2019年7月21日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書  イザヤ書53章3〜4
      マタイによる福音書8章14〜17
●説教 「病を担う方」

 
    ペトロの家
 
 本日、イエスさまは弟子のペトロの家に入られます。場所はガリラヤ湖畔の町、カファルナウムです。
 この新約聖書のカファルナウムの町は、現在はありません。しかし19世紀になって発掘が進み、現在ではその遺跡から当時の町が偲ばれるようになっています。そしてその遺跡には、当時のシナゴーグ、つまりイエスさまが説教されたとみられる会堂も見つかっています。そして近くには、ペトロの家の跡とされる場所もあります。土台だけしか残っていないのですが、その上には、まるでUFOかと思われるような巨大な八角形のコンクリートの建物が覆い被さるように建っています。これはペトロの家教会と呼ばれる教会で、その教会堂の内部の中央の床がガラス張りとなっていて、そこからペトロの家だという家の土台が見えるようになっています。私たちが行ったときは、入ることができませんでした。
 もちろん、その場所が本当にペトロの家の跡地なのかどうかは定かではありませんが、今は廃墟となっている場所を歩いているだけでも、今から2千年前、たしかにイエスさまがここを歩いておられたんだという実感がわいてきました。
 さて、イエスさまはペトロの家に入られました。するとペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいたと書かれています。風邪だったのか、あるいは他の病気だったのかは書かれていないので分かりません。
 しかしここで分かることは、ペトロが既婚者であったということです。ペトロは妻もおり、おしゅうとめさんもいた。おしゅうとめさんと同居していたということは、ペトロは婿養子に入っていたか、あるいは漫画のサザエさんのマスオさんのような立場だったと思われます。ペトロが婿養子であったとしたら、ちょっと肩身の狭い思いをして遠慮がちに生活していたのかなあ、などと想像することもできます。なんかそんなことを想像すると、生活のにおいを感じるような気がして、聖書の登場人物がぐっと身近に感じられるのではないでしょうか。
 聖書の登場人物は、決して私たちと無縁の人たちではありません。徳の高い人というわけでもなく、立派な人というわけでもありません。有名な人でもない。小さな事で一喜一憂するような、私たちと同じふつうの人たちです。そういう人の一人であり、ふつうの漁師であったペトロが、船と網を捨ててイエスさまに従っていったんです。ペトロの妻と、家族はどういう思いでそれをみていたかなあと、ちょっと思います。
 
    それぞれのイエスとの出会い
 
 そしてきょう、イエスさまはそのペトロの家に入られた。そしてペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいた。何の病気か書かれていないので分かりません。しかしイエスさまが、その病気を癒やされたということが書かれています。
 ちょっと振り返ってみますと、7章で山上の説教と呼ばれるイエスさまのお話が終わり、山を下りてこられてから、これで病気の癒やしの奇跡は3回連続で書かれていることになります。そうしますと、「また病気の癒やしの奇跡?一人書けば十分ではないのか?」などと思われる方もおられるかもしれません。
 たしかに、8章の最初から振り返ってみますと、まず「重い皮膚病」の方の癒やしがありました。続いて、ローマ軍の百人隊長のしもべの中風の癒やしがありました。そしてきょうの、ペトロのおしゅうとめさんの病気の癒やしです。しかもきょうの個所の16節には、人々が悪霊に取り憑かれた人をおおぜい連れてきたこと、そしてイエスさまがそれらの病人を皆いやされたということが書かれている。だったら、最初から「イエスさまが病気の人を皆いやされた」と書けば済むではないかと思われます。
 しかし聖書は、当時貴重だった紙を使って、このように別々に記しています。それにはやはり理由があるはずなんですね。十把一絡げにして「イエスさまは病気の人をたくさんいやされた」と書かずに、別々に丁寧に書いているのには理由があるはずです。そのような思いでもう一度見てみますと、これらの病気の人の一人一人は、事情も違えば、イエスさまの接し方も異なっている事が見えてきます。
 はじめの「重い皮膚病」と書かれている病気にかかっていた人ですが、この人の場合は、単なる病気ではなく、穢れた病と呼ばれた病気にかかっていました。それで町に住むことが許されず、町の外に住まなくてはならなかった。さらに、この病気以外の一日かずくときには、自ら「私は穢れた者です」と言わなくてはならなかった。人々からの偏見にさらされて生きてきたわけです。そしてこの人は、自分からイエスさまに進み出て、いやして下さるようお願いしています。
 次のローマ軍の百人隊長の場合ですが、このケースでは、百人隊長は自分の病気の癒やしを願ったのではなくて、自分のしもべ、つまり奴隷の病気をいやして下さるようお願いしています。
 そして今日のペトロのしゅうとめさんの場合ですが、この場合は、本人が病気の癒やしをお願いしているのでもなければ、ペトロがお願いしているのでもない。全くイエスさまの一方的な行為となっています。イエスさまがペトロの家に行って、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になり、イエスさまがその手に触れられると熱が去って、しゅうとめさんは起き上がってイエスさまをもてなした。つまり、誰にお願いされたのでもなく、イエスさまの方から一方的に彼女の病を癒やされています。
 ここに私たちは、キリストの癒やしとか奇跡というものが、まったくイエスさまの主権に属する行為なのだということを知ります。私たちは、どうしたら神さまやイエスさまが私たちの願いを聞いてくださるのかということに関心を持つのではないでしょうか。「このようにお願いしたらかなえて下さる」とか、「断食祈祷を何日もしたらかなえて下さる」というように考えるかもしれません。しかしもしそうだとすると、それはこの世の他の宗教で、お百度を踏んだらかなえてもらえるとか、滝に打たれて修行すればかなえてもらえるというように、どうしたら人間が神さまを操ることができるか、といような間違った方向に行きかねません。
 もちろん、イエスさまは祈り求めることを奨励しておられるのですから、熱心に祈り求めることは良いことですし、大切なことです。しかしそれでもあえて言うならば、イエスさまはイエスさま自らの意思で、事を進められるということができます。わたしたちの願いに応えるということもなさるし、ご自身のお考えでことをなさりもするということです。主導権は、私たちにあるのではなく、イエスさまにあるということです。そのイエスさまに全面的に信頼しつつ祈る。これが私たちの態度であるべきでしょう。
 
