて教会に加えられたひとりひとりの集まりです。生まれた場所も、育った場所も、生きてきた環境も、人生の道のりも、すべて違う一人一人が集まっている。すなわち、主は、私たち一人一人を聖霊によって導かれて、ここに加えられている。神さまはすごいですね。私たち一人一人を心に留めてくださって、導いておられるんです。このことを深く心に留めたいと思います。
 
    ガダラ人の地方
 
 聖書に入りますが、前回のところでイエスさまは弟子たちと共に舟に乗り、ガリラヤ湖から向こう岸へと渡ろうとされました。途中、激しい嵐に遭遇し、弟子たちは遭難してしまうと恐怖を感じましたが、眠っているイエスさまを起こした結果、イエスさまが嵐を静めてくださいました。そしてきょうは、その舟がガリラヤ湖の対岸に到着したところからです。ガリラヤ湖は、あまり大きい湖ではなく、日本の琵琶湖の半分ぐらいの大きさですが、対岸はもう外国人の住む世界でした。聖書には「ガダラ人の地方」と書かれています。
 マルコによる福音書とルカによる福音書にも、この時の出来事を書いてしますが、そちらではガダラ人ではなく「ゲラサ人」と書いてあります。どっちが正しいのかということですが、どちらでもよいようです。ガダラもゲラサも町の名前で、ガダラのほうがゲラサよりもガリラヤ湖に近いところにあるんですが、ガダラ人の地方と言ってもゲラサ人の地方と言っても、どちらでもよいということです。
 きょうの聖書に書かれているガダラ人の地とは、なにか未開の民族のような印象を受けるかもしれませんが、そうではありません。ガダラの町もゲラサの町も、いずれもデカポリスと呼ばれる町のうちの一つです。デカポリスというのはギリシャ語です。「デカ」が数字の10という意味で、「ポリス」は都市ですね。ですから、デカポリスというのは10の都市という意味になりますが、これはその昔、マケドニアから出て中近東と西アジアを征服して大帝国を築いたアレクサンドロス大王に由来しているんです。そのアレクサンドロスの後継者達が建てたギリシャ風の町が、これらのデカポリスです。今でも立派な遺跡が残り、文明が栄えていたことが偲ばれます。
 ですから、ガダラ人の地方というのは、決してへんぴな地ということなどではありません。しかしそれはユダヤ人から見たら異邦人です。つまり異教徒ですね。真の神さまを信じていない。きょうの箇所では豚が出てきますが、そのことからも分かります。なぜなら豚は、旧約聖書では穢れた動物とされていて、ユダヤ人はそれを避けていたからです。
 イエスさまは弟子たちに向かって、ガリラヤ湖の向こう岸へ渡るようにお命じになりましたが、その行き先はこの異邦人の地であったわけです。
 
    悪霊
 
 この地に到着しますと、さっそくイエスさまのところにやって来た人がいました。それが「悪霊に取りつかれた者」二人でした。悪霊に取りつかれたというと、キツネが憑くみたいに思う方もおられることでしょう。しかし聖書で言う悪霊とは何か? 悪霊は、悪魔すなわちサタンに従うもろもろもの霊だと言えます。サタンの配下です。
 そのようにいうと、悪霊など本当はいないのだという聖書学者もいます。そういう方はどう説明するかというと、昔はよく分かっていなかったからなんでも悪霊のせいにしたのであって、本当は悪霊ではなく、一種の精神疾患のことであるというんです。しかしそれはやはり違っていると言わなくてはならないでしょう。本日の聖書箇所を読むと、明らかに悪霊が存在していることが前提となっています。その悪霊たちが、豚に乗り移って、しかもその豚が大量に崖をくだってガリラヤ湖になだれ込んでいるんです。明らかに悪霊の存在を前提にして書かれています。
 しかしながら、聖書で言う悪霊というものはオカルトではありません。むかし「エクソシスト」というオカルト映画が流行ったことがありますが、ああいうものではない。あのようなものはむしろ話は簡単です。聖書で言う悪魔、悪霊というものは、その目的が問題なんです。つまり神を信じさせないようにするのが悪魔、悪霊の役割であり目的なんです。
 悪魔は、人間が神を信じるということを信じません。人間は神を信じるはずがない、人間は簡単に神を信じなくなると思っている。だから、悪魔は人間が神を信じさせないように働きます。悪霊も同じです。また、悪魔は愛を信じません。神の愛を信じないし、人間が神を愛する、隣人を愛するということを信じません。こんなことをお話ししていると、悪魔のほうが正しく思えてくるかもしれません。愛などない、神など信じられないと。そこが怖いところです。
 
