2019年7月28日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●説教 創世記19章28節
    マタイによる福音書8章18〜22節
●説教 「向こう岸へ」

 
    向こう岸へ
 
 「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」と書かれています。
 前回の箇所で、イエスさまはペトロのお姑さんの熱を癒やされました。そして、夕方になると人々が病気の人を大勢連れてきて、イエスさまがそれらの病気を癒やされたと書かれていました。当時は医学が進歩していない時代でしたから、病気になると、ほとんどなすすべがありませんでした。ですから、イエスさまが神の奇跡によって病気を癒やされるということは、人々にとっては大きな希望であり、イエスさまの癒やしを求めて人々が殺到したことが想像されます。
 しかしそのイエスさまが、なおも押し寄せる群衆を見て、弟子たちに向こう岸へ行くように命じられたのです。そしてご自身も向こう岸へ行かれる。今いる場所は、カファルナウムという町です。すぐ近くには、ガリラヤ湖が広がっています。そのガリラヤ湖の向こう岸へ渡ると言われるんです。イエスさまの周りには、まだ病の癒やしを求めている人がいるはずです。しかしイエスさまは、その場を離れて船に乗って向こう岸へ行こうと言われる。なにか、病院の待合室に、まだ順番を待っている人が大勢いるのに、お医者さんがそれを放り出して行ってしまうような印象を持ちます。これはどういうわけでしょうか?
 疲れて休憩が必要だということでしょうか? あるいは、病気の癒やしを必要としている人々は、ここだけではないからほかに行くということでしょうか?‥‥たしかに、多くの病気の人を癒やすということで満足に休むこともできなかったかもしれません。また、カファルナウムとその周辺だけではなく、世界は広いのですから、病気の人はそれこそ数え切れないぐらいいるでしょうし、そちらのほうを放っておくわけにいかないということも事実です。しかしそうすると、当時のこの世の人々の病気を癒やして回るとすると、それこそ限りがありません。そもそも、イエスさまがこの世に来られたのは、病気を癒やすために来られたのか、ということです。
 イエスさまが弟子たちに対して、湖の向こう岸へ渡るようにおっしゃったことには、今病気の癒やしに目が向けられているその人々の目を、他のところへ、もっと先へと向かわせるようなものがあるように思います。
 そして、弟子たちに命じられたとありますが、これは今現在イエスさまの弟子となっているものに対してだけではなく、群衆を見て言われたということから、イエスさまと共に、イエスさまに従って、一歩踏み出すよう招かれているということもできます。
 そして、今日は二人の人がそこに登場いたします。一人は律法学者であり、もう一人は、イエスさまの弟子のうちの一人です。その二人とイエスさまとの言葉のやりとりが書かれています。そこで焦点となっているのが、イエスさまと共に向こう岸へ渡るのかどうか、ということです。
 
    イエスの弟子
 
 弟子というと、ふつうは、やがて師匠のようになることを目指して修行している人のことを指すと言えるでしょう。
 たとえば、私が牧師として最初に遣わされた教会は、能登半島の輪島教会でしたが、そこは皆さんもご存じの通り、輪島塗という漆器で有名な町でした。輪島塗の職人さんというのは、徒弟制度なんですね。輪島塗の職人になるには、親方のもとで弟子として修行を積むわけです。最初は作業場の掃除や、雑用をします。そして、親方や先輩職人の助手をしながら、塗りの技を覚えていきます。そして4年たつと、年季明けの儀式が行われます。そしてようやく職人としてスタートするわけです。その後は、職人として腕を磨き、成長していって、やがては親方を超える評価を得るということもあるわけです。
 大相撲の弟子にも同じようなことが言えます。新弟子として親方の部屋に入門し、鍛えられながら成長していく。そしてやがては、親方を超える位に上っていく弟子もいます。
 しかし、イエスさまの弟子というのは、そのような師匠と弟子の関係とはずいぶん違っています。何が最も違っているかというと、弟子はどんなにがんばって精進したとしても、決して師匠であるイエスさまのようにはなれないということです。もちろんイエスさまを超えることなど絶対にあり得ない。なぜなら、イエスさまは神のひとり子であるからです。しかしそのことは、まだこのとき弟子たちも人々も全くわかっていません。
 ではイエスさまの弟子というのは、なんなのか。輪島塗や大相撲の弟子が、やがては師匠と並び、ついには師匠を超えるように成長することが期待されるのと全然違うとすれば、イエスさまの弟子となるというのはどういうことなのか?
 弟子という言葉のギリシャ語マセーテースには「学ぶ者」という意味の言葉が使われています。そうすると、イエスさまの弟子であるということは、イエスさまについて学ぶ者という意味になります。そしてその学ぶ者という意味は、職人や相撲の弟子のように、やがては師匠に追いつき追い越していくという目的で学ぶのではなく、ずっと学び続けるということになるでしょう。そしてイエスさまについて行って学ぶというところにこそ、大きな意味と祝福があるのだと言えるでしょう。
 
