2019年7月7日(日)逗子教会・主日朝礼拝説教
●聖書 レビ記 13章 45〜46節
    マタイによる福音書8章1〜4節
●説教 「イエスの手」

 
    山を下りる
 
 10ヶ月かけて、この礼拝で読んで参りましたイエスさまの「山上の説教」が前回で終わりました。山上の説教は、イエスさまのところに集まってきた群衆をみて、イエスさまが山に登られ、そこでお話しをなさったので「山上の説教」と呼ばれます。人々はふだん生活している場所から離れ、イエスさまの言葉に耳を傾けて聞いていたことでしょう。現在、山上の説教がなされたと思われる場所には教会が建っています。そしてそこからは、ガリラヤ湖を見下ろすことができます。
 マタイによる福音書では、すでに読んで参りましたように、5章から7章に山上の説教が記されていました。つまり、イエスさまが何を語られたかを書いています。そしてきょうから入ります8章から9章にかけて、今度はイエスさまが何をなさったかという、イエスさまの働きについて書き留めています。言い換えれば、山上の説教を語られたイエスさまは、どのようなことをなさったかということを書いていると言えます。
 8章は、「イエスが山を下りられると」という言葉で始まっています。山が、日常から離れた場所であったとすれば、山を下りるということは日常に戻ることになります。イエスさまと共に山に登った大勢の群衆は、現実の日常生活から離れて山に登り、イエスさまのお話しを聞きました。そしてお話しが終わって、今度は山を下りる。また現実の生活に戻るわけです。それは、私たちが教会に集まって礼拝をすることに似ているかもしれません。私たちは教会に集まり、イエスさまのみもとに腰を下ろして礼拝をします。そして、礼拝を終わって現実の生活に戻っていきます。
 しかしそれは、たとえば映画を見終わって日常生活に戻っていくのとはかなり違っています。映画館はたしかに日常から離れた隔離された空間で、私たちはそこで映画の中で展開されるドラマに興じて日常を忘れ、そして見終わってまた日常に戻っていきます。しかしあくまでも映画は娯楽であり、私たちの日常からは離れた世界です。それに対して、礼拝は現実を生きるための言葉が語られるところに決定的な違いがあると言えるでしょう。
 山上の説教を語られたイエスさまが、今耳を傾けて聞いていた群衆と共に山を降りて行かれる。そしてともに現実の中に戻って行かれるという、この光景は、まさにそのことを表しています。
 
