2019年6月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ホセア書6章3節
    マタイによる福音書7章13〜14節
●説教 「狭き門」

 
    広い門と狭い門とは
 
 「狭い門から入りなさい」とイエスさまは言われました。
 狭い門と言いますと、すぐに思いつくのは、おそらく難関の学校に入ることではないでしょうか。「倍率10倍の狭き門」などと報道されたりします。多くの人がその学校に入ることを望み、試験に合格するのが難しい。そのように、多くの人が入ろうとするけれども、入学できる定員は決まっていて、入ることが難しい。そのような時に、「狭き門」という言い方がなされます。「狭い門」と言われずに、「狭き門」と文語調で言われるのは、おそらくフランスの小説家であるアンドレ・ジッドが書いた「狭き門」という有名な小説を意識してのことでしょう。そのように、多くの人が入ろうとするけれども入るのが難しいことを狭き門と言います。
 しかし、イエスさまがおっしゃった狭き門は、そのようなものとは違っています。むしろ、多くの人が入ろうとしない門です。また、入るのが難しいというわけでもなさそうです。たくさん勉強をしなければならないというわけでもない。また、きびしい苦行、難行、荒行などをしなければならないというわけでもありません。そうすると一体どこが狭き門であるかということになりますが、イエスさまがおっしゃっていることについて注意深く見てみましょう。
 今日の箇所でイエスさまは、広い門と狭い門という、二つの門を比べておっしゃっています。多くの人が入ろうとするのは広い門であり、そちらは道も広々としている。一方、狭い門の方は、道も細く、それを見出す人が少ないと言われます。すなわち、狭い門とは、難関の大学の入学試験のように、希望者が多いけれども入ることのできる人数が決まっているので、入るのが難しいというようなことではないことが分かります。道が細く、見出す人が少ないので狭い門と言われている。
 毎年大晦日の夜、NHKテレビでは紅白歌合戦が終わりますと、「ゆく年くる年」という年越しの番組が始まります。それを見ておりますと、多くの神社や仏閣に初詣にお参りする人の姿があります。とくに有名な神社・仏閣には夜中から大勢の人が詰めかけます。そういう神社や仏閣は建物も大きいし、門も広いです。やはり有名だから多くの人が参拝に訪れるのか、大きい建物だから安心感があるのか、多くの人が行くということは御利益がありそうに思われるのか、やはりみんなが行くから行くという感じになっているのではないかと思われます。
 それに対して、教会の初詣、まあ教会では元旦礼拝と呼びますが、そちらに来る一般の方は極めて少ない。教会の元旦礼拝は、いつ来ても良いというわけではなく時刻が決まっていますし、要する時間も1時間くらいかかるということで長く感じるということもあるでしょうけれども、御利益がありそうもないと思われるのかどうか分かりませんが、やはりみんなが行くという訳でもないからということも大きいのではないかと思います。
 そのように、ここで言う広い門、狭い門というのは、入りたいのだけれども入るのが難しいとかやさしいとかいうことではなく、見栄えの良し悪しとか、多くの人が選びたくなるかどうかということであると言えます。
 
    イエス・キリストの門
 
 そしてさらに問題は、広い門は滅びに通じており、狭い門の方は命に通じているということです。これはすごく大きな問題です。滅びか命かと言われるのです!
 すなわち、多くの人々が滅びに通じる広い道を歩んでおり、命に通じる狭い門を見出さないでいると言われるんです。
 では、その狭い門とは一体何を指しているのでしょうか?‥‥それはイエス・キリストを指しています。たとえば次の聖句があります。
 (ヨハネ10:9)「わたしは門である。わたしを通って入るものは救われる」。
 イエスさまが門であり、狭い門であるということになります。では、なぜイエスさまが狭い門なのでしょうか?
 ここで言われている狭い門というのは、入ることが難しいというわけではないと先ほど申し上げました。実際、イエス・キリストの救いに与るためには、難行・苦行・荒行が必要ではありません。あるいは何か功徳を積むとか、善行を重ねるなどして立派な人にならなければならないのでもありません。また、ファリサイ派の人々のように、週に二度断食するなどの厳しい戒律を守ることを要求しているのでもありません。イエス・キリストの救いに与るためには、ただイエス・キリストを信じて告白するだけで救われます。どんな罪人でも救われます。極めて簡単であり、単純明快なことです。
 ところが、今日の14節で言われていますように、その門は狭く、その道も細いという。そしてそれを見出すものが少ないと言われます。これは一体どういうことなのでしょうか?
 いくつかの理由が考えられます。一つには、必要を感じないということがあるでしょう。言い換えれば、救いを求めるということをしない。間に合っているわけです。あるいはまた、誤解や偏見があるということもあるでしょう。キリスト教に対する誤解や偏見ですね。あるいはまた、キリストという方が全くつまらない方のように思われるということもあるでしょう。
 そういうさまざまな原因や理由があって、キリストという門から入ろうとしない。そもそも求めることもしないから、そのような門があることすら気がつかない。あるいは、みすぼらしい狭くて小さい門に見えるというわけです。容易に入ることができるのだけれども、入ろうとしないし、見つけようともしない。それは、かつての自分自身がそうであったと思うんです。
 
