2019年6月16日(日)逗子教会 主日・朝礼拝説教
●聖書 ホセア書14章9節
    マタイによる福音書7章15〜20節
●説教 「良い実を結ぶ木」

 
    聞く言葉に注意
 
 私たちがどんな言葉に耳を傾けるか、あるいは目にするかということは、とても重要です。なぜなら、私たち人間は言葉によって育っていくからです。
 昨年当教会の礼拝に来てくださった七尾教会の釜土先生が、あるとき、「英語を覚えるのは簡単だ」と言いました。「アメリカでは子供でも英語をしゃべっている」と。そんなことは当たり前だと思いますが、たしかになぜアメリカでは子供でも英語をしゃべっているかというと、英語をしゃべる大人に育てられ、英語が話されている環境の中で育っているからに違いありません。ですから、同じ子供が日本で育てば、その子は日本語をしゃべるようになるでしょう。そのように、自分が聞く言葉によって人間は違うように育ちます。
 聖書は、人間に罪が入り込んだのは、最初の人間であるアダムとエバが神に背いたからだと述べています(ローマ5:12)。そのアダムとエバの子孫である人類がみな罪人であるというのは、やはり罪を犯したアダムとエバに育てられた子供は、同じように神に背く傾向を持つということもできるでしょう。そうして私たち人間がその子孫であるということは、罪人によって育てられたから罪人として育つとも言えます。
 子どもの頃から文句ばかり言う親に育てられれば、やはり文句ばかり言うようになるでしょうし、憎しみの言葉ばかり聞かされて育てられれば、やはり簡単に憎しみの言葉を言うようになるでしょう。そのようなことを考えても、言葉というものがいかに大切であるかということが分かります。
 何かこんなことを話すと、自分自身のことが思い出されたり、あるいは自分の子育ての失敗を責められているように感じる方もいるかもしれませんが、実は救いがあるから言うことができるんですね。それが「良い木は良い実を結ぶ」というイエスさまの言葉です。
 
    偽預言者
 
 今日のイエスさまのお話しは、「偽預言者を警戒しなさい」という言葉で始まっています。
 偽預言者とはなにかということですが、まず預言者というものについて説明しておく必要があるでしょう。預言者というのは、日本語の聖書では「言葉を預かる者」と書きます。世間一般では、未来を予言する予告の予という漢字が使われますが、未来のことを予言するばかりではないので、銀行預金の預の字が当てられています。言葉を預かる者。誰の言葉を預かるかといえば、神さまの言葉を預かります。神さまの言葉を預かって、人々に伝える。言い換えれば、神さまの言葉を聞いて人々に伝える。それが預言者です。
 そうすると「偽預言者」というのは、神さまの言葉を預かっていない、聞いていないのに、これが神さまの言葉であると偽って人々に教える人のことを指します。織田昭先生のギリシャ語辞典によると、「神から召されていない自称預言者」という説明が為されています。つまり、預言者というのは、自分から勝手に預言者になることはできません。神さまによって預言者として立てられるんです。けれども偽預言者というのは、神さまによって預言者となるよう導かれたわけでもないのに、勝手に預言者を名乗る人ということになります。
 これは現在の教会の牧師も似たようなところがあります。たとえば東京神学大学に入るには、英語だとか社会科だとか、そういう一般大学に入るための科目がよくできるかできないかということは、あまり関係ありません。では何が必要なのかといえば、それは「召命感」というものです。自分が勝手に伝道者になろうとするのではなく、神さまの導きがあって伝道者になろうとしているのかどうかということが問われます。他の神学校はどうか知りませんが、少なくとも東京神学大学ではそのようなことが問われます。
 しかし偽預言者というのは、神さまから召されたわけでもないのに、勝手に「これが神の言葉である」という人たちです。神の言葉ではないものを神の言葉であると偽って人々に語る。神さまという存在は、人間にとって絶対ですから、神さまの言葉ではないものを神さまの言葉であると言ってだまして語ったら、それは人々が惑わされることになります。たいへん危険です。そして真の神さまの言葉が、ねじ曲げられてしまうことになります。
 
