2019年6月23日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教/サマリ
●聖書 イザヤ書40章6〜8節
    マタイによる福音書7章21〜23節
●説教 「天国に入る人」

 
    チコちゃん
 
 NHKテレビの「チコちゃんに叱られる」という番組は、たいへん人気の番組のようです。私も土曜日の朝、おもしろがってこれを見ているのですが、昨日の放送を見ておりましたら、その5歳児のチコちゃんが、たいへん意義深いことを言ったものですから、驚かされました。前後は省略いたしますが、チコちゃんはこのようなことを言ったんです。「人間は生きてる物の中で一番愚かだから言葉を与えられた」。
 ここにおられる方で、ご覧になった方同じように感心されたのではないでしょうか。これはある意味、たいへん聖書的な言葉ですね。まず、「言葉を与えられた」ということは、与えた方がおられるということです。それは神さまです。
 それからたしかに、生き物のうちで罪があるのは人間だけでしょう。人間が神さまに背いて罪を犯したというのは聖書の創世記に記されていることです。動物は罪を犯しませんでした。人間が愚かにも罪を犯したんです。与えられた自由意志を、神さまに背くために使ったんです。その愚かな人間を、再び神さまのもとに招くために言葉が与えられた。そう考えることもできます。
 聖書は言葉で書かれています。イエスさまも言葉をもって語られます。真の神さまは、言葉を通して私たちにメッセージを伝えられます。そして、言葉をもって教え、導いて、私たちを再び神のみもとに招いておられる。そして私たちの語る言葉が、神を賛美する言葉となるように願っておられる。(ヘブライ人への手紙13:5)「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」‥‥とある通りです。
 言葉は、罪深い私たち人間を招くために、神さまが与えてくださったものであるということができます。
 
    良い木は良い実を結ぶ
 
 先週の聖書箇所は15節からの所でした。それは「偽預言者」について警戒するように教えられている個所でした。神さまの招きの言葉を伝えるのが預言者であるとすれば、それをねじ曲げてしまうのが偽預言者です。神の言葉ではないものを、神の言葉であるかのように言う。神さまの名を使いながら自分の思い通りにしようとする言葉を語る。そのような者に注意をするように、イエスさまは語られました。
 その中で、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と言われました。木はその実を見れば良し悪しが分かるということです。たしかに、私たちが枝であるとしたら、良い木につながれば、おのずと良い実を結ぶはずです。木が良いからです。しかし、悪い木につながれば、それはおのずと悪い実を結ぶ。木が悪いからです。したがって、私たちにとって必要なことは、良い木に結びつくということです。
 そして、その良い木がイエス・キリストであるということを、前回申し上げました。イエスさまはこのようにおっしゃいました。(ヨハネ15:4〜5)「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
 私たちが、イエスさまというぶどうの木につながれば、自然に実を結ぶ。とても良い実を結ぶことなどできないようなこの自分であるにもかかわらず、イエスさまという木につながるならば、自然に良い実を結ぶ。そこに希望があります。
 さて、イエスさまという木に「つながっている」ということは、どういうことなのか。まず、木の枝は幹につながっていなければ水分が来なくなって枯れてしまいます。幹から水分・養分が来て生長するためには、つながり続けなければなりません。常につながり続けるということです。離れずにつながり続けることです。
 そして「つながっている」ということの意味ですが、原文のギリシャ語を見ますと、「とどまる」という言葉が使われています。正確に訳すと、「わたしにつながっていなさい」は、「わたしの中にとどまっていなさい」となります。「わたしの中に」と。
 キリストの中にとどまるとは、具体的にはどういうことか、と聞かれますとちょっと困りますが、まずイメージとして受け取るのが良いでしょう。たとえば、フェリーのような船に乗っていると考えてみましょう。そうするとその船の中の客室は、普通のビジネスホテルにいるかのようです。食堂もありますし、大浴場もあります。目的地の港に着くまで、快適に過ごすことができます。デッキに出れば、大海原を船が進んでいく光景を見ることができますし、遠くの陸地の景色を楽しむこともできます。しかし、船から落ちたらたいへんなことになります。そこは海であり、危険な場所です。私のような者は溺れてしまうことでしょう。けれども、船の中にいる限りは安全です。‥‥そのようなイメージを持つこともできます。
 「わたしの中にとどまっていなさい。」‥‥具体的には、礼拝をすることによって、また毎日の聖書と祈りの時間を持つことも大切でしょう。絶えず祈り、祈りをもって仕事をし、どんなことも主に感謝する。困ったことがあれば、主にすがって祈る。そういうことによって、主イエス・キリストの中に留まっていることができるでしょう。
 
