2019年8月4日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
■聖書 イザヤ書 50章 2節
      マタイによる福音書8章23〜27節
■説教 「叱るイエス」

 
    平和聖日
 
 本日は平和聖日です。日本基督教団では、終戦記念日や原爆投下のあった8月を平和聖日として定めています。
 平和を願わない人は、ほとんどいないでしょう。なのにどうして戦争になるのか、という社会学的な分析をここで申し上げようとは思いません。ただ、戦争というのは必ず集団でするものであることは注目すべきことだと思います。一人戦っても、ふつうは戦争とは言いません。それは単なるケンカです。しかし戦争と言った場合は、国とか民族とか宗教でまとまって集団となって争います。戦争の主体である集団をまとめるためには、その集団が同じ考え方になるようにしなければなりません。そのために情報をコントロールするということが起きます。その集団をまとめるために、都合の悪い情報が入らないようにし、都合の良い情報だけを流すようにする。そうして、集団を一つの方向へ向けてまとめていくということをする。A国とB国が戦争するという場合、A国の国民とB国の国民が全く対立する意見を持つのは、それぞれの国で国民が聞かされる情報が違っていることが大きい。偏った情報しか聞かされていないために、互いに相手の国や集団を敵視するようになる。ものごとを判断するためのもとである情報が異なっているために、互いに理解できない。そして憎しみをかき立てることになる。
 そう考えると、何か絶望的な感じもいたしますが、ところが私たちは、国や民族を超えて、正しい同じ情報を与えるものを知っています。それはなんでしょうか。それは他でもない、聖書です。聖書は、イエス・キリストによって、完全に国境や民族の壁を越えてしまっています。そしてその聖書が描く究極の世界である神の国は、もはや国も人種も民族の違いもない世界です。
 ちなみに、ヨハネの黙示録7章9〜10節を見てみましょう。葬儀の時によく読まれる聖書箇所です。
”この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」”
 これが神の国です。そこではもはや、国の違い、人種や民族の違いなどは全く問題にならない。皆イエスさまによって罪赦されたシンボルである白い衣を着て、玉座にいます神と、小羊なるイエス・キリストを前にして、礼拝をしている。これが究極の神の国です。すばらしい世界です。
 ですから、私たちは世界人類共通に与えられている神の言葉を正しく聞き取るために、心を尽くすものでありたいと思います。
 
    舟に乗る
 
 さて、本日の聖書ですが、イエスさまと弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖を渡っていくという場面です。前回の個所で、集まっている群衆を前に、イエスさまは弟子たちに向かって、湖の向こう岸へ渡るようにお命じになりました。そしてきょうの箇所で、イエスさまは舟に乗り込まれました。最初にイエスさまが舟に乗り込まれた。そして続いて弟子たちも舟に乗りました。
 そのように、イエスさまが向こう岸へ渡るようにおっしゃり、そしてイエスさまが自ら先に舟に乗り込んだんです。つまり、完全にイエスさまが主導権を取って弟子たちの先頭に立っておられることが分かります。弟子たちも舟に乗りました。イエスさまの言葉に従い、イエスさまについて行ったことになります。
 