    重い皮膚病患者
 
 すると最初にイエスさまのみもとにやって来た人と出会いました。それは「重い皮膚病」を患っている人でした。
 さて、ここで「重い皮膚病」というものについて少していねいに申し上げておかなければならないでしょう。というのは、重い皮膚病というと、今日では重いアトピー性皮膚炎のことを思い浮かべる方が多いと思うからです。たしかに、アトピー性皮膚炎で苦しんでいる方はたいへんです。薬をつけても、一時は良くなったように見えても、またひどくなるという繰り返しで、かゆくて夜も熟睡できないという方がいます。ですから、それはそれでたいへんな病だと思います。
 しかし、この聖書で言う「重い皮膚病」というのは、実はそういうものとは全く違っています。この聖書で「重い皮膚病」と日本語に訳されているものは、新約聖書の原文であるギリシャ語では「レプラ」となっています。旧約聖書のヘブライ語では「ツァラアト」となります。そしてこの言葉は、前の口語訳聖書では「らい病」と訳されていました。らい病は、今日では「ハンセン病」と呼ばれています。ただ、ではなぜこの聖書で「ハンセン病」としないで「重い皮膚病」となっているのかということですが、それは、聖書でレプラ、またはツァラアトとされている病気が、医学的に厳密に言うと今日のハンセン病に該当しないものまで含まれているからというのが一番大きな理由だそうです。
 ハンセン病は皮膚病というわけではありません。たしかに皮膚にも明らかな病状が現れますが、もっと深刻なことは、末梢神経が冒される。そして失明したり、耳や鼻や指など、体温の低いところが冒されて、欠損するということです。そしてこの病気がハンセン病と呼ばれるのは、19世紀になってノルウェーのアルマウェル・ハンセンという医師が、この病気が「らい菌」という菌によって起こることを発見したことによります。
 この病気にかかった人は、非常に恐れられました。それはやはり、症状が外見に現れるからだと言えます。見た目ですね。ですから人間がいかに外見に左右されるかということでもあります。きょうの聖書の「重い皮膚病」はハンセン病のこととは言えませんが、旧約聖書では、ここで「重い皮膚病」と訳されている病気は、穢れた病気とされていました。
 先ほどレビ記13章45〜46を読んでいただきましたが、そこに記されいたとおりです。この病気にかかった人は、自ら「私は穢れた者です」と言わなくてはいけない。そうして人が自分にちかづくことがないようにしなければならなかったのです。さらにこの病気の人は、町の中に住むことが許されなかった。町の外で住まなくてはならなかったのです。
 このことは、この日本でもかつては同じような状況でした。つい先日、ハンセン病の元患者の家族が国に対して起こした裁判で、裁判所は家族側の訴えを認め、国に対して損害賠償を払うよう命じる判決が出されたことがニュースになっていました。
 明治時代に作られた「らい予防法」という法律によって、この病気に感染した人は、全国各地に作られた国立の療養所に強制的に隔離されました。この法律自体が、ハンセン病患者さんに対する偏見を助長させたと言えます。つまりこの法律によって、国民のハンセン病に対する認識が恐怖を大きくしたという面があると言われています。この病気にかかると、家族と離れ、家を出て、隔離された療養所に行かなくてはなりませんでした。この病気を出した家も、地域の人から冷たい目で見られました。それで、家族から縁を切られる人も多くいました。病気の原因であるらい菌は、感染力が極めて弱く、しかも栄養状態が悪くて体力が落ちたような人でないと感染もいたしません。にもかかわらず、長い間差別と偏見があったのは、病気の見た目によるものと、今申し上げたように国が作った法律によるのです。
 戦後、プロミンという特効薬が発見されてからは、ハンセン病は治る病気となりました。しかし、ハンセン病によって生じた障害は元に戻りません。ですから、元患者さんという言い方をいたします。そして、長い間この病気に対する偏見だけが残り続け、病気は治っても帰る家もなく、行く当てもなく、今も全国にある療養所でひっそりと余生を過ごしておられる方がいます。
 
    御心でしたら
 
 少し長くお話しいたしました。今このように、少し詳しく申し上げましたのは、今日登場するこの病気の方の背景を私たちが想像するために参考になると考えたからです。
 つまり、きょうの聖書の出来事は、単なる病気の癒やしという奇跡が起きましたよ、ということではないということです。今ほんの少し申し上げたように、非常に重苦しい病を背負って生きなければならなかった人とイエスさまの出会いであるということです。ユダヤ社会で言えば、穢れた病とされ、家族と離れ、町を出て、同じ病気の人たちと天幕暮らしをし、物を乞うて生きなければならなかった人。穢れた病とされていたということは、エルサレムの神殿で神を礼拝することもできなかったということです。なぜなら、穢れた人は、神殿に入ることができなかったからです。そして人々はこの病気の人に触れることはなかった。なぜなら、穢れた者に触れた人もまた穢れるとされていたからです。
 そのように、病で苦しむだけではなく、人々から遠ざけられ、穢れた者と呼ばれて生きなければならなかった。その人が、今、山上の説教を終わって群衆と共に山から降りてきたイエスさまの前に進み出たということ。このことを私たちは、深く心に留めなければなりません。
 彼はイエスさまに近寄り、ひれ伏しました。この「ひれ伏す」という言葉は、これもギリシャ語では「拝む」「礼拝する」という意味がある言葉です。まだイエスさまが何者であるかも人々は分かっていない。しかしこの人は、イエスさまを拝んだ。それはイエスさまに神を見たからに他ならないでしょう。
 そして言いました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。「御心ならば」というと、なにか半分あきらめて言っているような印象を受けますが、ここを直訳すると、こんな具合になります。「主よ、あなたが望まれるのなら、あなたは私を清めることができます。」‥‥いかがでしょう。何か非常に力強く言っていることが分かるのではないでしょうか。なお「癒す」と言わずに「清める」と言っているのは、この病気が穢れた病と言われていたからです。穢れだから清める、と言っているわけです。彼は、イエスさまにはこの自分を清めることができる、癒すことができる。そういう力がイエスさまにはあると信じている。
 言い換えれば、彼は今申し上げたような重い重い人生の重荷を抱えながら生きてきて、どうにもならない自分自身の運命を抱えたまま、その自分をまるごとイエスさまの前に投げ出していると言うことができます。そして希望の一切をイエスさまに託している。「主よ、あなたが望まれるのなら、あなたは私を清めることができます。」
 イエスさまの後に従って山を下りてきた群衆は、この光景に足を止めて、穢れた病にかかっているこの人から少し距離を取り、後ずさりしながら、見つめたことでしょう。
 