    叫び
 
 さて、イエスさまが舟から下りて陸に上がられると、二人のガダラ人がイエスさまのところにやって来ました。ただ、これはマルコ福音書、およびルカ福音書では一人です。この違いはどう説明するのか、どちらかが間違っているんじゃないかと思われますが、マルコとルカは一人に焦点をあてて見ていると考えれば問題ありません。
 しかしマルコとルカは、このマタイ福音書よりももう少し詳しく書いています。マルコ福音書では、この悪霊に取りつかれた人は、墓場を住まいとしており、人々から足枷や鎖で縛られたけれどもそれを引きちぎってしまい、どうすることもできなかったこと、そして夜も昼も叫んだり自分を石で打ちたたいたりしていたということが書かれています。ルカ福音書のほうでは、この人は服を身につけていなかったことが書かれています。つまり裸でいた。
 しかしきょうのマタイ福音書では、そういうことは触れていません。代わりに、この二人が発した言葉だけを書くことによって、この言葉に注目させています。つまり、「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」という言葉です。
 これはたいへん注目すべき言葉です。まず、イエスさまのことを「神の子」と呼んでいる。弟子たちでさえ、イエスさまが神の子であるなどとは思っていない。それは前回の個所の27節を見れば分かります。弟子たちは嵐を静めたイエスさまについて、「いったい、この方はどういう方なのだろう」と言っています。なのにこの二人のガダラ人は、イエスさまを「神の子」と呼んでいる。なぜイエスさまが神の子であると分かったのでしょうか?
 一つには、これは彼ら自身の言葉ではなくて、悪霊が直接語っているんだという考え方があります。悪霊が彼らの口を使ってしゃべっている、と。そして悪霊はサタンの配下ですから、イエスさまが神の子であるということを知っていると考えられる。だからこの言葉は彼らの言葉ではなく、悪霊の言葉なのであると。しかしそうするとこれは、あの映画「エクソシスト」のようなことになってしまいます。悪霊が本人を乗っ取ったというふうにです。
 ですから、ここは悪霊に苦しめられている人が言った言葉と考えるべきでしょう。人々から見捨てられ、自分でもどうすることもできないこの二人の人が、その極度の苦しみの中で、イエスさまというお方に神を見出したと言えると思います。
 そして「まだその時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」という言葉。「その時」というのは、神の裁きの時ということです。神が自分たちを裁いて、罰せられる。まだその時ではないはずなのに、と。この言葉から分かることは、彼らにとって、神さまとは敵でしかないということです。自分たちを裁いて滅ぼす敵でしかない。
 
    豚の死
 
 そして31節。こちらは、「悪霊どもは」と書かれていますので、悪霊の言葉だということになります。彼ら二人が語ったのではない。悪霊がイエスさまに願った言葉。だから、彼らの口を通して語られたのではなく、イエスさまにだけ聞こえる形で悪霊が言ったのだと考えられます。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と。
 なぜ豚の中に行かせてくれと悪霊は頼んだのでしょうか? 人間にではなく、動物の中に移るのならイエスさまに許してもらえると思ったのでしょうか?‥‥しかし結果は、乗り移った豚はみな掛けから湖になだれ込んで死んでしまったと書かれています。結果は奈落の底だった。悪霊は、人間から切り離され、神のさばきを受けることになっているということが分かります。
 