    嵐に遭遇
 
 ところがその舟が嵐に遭遇いたしました。「激しい嵐」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「この上もない大荒れ」というような意味になっています。ですから、あまり経験したことのないような大暴風ということになります。イエスさまの弟子の中には、ペトロやヤコブやヨハネなど、このガリラヤ湖で漁をしていた漁師たちもいました。その人たちがあわてふためいて、絶望するほどですから、相当な暴風が吹き、波は逆巻いて舟も水をかぶったことでしょう。
 イエスさまが向こう岸へ渡ろうとおっしゃり、率先して乗り込まれるイエスさまに従って舟に乗ったのにもかかわらず、そのような嵐に遭遇し、命の危険にさらされたのです。イエスさまを信じて舟に乗ったのにもかかわらずです。こんなことになるなら舟に乗らなければ良かった、と思った弟子もいたのではないでしょうか。
 これは私たちにも同じようなことが起きるのではないでしょうか。イエスさまを信じて洗礼を受けたのに、人生の嵐に遭遇したというようなことが起きる。イエスさまを信じてついて行ったのに、問題が起きる、試練に遭遇する‥‥。そういうようなことです。そうすると、私たちは、「イエスさまを信じたのに、どうしてこんな試練に遭うのか?」と不審に思うわけです。
 しかしここでハッキリさせておかなくてはならないことは、キリストを信じる信仰は、決して人生が平坦で、平穏無事であることを約束しないということです。イエスさまは、先の山上の説教の中でも、(マタイ5:45)「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とおっしゃいました。
 神さまが、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせるということは、キリストを信じている者にも信じていない者にも、時には嵐に遭遇させるということになります。のちに、使徒ペトロも述べています。(Tペトロ 4:12)「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」
 そのように、キリスト信仰は、嵐に遭わないことを約束するものではありません。「何もなくて平穏無事なら神を信じる」というのなら、それは神を信じないこの世の人々と同じになってしまいます。嵐が来るかもしれないけれど、それを乗り越えさせてくださる神を信じる、というのがキリスト信仰です。
 
    眠っているイエス
 
 さて、弟子たちは、海の上で今まで経験したこともないような嵐に見舞われ、恐怖におののきました。イエスさまはどうしているかと思ってみると、なんとこの嵐の中、眠っておられたというんです。
 私は、以前、イエスさまがこんな嵐で舟が触れている中で眠っておられるというのは、よほど疲れておられたんだろう、と思っていました。ところが、先日、NHKテレビの「チコちゃんに叱られる」を見ていて、なるほどなあと思ったんです。それは先々週の放送だったんですが、チコちゃんが出演者にこういうことを聞いたんです。「なぜ眠っている人に話しかけても起きないのに、目覚まし時計だと起きるのか?」
 眠っている人に大声で叫べば目を覚ますでしょうが、普通に話しかけても起きない。それはなぜなのか。答えは、「脳が安全な音だと判断しているから」‥‥ということでした。それによると、実は人間眠っていても、音は脳に聞こえているんだそうです。そして、音がしても、それが安全な音なのか、危険な音なのかを聞き分けているそうです。そして、人間の普通の話し声は「安全」と判断するから目を覚まさない。しかし目覚ましの音や、聞き慣れない音は、危険が迫っている音と脳が判断して目が覚める‥‥ということでした。
 さて、そのことから考えると、この嵐の舟の中で眠っておられたイエスさまはどういうことになるでしょうか。イエスさまにとっては、嵐の暴風の音も、波の逆巻く音も、何もかも織り込み済みであったということになるのではないでしょうか。それはイエスさまにとっては危険を知らせる音ではなかった。それで目を覚まさなかった。
 もちろんそれだけではないでしょう。父なる神さまへの全面的な信頼があったことは言うまでもありません。
 