    律法学者の場合
 
 さて一人目の登場人物ですが、それは律法学者でした。この律法学者は、イエスさまに対して「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。
 律法学者というのは、律法を人々に教える人です。律法というのは旧約聖書に記されている神の掟です。どのようにして神の掟を守るのか、どういうことをしてはいけないか、ということを人々に教えていました。福音書では、イエスさまと対立する律法学者が多かったのですが、この人はイエスさまに従って参りますと言っています。イエスさまの山上の説教を聞いていたのでしょうか、あるいは、イエスさまのなさる奇跡を見てきて、そのようなことをできる人になりたいと思ったのでしょうか。自らイエスさまの弟子となることを志願しています。
 それに対するイエスさまの答えはなんだったでしょうか。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われました。ここで言われている「人の子」とは、イエスさまご自身のことを指しています。
 この言葉の意味はどういうことでしょうか。「たいへんだよ。ゆっくり休むこともできないよ。ブラックだよ。それでもいいの?」ということをおっしゃったんでしょうか? たしかにそのように読めますが、違うと思います。なぜ違うかというと、「枕する所もない」という言葉を、寝る所もないという文字通りの意味にとると、そんなことはないからです。イエスさまはたしかにお忙しくしておられたことでしょうが、多くの弟子たちがいましたし、支援者もました。だから眠る所という意味でいえば、それはあったわけです。そうすると、ここで「枕する所がない」というのはどういうことなのか?
 その前に、この律法学者が言っている言葉をもう一度見てみましょう。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。何か決意表明のような、覚悟を決めたような言い方です。‥‥皆さんの中には、この言葉を聞いて、どこか似たような言葉を言った人が、聖書の中にいたなと思った方がおられるのではないでしょうか。
 たしかにあります。それは最後の晩餐の時の、ペトロの言葉です。十字架の前の晩、最後の晩餐の時、ペトロはイエスさまに言いました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ6:33)。それに対してイエスさまがおっしゃったことは、ペトロがまさに今晩の内に3度イエスさまのことを知らないと言うだろうという予告でした。それに対してペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。しかし事実は、果たしてイエスさまの予告通り、ペトロはその晩の内にイエスさまのことを知らないと言って否認したのでした。そして彼はイエスさまの予告を思い出し、外に出て激しく泣いたのでした。
 弟子たちは誰も十字架のイエスさまについて行くことができなかったのです。そうするとこのイエスさまの言葉、「人の子には枕する所もない」という言葉は、この世においてイエスさまが枕する所があるとすれば、それはあの十字架の上だけであるということに他ならないでしょう。ここにはまだ十字架という言葉は出てきませんが、イエスさまはすでにこのような形で十字架への道を歩んでおられるのです。そしてそのイエスさまに従って行くには、人間の覚悟というものがいかに無力であるかということを示しています。人間は、自分の覚悟や自分の力によってイエスさまに従っていくことはできないんです。それがペトロの涙が表していることであり、弟子たちが御名イエスさまを見捨てて逃げていったという事実です。
 さて、そのように十字架にかかって死なれたイエスさまが復活なさったとき、そして弟子たちの前に現れたとき、イエスさまは、弟子たちがイエスさまを見捨てて逃げていったり、イエスさまのことを知らないといって否認したことについて、一言も触れておられないことにお気づきでしょうか? なぜ、イエスさまは弟子たちを一言も責めておられないのでしょうか?
 それはもう、そのような弱い、罪深い弟子たちを、丸ごと受け入れておられるとしか言うことができないでしょう。あらかじめ、自分たちの覚悟さえも守ることができないような弱い弟子たちであることを承知の上で、受け入れておられるんです。そのイエスさまは、私たちについても同じように受け入れておられる。そしてその上で、向こう岸へ渡ろうと言って誘って下さるんです。
 ですから、今日の盛暑個所の前についている見出し、「弟子の覚悟」という見出しは間違っていると言わなくてはならないでしょう。この見出しはもともとの聖書本文にはないもので、この聖書を翻訳した人が付けた見出しです。しかしこの見出しは残念ながら外れています。見出しを付けるとすれば、「覚悟を守れない弟子を受け入れて下さるイエス」とでもすればよいでしょう。
 