    採算度外視
 
 そうしますと、町中の人々が出てきました。そしてイエスさまに感謝し、神をほめたたえるかと思ったら、全く逆で、イエスさまに出て行ってもらいたいと言ったというのです。
 この世の中では、「費用対効果」(ひようたいこうか)ということをよく聞きます。英語では「コスト・パフォーマンス」。要するに、支払った費用に見合った成果が上がっているか、という意味です。投資に見合ったもうけを得ることができるか、あるいは、使ったお金に見合った利益を上げるかということです。そして費用対効果の悪い事業は中止となるというのが世の常です。
 きょうの聖書の出来事でいうと、多くの豚、マルコ福音書ではその数を二千匹とだったと書いています。そんなに多くの豚が犠牲となった。たしかに今まで人々を困らせていた二人が悪霊から解放されたのは喜ばしいことには違いないけれども、そんなに多くの豚が犠牲となったのではたまったものではない。あまりにも費用と効果が見合わないと見たのでしょう。そして今後もイエスさまが同じようなことをされたら、とんでもない損害が発生してしまう。だからお引き取り願おう、というわけです。
 それに対して、イエスさまのほうは、費用対効果であるとかコストパフォーマンスということは全く考えておられないようです。山上の説教が終わって、8章に入り、いくつか癒やしの奇跡が書かれてきました。それを少し振り返ってみましょう。
 まず1〜4節では、重い皮膚病の人の癒やしがありました。この人の場合は、本人がイエスさまに癒やしてくださることを願い出ていました。そしてイエスさまがその人に手を触れて、「よろしい、清くなれ」とおっしゃると、その病気は癒されました。
 次に5〜13節ですが、百人隊長の僕の癒やしがありました。この時は、本人ではなく、その主人である百人隊長が、イエスさまに僕の窮状を訴えました。そしてイエスさまの言葉を求めました。そしてイエスさまが直接僕の所に行かずに、言葉をおっしゃると僕は癒されました。
 続く14〜15節では、弟子のペトロの家に入ったところ、ペトロの姑が熱を出して寝ていました。するとイエスさまは、誰に頼まれたわけでもないのに、イエスさまのほうからペトロの姑の手に触れられ、病気が癒されました。
 このように、病の癒やしといっても、それぞれケースが違っていることが分かります。そしてきょうの聖書では、最初に申し上げたように、イエスさまは弟子たちと共に舟に乗ってやってこられました。途中、舟が沈没するのではないかというほどの激しい嵐に遭遇しました。しかしそれを乗り越えてやってこられたのです。言ってみれば、命がけの航海を経てやってきたのです。この異邦人、異教徒のところまで。そしてこの二人が出てきて、彼らは悪霊から解放されました。
 このことを見ると、イエスさまは、まるでこの二人のために弟子たちを引き連れて荒波を越えてやって来られたかのように見えます。いや、本当にそうだったのではないでしょうか。誰からも相手にされず、見捨てられたこの二人の悪霊に取りつかれた異邦人を、悪霊から解放するために。救うためにです。まったく採算度外視です。
 多くの豚が溺れ死んだということで、「豚がかわいそう」と思う人もいるようです。豚がかわいそう‥‥。では、この二人の人はかわいそうではなかったのか? 少なくとも、イエスさまにとっては、この二人の人は、多くの豚を犠牲にしても救う価値がある、貴いものと見てくださったんです。
 これは私たちに対しても言えることでしょう。この私という一人の人間が悪霊から解放されて救われるのと、豚二千匹が犠牲になるのと、どちらを選ぶか?‥‥おそらく世の中の人は、「それは豚のほうが大切だ」と言うことでしょう。しかし、イエスさまは違うんです。イエスさまは、この私という一人の人間が救われることのほうが尊いと見てくださるということです。「あなたは、多くの豚を犠牲にしても、救う値打ちがある。尊い」とおっしゃってくださるんです。
 それでも、「なぜ豚が犠牲にならなければならないのか?」と言う人がいるかもしれません。しかし、人が救われるためには、何かが犠牲となるんです。人が救われるためには、何かが犠牲となる。そのことをきょうの聖書は教えているんです。そしてそれは、キリストの十字架を指し示しています。私たち一人一人の人間を救うために、このイエスさまご自身が十字架で犠牲となってくださった。このことをきょうの聖書は指し示しています。
 神さまは採算度外視です。「あなたは、神の子の命に代えても救う価値がある」と、私たち一人一人におっしゃってくださるんです。
 それゆえ、教会の伝道も採算度外視となるんです。私たち一人一人が、イエスさまによって導かれた。イエスさまは、私たち一人一人にそれぞれ違う出会いをしてくださった。そして私たち一人一人のために、ご自分の命を犠牲にしてくださった。神の子の命をです。それゆえ、私たちも、まだ見ぬ隣人のために、その一人のために、その一人が救われるために祈るんです。創立記念日を覚えて、一人の救いのために仕える教会でありたいと願うものです。


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