2019年7月14日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 創世記1章3節
    マタイによる福音書8章5〜13節
●説教 「あなたが信じたとおりになるように」

 
    百人隊長の信仰
 
 本日の聖書の中で、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」とイエスさまはおっしゃっています。これはたいへん注目すべき発言であると思います。そのように言われる信仰、言葉を換えて言えば模範的な信仰とはどういうものなのか? もっと言えば、イエスさまのおっしゃる信仰とはどのようなものなのか? きょうの聖書を見てまいりましょう。
 山上の説教を終え、群衆と共に山を下りられたイエスさま。前回は、穢れた病と見なされていた病気を患っていた人との出会いがありました。本日は、一人の百人隊長と出会います。場所は、ガリラヤ湖畔のカファルナウムという町でのことです。その町に入られると、一人の百人隊長がイエスさまに近づいて懇願したとあります。
 百人隊長というのは、この当時ユダヤを支配していたローマ帝国の軍人です。だいたい百人の兵士からなる部隊の隊長を率いていたのが百人隊長です。昔の日本陸軍で言えば、中隊長というようなポジションにあたるでしょう。ローマ軍では、百人隊というものが非常に重要な組織であり、百人隊ごとに任務に就くことが多かったようです。そういう意味では、当時最強と言われたローマ帝国の軍隊の中核を為す組織と言えるでしょう。その統率者が、百人隊長です。
 そして百人隊長は、ここではユダヤ人ではありません。つまり外国人だった。ただし必ずしもローマ人、イタリア人であるということではなかったようです。ローマ帝国が占領した国々からも兵が募られましたので、そういう国の人であったかもしれません。しかし少なくともユダヤ人ではありませんでした。ですから、他の国から百人隊を率いてこのユダヤに来ていた百人隊長が、イエスさまのところに来て懇願したんです。
 何をお願いしたかというと、自分の僕の病気、中風を癒してくださいということでした。中風という言い方を最近はあまり聞きませんが、要するに脳の出血によって麻痺が残っている状態です。百人隊長は、イエスさまに言いました。「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」
 イエスさまは、この人との会話のやりとりの結果、この人の信仰を賞賛されたわけです。イエスさまは、この百人隊長のどこに感心されたのか。考えてみたいと思います。
 
1.愛
 まず、この百人隊長は、「わたしの僕が中風で家に寝込んでいて」と言っています。つまり、自分の僕のためにいっしょうけんめいになっています。僕というとピンときませんが、要するに奴隷です。奴隷というのは主人の所有物です。サラリーマンと奴隷の違うところは、サラリーマンは働いた分に応じて給料をもらいますが、奴隷は給料をもらいません。なぜなら、家畜である牛や馬を買うのと同じように、主人は人間である奴隷を買ったからです。どう扱おうと主人の勝手です。死ねばまた代わりの奴隷を買うだけの話しです。しかしこの百人隊長は、その奴隷のためにいっしょうけんめい懇願しているんです。
 彼はユダヤを占領しているローマ軍の隊長ですから、もっと偉そうにしていることもできたはずです。実際、イエスさまが十字架にかけられるために十字架を担いで行かれたとき、たまたま道ばたにいたキレネ人シモンにイエスさまの十字架を無理に担がせたように、現地の人間を自由に徴用することができました。ですからイエスさまに対しても、「おい、こっちに来てオレの僕の病気を治せ」という態度を取ったとしても不思議ではない。
 しかし彼は身を低くしてイエスさまに懇願しています。しかも自分の奴隷のために。栄光あるローマ軍の百人隊長としての、見栄も体裁もかなぐり捨てて、自分たちが支配している民族の、しかも無一物のさすらいの庶民に過ぎないイエスという人に対して、身を低くして懇願しています。ここに、彼の僕に対する彼の愛を見ることができるでしょう。
 
2.罪の自覚とへりくだり
 そして、イエスさまが「わたしが行っていやしてあげよう」とおっしゃると、彼はこう答えています。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」
 「わたしはイエスさまを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではない」‥‥この「お迎えできるような者ではない」という言葉ですが、「資格がない」という意味の言葉が使われています。つまり「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできる資格はありません」と言っていると訳すことができます。
 資格がない。これはどういう意味で言っているのか。この人の言っていることから推測するに、やはりこれは自分が罪人であるということを自覚している言葉だと言えます。自分が罪人である。そのことを彼は悟っているんです。だから、自分はイエスさまを家にお迎えできるような者ではないと言っている。なぜ自分が罪人であると自覚すると、イエスさまをお迎えできるような者ではないと告白するに至るのか?
 それは、イエスさまに神を見ているからです。だから畏れ多くも、自分は神さまをお迎えできるような者ではありませんということです。そのことは、そのあと百人隊長が言った言葉でハッキリします。
 