    弟子の一人の場合
 
 さて、もう一人います。それが弟子の一人です。彼は言いました。「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。この弟子のお父さんが亡くなったようです。だから、葬式をしなければならないから、行かせて下さいと。それに対してイエスさまは、驚くべき答えをなさっています。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
 驚きとしか言い様がありません。言うまでもなく、肉親の死と葬儀ということは、およそすべてのことに優先する出来事のはずです。会社でも学校でも、親が死んだら忌引きが認められます。もちろん、たとえば舞台俳優が、主演を務める舞台の期間中に、親が死んだとき、公演を休むことなく舞台を務めたというような話はあります。しかしそれだって、肉親の葬式をしないということではありません。私もこの2月に母を亡くしましたが、なくなったのが土曜日で、翌日が日曜日でした。それで日曜日の朝の礼拝は説教をつとめましたが、夕礼拝は急きょ役員の方に代わっていただいて、帰省して葬儀の段取りをいたしました。
 ですから、もしこのイエスさまの言葉が、字義通りに受け取られると、イエスさまはいかにも冷たいひどいことを言われているように思われますし、この私もイエスさまの言葉を無視したということになります。
 しかしこのお言葉が、人の死と葬儀ということがすべてのことに優先する一大事であると人々が思っていることについて、そうではないということを教えるための言い方であるとしたら、話は違ってきます。そしてこの言葉をおっしゃった方が、やがて十字架の死を経てよみがえられた方であり、永遠の命を与えることのできる方であることを知ったときに、事情は変わってきます。
 この弟子は、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」と言っていますが、「まず」という言葉は、ギリシャ語では「第一に」という意味の言葉です。つまり、私たち人間にとって、第一に大切なのは肉親の死を悼み、葬ることだと思っているけれども、本当の第一は「わたしに従いなさい」とおっしゃるイエスさまを信じることだということを、このような言い方をなさることによって強調しておられると言えます。なぜなら、人にとって最も重大な出来事が死であるとしたら、その死の壁を打ち破って、復活と永遠の命へと導くことのできる方がイエスさまであるからです。
 このことを、変な言い方になりますが、自分が葬られる身になって考えてみたらわかりやすいと思います。つまりこの弟子の立場を逆にして考えるのです。私たちも必ず死にます。そして私たちが死んだとき、自分の子どもが自分の葬式を出してくれるといたしましょう。ところが我が子は、まだイエスキリストを信じていない。そういう我が子が、死んだ私の葬式を、何か無宗教でやるとしたらどうでしょう。あるいは事によったたら、どこかのお寺のお坊さんを呼んで葬式をしようとしたらどうでしょうか。棺桶の中からでも叫びだしたい気持ちになるでしょう。「やめてくれ!」と。「こんな葬式などしなくても良いから、まずイエスさまを信じてくれ!教会に行ってくれ!」と。それは子どもを愛するからこそ、肉親を愛するからこそ、そう言いたくなるでしょう。
 
 今日の聖書は、どこへでも従って参りますと言いながら挫折する、この弱い私たちを受け入れて十字架へ向かって下さる主のお姿が見えて参ります。そして、人間の最大の関心事である死という絶望が、復活と永遠の命という想像を絶する希望へと変えられる、その前兆が現れてきています。


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