    悪霊追放と権威
 
 さて、きょうの聖書箇所では、16節に「悪霊」という言葉が出てきます。「悪霊にとりつかれた者」、そして「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」と。悪霊というと、なにかおどろおどろしい感じがいたしますが、要するに、人間の手に負えないことを「悪霊に取りつかれた」と言っていると考えればわかりやすいでしょう。当時の人々によっては、病気はほとんど手に負えないことでした。医学というものはなかった。しかしイエスさまは、その悪霊に取りつかれた人から、言葉で悪霊を追い出されたと書かれています。言葉で。
 山上の説教をイエスさまが語り終えられたとき、7章28−29節ですが、こう書かれています。
“イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。”
 この権威とは、実際に悪霊が追放されるという権威です。口先だけの権威ではない。言葉によって実際にコトが起こるという権威です。
 
    病を負われるイエス
 
 さて、このようなイエスさまのお働きを見ると、イエスさまにはとてつもない力があって、まるで超能力者か何かのように思われます。もちろん、イエスさまは神の子であると私たちは知っているわけで、神の子であるならば、そのような奇跡は朝メシ前であると思われるかもしれません。マジシャンが、ワン・ツー・スリーでマジックを行うかのようにです。
 しかしきょうの聖書箇所の最後に、マタイはひと言付け加えています。17節です。
 「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」
 これは旧約聖書、イザヤ書53章4節のことばを引用し、その預言の成就であると言っているのです。そこで旧約聖書のイザヤ書の53章をご覧下さい。新共同訳聖書では1149ページです。ここを読みますと、きっと「エッ?!」と思われると思います。この中に出てくる「彼」という人物についてです。キリスト信徒がここを読むと、この「彼」という人が誰のことを指すのか、鮮やかに浮かび上がってきます。この「彼」というのは、他ならぬイエスさまのことであると。とくに、イエスさまの受難・十字架への道行きについて、その意味について、おそらく新約聖書以上に的確に描いている。
 言っておきますが、このイザヤ書が書かれたのは、イエスさまが来られるよりも500年以上も前のことです。そんなに昔に書かれたのに、これ以上ないというほどイエスさまの受難の意味を描いている。預言されていたんです。そしてきょうのマタイによる福音書の聖書箇所で、多くの人の病気が癒されたというのは、この預言が成就したのだと言っているんです。マタイはイザヤ書53章4節のことばだけを引用していますが、ただいまはイザヤ書53章4節〜6節を読んでみたいと思います。
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彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、
わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
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 いかがでしょうか。本当を言うと、イザヤ書53章全部を読みたいのですが、どうぞあとでご自分で読んでみて下さい。今読んだところだけを見ても、イエスさまが病を癒されたのは、何か超能力のようにでもなく、マジックのようにでもないことがお分かりかと思います。それらのものは、自分自身は何も痛まないからです。
 それに対して、この預言に記されている「彼」は、私たちの病を担った、負ったと書かれているんです。病を消したんじゃない。病を代わりに負ってくださったということです。
 
    苦しみを担ってくださるイエスさま
 
 誰がいったい私たちの重荷を負うことのできる方が他にいるでしょうか?
 私の子どもが小さいとき、子どもが病気になってたいへんつらそうにしているときがありました。そのとき、私は思いました。「代われるものなら代わってやりたい」と。実際子供の親ならそのように思うでしょう。しかし私はその後、持病の発作が起こって苦しみました。そのとき思いました。「病気を代わってやるなんて、なんて傲慢なことだろうか」と。そしてその高ぶりを主にお詫びしました。
 私たちは、人の病気や苦しみを代わってやるなどと言うことはできないのです。それは傲慢であり、高ぶりです。私たちはそんな強いものではないのです。私たちに痛みやひどい苦しみが来たとき、それだけで精いっぱいです。とても人の病気や苦しみまで負えるような者ではないんです。苦しみを担うことのできる方は、ただ一人、イエスさまだけです。私はそのとき、そのことを思い知らされたんです。
 主イエスは、私たちの病、苦しみ、痛みを担い、共に歩んでくださる方です。そのしるしが、十字架です。
 先ほどのイザヤ書53章6節ですが、「その私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた」と述べられています。私たちが決してどうすることもできないもの、それが私たちの罪です。その罪を主なる神は、イエスさまに負わせられたという。それが十字架のイエスさまの姿です。それゆえ私たちは、十字架を見る度に、わたしの罪をイエスさまが負ってくださったことを思うことができます。


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