2019年6月30日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 イザヤ書40章6〜8
    マタイによる福音書7章24〜29
●説教 「人生の土台を据える場所」

 
    どこに家を建てるか
 
 本日は、マタイによる福音書の5章から始まった、いわゆる「山上の説教」の連続講解説教の最終回となります。振り返りますと、最初に山上の説教に入りましたのが昨年の9月第一主日でしたから、今日までまるまる10ヶ月かかったことになります。それほどていねいに読み進めて参りました。その中の一つ一つのみことばは、最初は何を言っているのか分からないような言葉や、私たちから見たら常識外れのように思えた言葉も、主の恵みに満ちた言葉であることがわかる。そういうことの連続だったように思います。そして今日はその締めくくりの箇所となります
 今日の箇所でイエスさまは、「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いておこなう者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われました。そしてここでは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」と「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」の二つが比べられています。
 ここで「わたしのこれらの言葉を」と言われてますが、「これらの言葉」とは何を指しているのか。おそらくこれは、これまでの山上の説教の言葉全体を指していると思われます。すなわち、ここまでイエスさまが語ってこられた言葉のすべてです。そのイエスさまが語ってこられた言葉を、聞いて行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ていると。一方、聞いても行わない者は、砂輪の上に家を建てた愚かな人に似ていると、そのように言われています。岩の上に家を建てるのと、砂の上に家を建てるのとの違いです。
 岩は岩盤です。建物を土台で支えます。前任地の教会で、教会堂を移転新築したときに、その設計段階から建築までの一部始終を見てよく分かりました。建物を建てる前に、その土地のボーリング調査をして、硬い岩などの層が地下20メートル近くにあるということが分かる。そしてそこまで達する杭を入れる。次に、コンクリートで基礎を作っていくんですね。それに時間とお金をかけるわけです。なぜそうするかというと、地震などが来ても建物が壊れないようにするためです。もっとも、現在は、大きいビルであっても杭を使わない工法もあるそうですが。
 いっぽう、2007年に起きた能登半島地震では、能登の教会はいずれも被害を受けましたが、富来町にある富来伝道所は液状化の被害がありました。伝道所の建物は、海から近いところに建っているもともと普通の民家だったものですが、地震で建物がややゆがんだんです。調べてもらうと、地面のあちこちに砂が噴き出していました。そんなことを思い出します。
 