    聖霊の働き
 
 しかし、それも自分の力、人間の力によっては、することができません。そのことは私が申し上げるまでもなく、みなさんよく経験されていることでしょう。自分の力では、キリストの中に留まり続けることすらできないんです。聖霊の助けが必要です。キリストの中に留まり続けることができるように、聖霊の助けを求めるんです。
 そして聖書は、聖霊が私たちに結ばせてくださる実について書いています。(ガラテヤ5:22〜23)「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」
 キリストにつながっている。そして聖霊がそれを助けてくださる。そして聖霊が、私たちにそのような実を結ばせてくださるということです。
 私は、今までにそういう人を見てきました。以前は、不平不満と文句ばかり、人の悪口ばかり言っていた人が、キリストを信じるようになって、「感謝」という言葉を口にするようになったのを。怒ったような、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた人が、柔らかな表情になったのを。そういう人を見てきました。それはその人が偉いんじゃありません。キリストの中にいた結果です。聖霊の働きのおかげです。それは奇跡です。
 
    天国に入れない人
 
 きょうの聖書箇所を見てみましょう。
 21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
 このイエスさまの言葉を読んで、ちょっとドキッとしないでしょうか。なにか、自分が天国に入れそうもないような気がするからです。
 22節に「かの日には」という言葉があります。「かの日」というのは、世の終わりの日、最後の審判の日のことです。そのときに「主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡を行ったではありませんか」と言うという。しかし、そのときイエスさまは「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言うといわれます。
 キリストの御名によって預言をし、悪霊を追放し、奇跡を行う。まさにめざましい活躍です。預言者そのものです。私たちにはとうてい及びもつかない信仰者のように見えます。この人たちが天国に入れないのなら、一体だれが入ることができるんだろう?‥‥とさえ思えます。どこが問題なのでしょう?
 
    高慢
 
 それで、もう一度、この人たちが言ってる言葉を見てみましょう。‥‥「主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡を行ったではありませんか。」‥‥「私たちは」「おこなったではありませんか」と言っています。「私たちは」と。これは正しい言い方でしょうか?これは信仰でしょうか?
 使徒言行録第3章の「美しい門」での奇跡の出来事を思い出してみましょう。使徒ペトロとヨハネが、祈るためにエルサレムの神殿に入ろうとしました。するとそこの美しい門という門のところに、生まれつき足が悪くて歩くことのできない人が物乞いをしていました。彼は、ペトロとヨハネが門から入ろうとするときに、施しを乞いました。すると二人は彼を見ていいました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい!」すると彼は、たちまち歩くことができるようになり、神を賛美しました。
 すると人々は非常に驚いて、集まって来ました。そのときペトロは人々に言いました。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。」(使徒3:12)
 ペトロは、「私たちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように」と言いました。そして3章16節でこのように言いました。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」
 つまりペトロは、私たちがこの人を歩けるようにしたのではない。イエスさまなんだと強調しているんです。わたしではなく、キリストであると!
 それと比較して、今日の聖書箇所に出てくる人々はどうでしょうか。「わたしたちは‥‥御名によって奇跡をいろいろおこなったではありませんか」と、「わたしたちは」と言っています。わたしはこんなにすばらしいことをしたんですから、天国に入れてください、と。皆さん、「自分はこんなに良いことをしたから天国に入れてください」などと言うことのできる人は、地球上に一人もいないんです。なのに、この人たちは、「わたしたちは」と言っている。これを聖書では、高慢と言うんです。
 そうではなくて、ルカによる福音書17:10でイエスさまがおっしゃっています。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
 初代教会で、異邦人の使徒と呼ばれたパウロはどうでしょうか。パウロは、キリストの福音を宣べ伝え、あるときはイエスの名によって病を癒し、悪霊を追い出し、奇跡が為されました。まさにきょうの聖書で書かれている人々と同じ奇跡が、パウロを通して為されました。そのパウロは何と語っているでしょうか。
 「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(使徒15:9-10)
 働いたのはわたしではない。わたしと共にある神の恵みなのだ、と。わたしではなくキリストです。私ではなく、キリスト。
 
    天国に入れる人
 
 ていねいに読み進めてきました「山上の説教」もあと一回で終わりです。今日の箇所も、山上の説教を締めくくる部分であるということができます。山上の説教は、どういう言葉で始まっていたかを振り返ってみたいんです。
 5章3節「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」
 自分は心が貧しい者である。とうてい天の国に入ることなどできない。しかし、その心の貧しい私たちを、幸いだと言ってくださり、天国はあなたのものだとイエスさまが言ってくださる。そうおっしゃるイエスさまが、入れてくださるんです。心が貧しい、それゆえにキリストにすがる以外にはない。キリストと共に歩む以外無い。キリストの中で生きさせていただくより他にはない。自分が心が貧しい者であると分かったときに、そのことが分かってきます。
 しかし、自分ができると思っている人は、キリストにすがらない。キリストにすがる必要がないと思うからです。自分でできる。だからすがらない。従って、神の働き、神の恵みを見ることができない。しかし、どうかそういう人も、自分が心の貧しい者であることに気がつきますように。キリストの導きがありますように。そうとりなしていきたいと思います。


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