    叱るイエス
 
 弟子たちは、あわてて眠っているイエスさまを起こします。「主よ、助けてください。おぼれそうです。」
 先ほども申し上げましたように、弟子たちの中には何人も漁師がいました。このガリラヤ湖で漁をしてきたんです。嵐に遭遇したこともあったでしょう。だから最初は自分たちで何とかしようとした。しかしこんなひどい暴風雨は今まで経験したこともなく、舟の中に次々と水が入ってきて、舟も波にもみくちゃにされて、どうすることもできなくなった。それでイエスさまは漁師でもないし、舟に詳しいとも思えないけれども、命の危険を感じるにいたって、イエスさまを起こした。あるいは、「イエスさま、あなたの指示に従って舟に乗ったのに、こんなことになってしまいましたよ!おぼれそうですよ!」‥‥と、イエスさまを非難したのかもしれません。「ああ、ついて来るんじゃなかった!」と。文句を言いたい。それでイエスさまを起こしたのかもしれません。
 そして、起きられたイエスさまはどうなさったのか?‥‥弟子たちに対してこのようにおっしゃいました。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」それは弟子たちを叱っておられる言葉です。
 なぜ怖がるのかと言われても、今にも舟が波に飲み込まれて転覆しそうとなれば、誰だって怖がるでしょうと言い返したくなりますが、イエスさまそこで問題となさったのは、「信仰」だったんです。今にも舟が転覆しそうというときに、信仰を問題になさるとは?!‥‥と思いますが、このようにイエスさまがおっしゃったということは、どんなときも信仰が大切であるということに他なりません。
 「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」この「信仰が薄い」という言葉は、信仰がわずかしかないという意味です。この嵐の中で、舟がひっくり返るかどうかというときに、信仰がどうだとか言っている場合かと人間は思う。しかし、イエスさまは信仰が問題だとおっしゃる。嵐の中でも父なる神さまに全面的に信頼して眠っておられたイエスさまが、あわてふためく弟子たちに向かって「信仰の薄い者たちよ」とお叱りになる。まさにこの状況の時に、信仰が問題だと。
 
    風と湖を叱る
 
 弟子たちの不信仰をお叱りになったイエスさまは、続いて風と湖をお叱りになりました。風も湖も自然界そのものです。私たちには、そんなものを叱ってどうなると思われる。ところが、暴風はやみ、波は収まり、すっかり凪になったという。それを見て舟に乗っていた弟子たちは驚き、「一体この方はどういう方なのだろう?風や湖さえも従うではないか」と言ったと書かれています。
 さて、今日の出来事ですが、弟子たちは確かに不信仰でした。命の危険を感じて、あわてふためきました。その姿は、まさに私たちの姿でもあります。
 しかし弟子たちは助かったんでしょうか?助からなかったんでしょうか?‥‥助かりました。不信仰でしたが、助かりました。なぜ助かったんでしょうか?‥‥それは、イエスさまに助けを求めたからです。「主よ、助けてください!おぼれそうです!」と叫んで助けを求めたからです。
 ここに私たちの希望があります。私たちは確かに、試練が来ると恐れ、危機が訪れると不安になって右往左往するかもしれない。そういう意味では不信仰です。しかし、イエスさまに助けを求めてすがることができるんです! 風と海を叱って、静めることのできるイエスさまに。
 
    乗るのと乗らないのとの違い
 
 これがきょうの聖書の出来事です。さて、前の聖書箇所から振り返ってみますと、この舟に乗った人と乗らなかった人がいました。乗った人たちは、舟に乗ったために、ひどい嵐に遭遇しました。今にも舟が転覆するんじゃないかという、恐怖も味わいました。しかしいっぽうで、イエスさまの奇跡を経験することができました。そしてイエスさまについて、「いったいこの方はどういう方なのだろう?!」というように、また少しイエスさまについて分かっていくという恵みにもあずかることができました。
 いっぽう、舟に乗らなかった人たちがいました。その人たちは、たしかに海の上で嵐に遭うことはありませんでした。そういう意味では安全が保たれたわけです。しかし、その人たちは、嵐をも静めることのできるイエスさまの奇跡を体験することはできなかったんです。そして、確かにこの時は嵐に遭わなかったかもしれませんが、人生においては必ず嵐のようなことに出会うことを忘れてはなりません。
 舟に乗らずにいるのか、それとも舟に乗るのか。昔から舟は教会にたとえられてきました。教会という舟が、他の舟と違うのは、イエスさまが乗っておられるかどうかの違いです。イエスさまは、今も同じように、向こう岸へ渡ろうとおっしゃって、舟に乗り込まれます。そして私たちにとっての究極の向こう岸は、神の国です。嵐に遭遇したときには、同じ舟に乗っておられるイエスさまを起こし、助けを求める。そのようにイエスさまにすがりつつ、前に向かっていくことができます。


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