    羊の皮をまとった狼
 
 それらの偽預言者と呼ばれる人々は、「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」と、イエスさまがおっしゃっています。羊の皮をかぶった狼です。見た目は従順な羊を装っているけれども、実は中身は私たちを食い物にする狼である。つまり、本当の正体を隠して来るということです。
 つまりそれは詐欺です。振り込め詐欺とも言われる「オレオレ詐欺」が、息子を装って電話をしてきて、困っているから助けてくれという。しかしそれは息子を装った詐欺であるわけです。
 宗教の名をかたるものもあります。今は教祖が死んで、名前も世界平和統一家庭連合と改称した団体、つまり統一協会と呼ばれる「世界キリスト教統一神霊協会」もそれです。かつて、歌手の桜田淳子さんが入信したことで話題を呼びました。また、この団体は教祖の指名した相手と結婚する合同結婚式でも有名になりましたし、何よりもただの壺や印鑑を、霊験あらたかと偽って法外な値段で売りつける霊感商法で社会問題となりました。
 以前、私は、その統一協会の脱会者の方が書いた、『マインド・コントロールされていた私』(日本基督教団出版局)という本を読みました。それによると、この本の著者であるMさんが統一協会に出会ったのは大学に入学してからのことでした。あるときMさんは、学校の仕事を手伝って、Aさんという同級生である女学生と一緒に働くことになりました。そのAさんは気さくで明るく、面倒な仕事も率先して引き受けたりするような人だったそうです。−−これは、あとになってMさんが統一協会に入信してからAさんが打ち明けてくれたそうですが、最初から統一協会に勧誘する目的で、学校の仕事を手伝ったのだそうです。学校の仕事を手伝うような人は人は、何か人の役に立ちたいという意識の高い学生がいるからだと。そういう真面目な人に狙いを定めるのだそうです。−−さて、あるときMさんは、Aさんから、自分の尊敬する先輩に合わせたいと誘われ、アパートの一室に案内されたそうです。すると25歳くらいの女性が迎え入れ、「好青年ですね」と会うなりほめまくる。そして話が弾んで、手作りのクッキーも出され、和やかな雰囲気の中で話しが盛り上がってきたときに、その女性から「あなたが言っていることは<原理>と似ていますね」と言われた。そのとき、Mさんは、これは原理研(統一協会の学生組織)だと気がついて、だまされたと知って怒りのあまり、出て行こうとした。するとAさんが、涙ながらにわびて許しを乞うたそうです。それで、「本当にそんな危険な団体なのかを確かめてやろう」という好奇心もあって、話を聞くことにした。そして「いつでもやめられる」という思いで、統一協会の協議をビデオで見たそうです。それは聖書に関する独特な解釈だったそうです。そして修練会という名の勉強会に誘われて、一回だけのつもりで出かけて行った。‥‥あとは、統一協会の、非常によく研究されたマインドコントロールのプラグラムに乗っけられていくわけです。そして、やがて再臨のメシアが文鮮明教祖であるということが明かされる。2千年前、イエスが目的を達成できずに失敗して十字架にかけられて死んでしまったが、真実のメシアである文鮮明教祖が人類を救うと紹介される。‥‥やがてMさん自身が、統一協会の信者として今度は勧誘する側となり、霊感商法によって人をだまして商品を売りつける側になってしまうに至ります。しかもそれは、買ってくれた人を救うためだからだましても良いのだという理屈に洗脳されている。‥‥
 しかしその再臨のキリストだという教祖は、女性との不倫と淫行をくり返し、アメリカに大豪邸を持ってぜいたくな暮らしをしていたわけです。それを見れば、この団体の本当の目的が分かるわけです。
 きょうの聖書箇所、16節でイエスさまは「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」とおっしゃいました。言っていることが本当に神さまの言葉であるのかどうか、それはその言葉を語っている人、聞いた人が、その言葉によってどういう実を結ぶかで分かるのだとおっしゃいます。
 
    良い木は良い実
 
 17節で「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と言われています。そう言われますと、ちょとドキッとするところがないでしょうか。「自分はキリストを信じているのだけれども、果たして良い実を結んでいるのだろうか?」と思う。とても良い実を結んでいるようには思えないわけです。
 しかし逆に考えてみますと、「自分は良い実を結んでいます。こんなに隣人を愛しています。親切にしています。善良になりました。‥‥」と言う人がいたとしたら、それはちょっといかがなものかと思いませんか。マザー・テレサでさえ、80歳の誕生日にこう言いました。「まだ神の導きに対し、ほんの少ししか役にたっていません」。ですから、もう私なんかは全然良い実を結んでいないと思われるわけです。
 しかしイエスさまは言われました。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」この場合、私たちにとって「木」にあたるものは何でしょうか?‥‥それはイエスさまです。私たちは次のイエスさまの御言葉を思い起こしたいと思います。
(ヨハネ 15:5)"わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。"
 イエスさまがぶどうの木であると言われています。そして私たちがそのぶどうの木につながる枝であると言われています。イエスさまは良い木でしょうか、悪い木でしょうか?‥‥もちろん、良い木です。そして枝が実を結ぶためにはどうしたらよいでしょうか?‥‥枝ががんばって良い実を結ぼうとすることが必要なのでしょうか?
 
    イエス・キリストにつながる
 
 そうではなく、きょうの聖書の言葉、17節18節では、良い木が必ず良い実を結ぶと言われています。木が良いから、その木につながっていさえすれば、当然良い実を結ぶ。木が良いから、良い実を結ぶ。それだけのことです。それで先ほどのヨハネによる福音書の15章では、イエスさまは次のようにおっしゃっています。
(ヨハネ 15:4)"わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。"
 主イエスは「わたしにつながっていなさい」と言われます。教祖につながるのではありません。牧師につながるのでもありません。イエスさまにつながるんです。枝は、木の幹につながっていさえすれば、必然的に実を結びます。それと同じように、枝である私たちは、イエスさまという木につながる。つながり続ける。そうすれば必ず実を結ぶのだという、これはイエスさまの約束です。
 この私が良い実を結ぶ? 信じられない。しかしそれは枝である私たちが良いから良い実を結ぶのではなく、木が良いから私たちが良い実を結ぶのです。私はこの言葉を聞いて、本当に救われます。この私のような者が、良い実を結ぶという。結ばせてくださるという。信じられないようなことですが、そうだとイエスさまはおっしゃっているんです。何という恵みでしょう。
 なぜそういうことをしてくださるのか? それがイエス・キリストの愛です。愛には理由がありません。
 最後の19節で、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言われています。そうすると、「実を結ばないと切り倒されて火に投げ込まれるんじゃないか」と思うかもしれませんが、切り倒されるのは「木」です。今日のところで言えば、偽預言者、つまり神の言葉ではないものを神の言葉だと偽って語る人です。
 これは教会にとっても厳粛な言葉です。教会で語られる説教が、神の御心に沿って正しく語られなければならないということでもあります。それゆえ、教会の講壇で牧師が神の御心を曲げたりしないで正しく説教を語ることができるよう、教会の祈りが必要です。そして今日もそのように祈ってくださいました。
 「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」私たちの木であるイエスさまが良い木なので、私たちは必ず良い実を結ぶと言われます。私たちが罪人であっても、イエスさまが良い木なので良い実を結ぶ。ここに救いがあります。

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