    岩を土台とする
 
 建物を建てるというと、私たちは、どんな建物を建てるかということにもっぱら関心を持ちます。そしてそちらにお金をかけようとします。おしゃれな建物、見栄えの良い建物、使い勝手の良い建物、リビングの間取りはこのようにして、台所はこのように作って、‥‥というふうにです。しかしきょうの聖書でイエスさまがおっしゃっておられるのは、どういう建物を建てるかということについてではなくて、どこに建てるかということです。
 そしてこのことが、建物のことをたとえとして語られていますけれども、ここでイエスさまが言われているのは、私たちの人生、私たちの生き方についておっしゃっておられるということです。私たち人間は、やはりどういう人生の建物を建てようかということに費やしていると言えるでしょう。子どもであれば、「大きくなったら何になる?」と夢を描きます。「プロ野球選手になりたい」「アイドルになりたい」「漫画家になりたい」‥‥と夢を持ちます。もう少し大きくなれば、どの学校に行くかということを目標にします。学生になれば、どこに就職をするか。社会人になれば、どう人生設計を描くか。結婚やマイホームを持つことにも心を尽くします。そしてやがて、快適で安心な老後を送るために力を尽くします。
 もちろん、これらはいずれも大切なことに違いありません。しかしきょうの聖書箇所でイエスさまがおっしゃっておられることは、どんな人生の家を建てるかということではなく、どこに私たち自身の土台を据えるかということです。それが、まず何よりも大切なことだということです。それが、岩を土台とするということです。
 では、岩を土台とするというのはどういうことでしょうか。そうしますと、聖書では、神さまが岩であるということが言われています。たとえば次の聖書箇所です。
(詩編 62:3)「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」
 これはダビデの詩です。ダビデは、人生の中で何度も嵐に見舞われました。自分が忠実に遣えていたサウル王によってねたまれ、命を狙われ、追いかけ回されました。王となってからも、自分の息子がクーデターを起こし、エルサレムを追われたこともありました。しかし、ダビデは神にすがる人でした。ダビデ自身は動揺しました。しかしダビデが頼んでいる神さまが岩となって、土台となって、ダビデをしっかりと支えていてくださいました。だからダビデは倒れることがありませんでした。
 そのダビデは、すべての敵から救い出されたときに、主に歌を献げ、次のように言いました。
(サムエル記下22:32)「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。」
 主が岩です。神さまが岩です。この方を私たちの土台とするんです。
 そして神さまの他に、岩はありません。むかし、宇宙の中心は地球だと思われていました。大地が揺るぎないもので、太陽はこの大地である地球を回っているのであると。天動説です。しかし、ガリレオが地動説を主張しました。地球が太陽のまわりを回っているのだと。しかし、やがてその太陽もまた、銀河系という無数の星の集まりの中の一つの星に過ぎず、太陽自身が私たちの地球などを引き連れて、すごいスピードで銀河系の中を移動していることがわかりました。そして太陽系を含むこの銀河も、宇宙の中では数千億個もあると言われる同じような銀河の一つに過ぎず、じっとしているのではなく、約40億年後には、私たちの銀河とアンドロメダ銀河は衝突し合体するのだそうです。
 そんなことを考えてみますと、この宇宙の中にさえ、動かない岩はないと言わなくてはなりません。しかし一人だけ、真実の岩と呼ぶことのできる方がおられる。それがこの宇宙を造られた神さまです
 
    御言葉を聞いて行う
 
 そして、岩の上に自分の家を建てるということは、具体的には、イエスさまの言葉を聞いて行う者であると言われています。
 イエスさまのみことばを聞いて行う!‥‥しかし、これは簡単に「はい分かりました」と言ってその通りにすることができないものがあります。
 たとえば、5章44節には、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という言葉がありました。また、その前の5章39節には「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という言葉がありました。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る。誰かがわたしの右の頬を打ったなら、左の頬をも向ける。‥‥これは多くの人を感動させる言葉に違いありません。ある意味、キリストの言葉で最も有名な言葉の一つと言えるかもしれません。
 しかし、では自分がそうできるかというと、これが難しい。ほぼ不可能です。どうして自分の敵を愛することができるだろうか。自分を憎み、自分を迫害し、いじめ、いやがらせをする人を、どうして愛することができるだろうか。いざ実践しようとすると、それがとうてい無理であることが分かります。ですから、そんなことはできません、というのが本当のところでしょう。
 