    イエスの手
 
 イエスさまはどうされたか。3節です。「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」
 注意深く本文を見てください。イエスさまの動作の順序です。まずイエスさまは、その人に手を差し伸べて触れました。病気を癒す前に手を触れなさったのです。先ほど申し上げましたように、この病気にかかった人は穢れた者とされました。そして旧約聖書によれば、穢れた者に触れた人もまた穢れるのです。だから人々は、この病気にかかった人には触れませんでした。しかし、イエスさまはまず触れられたのです。清まる前に、治る前に触れられたんです。
 このことは、イエスさまがこの人の穢れを引き受けなさったと言うことができます。
 そしてイエスさまはおっしゃいました。「よろしい。清くなれ。」‥‥これも直訳すると、「私は望む、清まれ」。彼が「主よ、あなたが望まれるのなら、あなたは私を清めることができます」と言ったことに対して、「私は望む、清まれ」と言われたのです。彼が望んだように、イエスさまも望まれた。
 彼自身はどのように思っただろうかと想像いたします。先ほど申し上げましたように、彼は絶望的な重荷を背負って生きてきました。しかし、ただイエスさまに希望をつなぎ、イエスさまを信じて我が身を投げ出しました。すると、穢れた者である自分に、誰も決して触れることのない自分に、イエスさまの手が伸びてきて置かれた。そしておっしゃった。「よろしい、清くなれ」。そして癒された。
 イエスさまは、「誰にも話さないように気をつけなさい。ただ行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい」とおっしゃいました。祭司に体を見せるのは、この病気が治った場合、治ったことを証明するのは祭司であることが律法によって定められていたからです。そうしてたしかにこの病気が清められたことを確認してもらいなさいと。
 これがイエスさまのなさったことです。このような方が、山上の説教を語られたのです。そうするとイエスさまの語られた教えが、あらためて力を伴って私たちの前に示されていることが分かります。
 
    私のところにも
 
 穢れた者。考えてみれば、私たちも穢れた者であるに違いありません。なぜなら、旧約聖書で言う穢れた者とは、神の神殿の祭壇に近づくことが許されない者のことだからです。祭壇にちかづくことができないというのは、もっとわかりやすく言えば、神さまに前に出ることができない者ということです。
 私たちも、罪人ですから、本来は神さまに近づくことができない者です。きょうの聖書に登場したこの人は、外見の病から穢れた者とされていました。しかしそれよりももっと重大なのは、外見ではなく中身です。中身が穢れている。それが罪です。これは誰もどうすることもできません。
 しかしイエスさまが、まず穢れた状態であるこの人に触れられたように、罪人である私たちのところに近づいて、触れてくださる方です。この私のような者を受け入れてくださる。穢れを引き受けてくださるんです。そのイエスさまの姿が私たちの前に迫ってまいります。


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