3.イエスへの信仰
 彼は言いました。「ただ一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
 軍隊では上官の命令は絶対です。ですから百人隊長である自分が部下に「行け」と命令すれば、必ず行く。「来い」と命令すれば必ず来る。なぜなら上官に権威があるからです。上官の命令に背いたら、罰が待っています。ことによったら軍法会議にかけられ、処罰されます。だから部下は、上官の命令に逆らえない。上官は絶対的権威を持っている。それと同様に、イエスさまが一言おっしゃれば、病気は治ってしまう。癒される。病気はイエスさまのいうことを聞かざるを得ない。そういう権威をイエスさまが持っておられる。そのようにこの百人隊長は信じているんです。イエスさまが一言おっしゃれば、と。
 そのような権威はどういう権威でしょうか? 言葉にそのような力がある権威です。聖書の最初のページ、創世記の1章3節を思い起こすことができます。聖書は、初めて神が天地を創造されたことを書くことから始めます。まだこの宇宙に何もなかったとき、神は最初に光を作られたと書いています。どうやって光を造られたか?‥‥それは言葉によって造られました。
 ”神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。”(創世記1:3)
 神さまが「光あれ」と言われると、光が生まれたんです。こうして、大地、草木、生き物‥‥と、すべて神は言葉を発してお命じになることによって、すべてのものは造られました。私たちが言葉で命じても、何も起こりません。しかし神が言葉を発し、お命じになるとその通りになる。神の圧倒的な力です。それが神の権威です。
 「ただひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしのしもべは癒されます。」百人隊長は、まさにイエスさまの言葉に神の権威を見ています。さらに言うならば、彼はイエスさまに神を見ていると言えます。
 このときまだ、世の中の人々はイエスさまが何者であるかをよく知っていません。たとえば、山上の説教を人々が聞いたとき、7章28〜29節ですが、こう書かれていました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」‥‥まだイエスさまに驚いたという程度です。そこに権威を感じたが、イエスという方が一体何者であるかはよく分かっていない。
 そのようなときに、この百人隊長は、ご覧のようなやりとりで、イエスさまが神から来られた方であると信じている。それがこのような言い方になっているわけです。そして、イエスさまに全面的に信頼している。
 
    これほどの信仰
 
 そのように、この百人隊長は、自分の僕=奴隷を救うために、栄光あるローマ軍の百人隊長としての見栄やプライドをかなぐり捨て、イエスさまに懇願しました。自分が罪人であることを自覚し、このようなことをお願いできる資格もないけれども、ただ僕を救うために身を挺して懇願したのです。イエスさまの中に神を認め、全面的にイエスさまに信頼しています。
 それを見て、イエスさまは、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と周りの人々におっしゃいました。イスラエル、旧約聖書の民であり、真の神を知っているはずのイスラエルの民の中にさえ、これほどの信仰を見たことがないと。聖書を知っているということと、信じるということは違うんです。そして聖書を読んできて、イエスさまにたどり着かなかったら信仰とは言えない。ここでイエスさまがおっしゃる信仰とは、イエス・キリストを信じる信仰、イエスさまを信頼する信仰のことであることが分かります。
 
    あなたが信じたとおりに
 
 最後にイエスさまはおっしゃいました。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」そして百人隊長のしもべは、ちょうどそのときに癒されました。
 「あなたが信じたとおりになるように。」‥‥なんと祝福に満ちた、うれしい言葉でしょうか!彼は、イエスさまがお命じになったとおりになると信じていました。そしてイエスさまは、「あなたが信じたとおりになるように」と言われました。そしてその通りになりました。祝福に満ちた言葉です。
 同時に、この言葉は私たちに対して、イエスさまをどのように信じるのかが大切であることを教えています。私たちは、イエスさまをどのような方として信じるのでしょうか。
 ある時、著名な神学者の言葉を目にしました。こう書かれていました。「キリスト教はこの日本では少数派であった。これからも少数派であり続けるだろう。天皇制があるから。しかし少数派であり続けることに意味がある。」‥‥わたしは愕然としました。その先生は、日本では伝道は難しいと信じているのです。そうすると、「あなたが信じたとおりになるように」というイエスさまの言葉は、祝福ではなく、呪いの言葉となってしまいます。それでは、何のためにイエスさまを信じているのか分からなくなってしまいます。
 もちろん、このことを例に挙げたのは、人を非難しようとして申し上げたのではなく、自戒の意味を込めて申し上げたんです。私たちも、ともすると、イエスさまを信じているといいながら、否定的に、マイナスに信じてしまっていないか。「わたしには無理だから、イエスさまにも無理だ」と。「人間には無理だから、イエスさまにも無理だ」と。そう信じたら、その通りになってしまうでしょう。
 私たちは「人にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)とおっしゃったイエスさまを思い出さなければなりません。そのイエスさまに、「光あれ」と言われたら光を生み出した神を見なければならないんです。
 
    私たちに語りかける聖書の言葉
 
 以前、教団の集会に行きましたときに、そこに、被差別部落出身で部落解放運動に携わっておられた東岡山治牧師が来ておられ、先生の書かれた「盥の水を箸で廻せ」という本を買いました。その中に、先生の印象的な経験が書かれていました。
 ある時、東岡先生の奥さんがくも膜下出血で倒れたそうです。激痛と嘔吐でだんだん痩せていって、滋賀医大で手術を受けることになりました。医者は「助かるかどうか、五分五分です」と言ったそうです。東岡先生は泣き泣き、「神様、私の命を縮めてもいいから妻を助けてください」と祈ったそうです。そして手術の間、新約聖書の最初のマタイによる福音書から読んだ。そして、きょうの8章7節にきたとき、イエス様が「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた言葉がビーンと心に響いた。そして「イエス様が今集中治療室に行って癒して下さることを私は信じたのです」と本に書いておられます。結果は信じたとおりに良くなったそうです。
 そのように信じることができたのは、聖霊の助けでしょう。いくら自分でがんばって信じようとしてもできるものではありません。信じることができるように聖霊が働いてくださったのです。
 もちろん、いつも病気が癒されるわけではありません。しかし、そのときそのときで、主が最善を為してくださる。そう信じるのも信仰です。「あなたが信じたとおりになるように。」これを祝福と励ましの言葉として受け取りたいと思います。


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