 韓国のソウルにある、世界最大の教会のチョー・ヨンギ牧師が『第4次元』という本で、あかししていたことを思い出しました。
 ずいぶん昔のことですが、チョー先生が、ある日曜日、その日の4回目の礼拝が終わって牧師室で休んでいる時、一人の男が入って来た。どうやら酔っぱらっているらしい。しかも、手には包丁を持っていた。チョー先生はびっくりして、男をなだめようとした。すると男が、語気も荒々しく言う。「おれは自殺をするつもりでやってきた。」「でも死ぬ前に、妻と舅と姑を刺し殺してやる。」「おれは、肺結核だ。もうすぐ死ぬ身だ。」と。
 チョー先生は、男をなだめて、とにかくどうしてそんな人殺しをしようなどと思ったか、わけを話すように説得した。すると男は、ぽつりぽつりと話し出した。‥‥彼は、ベトナム戦争に行った。お金がほしかったのだ。いつも弾がとびかう最前線で働いた。そして、かせいだお金は、自分はろくなものも食べないで、韓国の妻の所に送金した。そうして、やがてベトナムから帰ってみると、妻は若い男といっしょになって逃げていたことが分かった。彼は、その妻を捜して土下座をして「おれの所へ帰ってくれ!」と頼んだ。ところが妻は、彼を鼻であしらった。そこで、彼女の両親=舅・姑の所に行って話しをした。ところが、舅姑は1万円の金を握らせて、彼を家から追い出した。それで、ものすごい憎しみがわいてきた。そう思ったら、喀血が始まった。そして、結核がひどくなっていった。「こうなったのは、みんなあいつらのせいだ!殺してやる!」‥‥と、そういうわけだった。そして、「おれは、やつらが憎い!」と言って、歯ぎしりをして叫んだ。
 本当にひどい話しです。しかし、チョー牧師は、その憎しみを捨てるように彼に説いた。「憎しみというものは、憎む相手よりは、憎んでいる本人を滅ぼしてしまうものだ」と。そうして、イエスさまを信じてみるように勧めた。「イエスさまがあなたの心の中にはいると、神の大きな力が注がれる」。「神の御手があなたに触れて、あなたの体をいやし、あなたの人生をはじめからやり直すことができるようになる。それが、本当の復讐というものではないか」と。そして、彼を「祈りの山」に送り出した。
 彼はそこで、イエス・キリストを救い主として受け入れた。しかし、それでもなお、妻をまったく赦すことができなかった。そこで、チョー先生は、彼が妻を祝福するように迫った。「神さまが奥さんを祝福するように祈りなさい」と。すると、彼は「祝福することなどできません。呪ってやる!殺してやる!」と叫んだ。チョー先生は、さらに、「もしあなたが奥さんを祝福しないなら、いやされない。祝福はあなた自身から始まる。あなたの祝福する言葉によって、彼女にもまさってあなた自身が祝福される」と言った。
 彼は、そこに座り込んで、もがいていたが、ついに、「おお、神さま‥‥私は、妻を‥‥妻を祝福します。彼女を祝福して下さい!そして救いを与えて下さい!神よ、ああ、どうぞ彼女を祝福して下さい!」と、祝福し始めた。そして、1カ月もたたないうちに、彼の肺結核は完全にいやされた。そして、彼自身が変えられてしまった。
 1カ月後、チョー先生は彼と会ったとき、彼が本当に輝いているのを見た。「今はもう心から、妻に感謝しています。考えてみれば、自分がイエスさまにお会いできたのは、妻が私を捨てたからなんですね。今は、毎日妻のために祈っています。新しい仕事も与えられました。新しく家を建て、妻が戻ってくるのを待っています。」こうして、彼は、主の御名をほめたたえ続けていたそうです。
 
    心の貧しい者は幸い
 
 イエスさまは、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者はみな、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」と言われました。しかし、そのように言われても、私自身が「聞くだけで行わない者」、行うことのできない罪人であることを思い知るばかりです。もう自分自身にうんざりです。
 しかし、私たちは、イエスさまの山上の説教がどういう言葉で始まっていたかを思い出したいと思います。もう一度見てみましょう。
(マタイ5:3〜)「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。‥‥‥‥」
 イエスさまは言いっぱなしをされるような方ではありません。イエスさまは、聞くだけで行うことのできないこの私たちを、心の貧しい者であるこの私たちを、お見捨てになることはないのです。その証拠が十字架です。イエスさまは、心の貧しい私たちを指して「幸いだ」とおっしゃってくださり、「天の国はその人たちのものである」と言ってくださる。そのように大きな愛でまず私たちを包んでくださるんです。その上で、私たちに奇跡の手を伸ばしてくださり、良い実を結ぶように助けてくださるんです。
 イエスさまの権威とはそういう権威です。この絶望的な私たちに対して、神の力をもって導いてくださる権威です。そのイエスさまの中で歩んでいくんです。


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