    門に気がつく時
 
 しかし、人間、その狭くて小さくて見栄えのしないように見えた門から入る機会が与えられます。先週月曜日の夜、NHKテレビの「逆転人生」という番組で、「ヤクザから牧師へ壮絶な転身、人生はやり直せる」という放送がなされました。その前の日の日曜日の礼拝説教で、私がヤクザからクリスチャンになった人のことをご紹介しましたが、それとは別の人です。NHKテレビに登場した牧師は、シロアム・キリスト教会の鈴木啓之という牧師で、私は以前この鈴木先生の本を読んで、いたく感動したことがあります。
 テレビでも紹介されていましたが、鈴木先生はヤクザに助けられたことがきっかけて任侠道の道に入ります。そして博徒(ばくちうち)になる。一時は儲かって羽振りがよかったのですが、失敗して借金を重ね、ついにはその追求から逃れて東京へ逃げていく。そして恐怖と孤独の日々を過ごしている内に、絶望的になり町をさまよう。そうするといつの間にか教会の門の前に来ていた。そしてその中に入ったことで、人生が転換しました。そしてやがて牧師になります。
 かつては教会などというものは考えもしなかったことでしょう。しかし、そのキリストの門をくぐる時が来たのです。
 
    私たちについても
 
 しかしこのことは、まだキリストを知らない人たちのことばかりではなく、私たちについても言えることだと思います。「山上の説教」を丁寧に読んでまいりました。そしていよいよこの山上の説教も終わりに近づいてきました。そこにこの御言葉がある。つまりイエスさまは、今まで述べられた教えをまとめたような形で言われるんです。「狭い門から入りなさい」と。これもまた決断を私たちに求めている言葉です。私たちは山上の説教を通して聞いてきたイエスさまの御言葉。それを思い出してください。それは私たちの常識とは違う言葉の数々がつづられていました。
 それは、5章3節の「心の貧しい人々は幸いである」という御言葉で始まっていました。常識で考えたら、「心の貧しい人々」が幸いであるはずがない。むしろ不幸です。しかし実はこの私たちが他でもない「心の貧しい者」であることに気づく。このわたしという人間が、弱く、愚かな、救いがたい罪人であることに気づく。その時こそ、このイエスさまの言葉が心に迫ってくるのでした。その自分に対して、イエスさまが救いの手を差し伸べておられるということがわかるのでした。
 また山上の説教では、「赦す」ということが求められていました。「赦す」ということも、私たち人間にはとても難しいことです。人が自分に対して犯した過ちを赦すということは、とてつもなくつらく、また損をすることのように思えたのでした。しかしこれも、じつはこの私自身こそ、イエスさまによって赦していただかなくてはどうしようもない人間であることが分かったときに、イエスさまが赦してくださったことの尊さが分かるのでした。その時に、自分はイエスさまから大きな過ちを赦していただいたということが分かってくると、自分に悪を働いた人を赦そうという思いになるのでした。
 このように山上の説教は、すでにキリストの門を通った者にとっても、語られているものです。「狭い門から入りなさい」と。それはイエスさまの御言葉に耳を傾けて、イエスさまに従っていくことです。そしてそれは、決して険しい山を登り、厳しい修行をしなければ救われないというものではなく、むしろ反対に、私たちを癒し、私たちの重荷を下ろさせ、神にゆだねる平安な道なのです。
 
    「狭い門」とは、へりくだること
 
 わたしの最初の任地で、「心の友」を配布していました。教会に毎月決まった部数が来る。そのうちのほとんどは、名簿に従って決まった人に配るのですが、いくらか余ります。それで余ったものを、民家のポストに入れて配っていたことがありました。ある家の前で、そこの家のおじいさんがいたので、「心の友」を手渡しました。すると、その人はちょっと見て、「キリスト教か。間に合っている。いらん。キリストに世話になるほど落ちぶれておらん!」と言って、突っ返されたことを思い出します。
 「自分は、キリストに世話にならなければならないほど落ちぶれていない」。‥‥落ちぶれているんです。実は。みんな落ちぶれているんです。本当は。その落ちぶれていて、十字架にかかってくださったイエス・キリストの世話にならなければ、どうにもならない自分に気がついた時に、山上の説教の冒頭の言葉、「心の貧しい者は幸いである。天の国はその人たちのものである」というイエスさまの御言葉が、かけがえもなくありがたい言葉として、癒やしと祝福の言葉として聞こえてくるのです。それゆえ、「狭い門から入りなさい」という本日のみことばは、「自分が救いを必要としていることに気づけ!」という言葉であるということができます。「自分が心の貧しい者であることに気がつきなさい!」「キリストなしにはどうすることもできない自分であることに気づきなさい!」‥‥そういう言葉であります。
 
    神の恵みは低い所に流れる
 
 三浦綾子さんの小説に「千利休とその妻たち」という本があります。その中に、茶道の茶室の造りについて、その由来を記している部分があります。
 三浦綾子さんは、茶室の躙(にじ)り口は、この「狭き門」のところから千利休が考案したという説を採用しています。時は戦国時代。利休の妻であったおりきが、教会で聞いた「狭き門より入れ」の話を利休に話す。「天国に人が入るためには、すべての持ち物を捨てなければならない。身分という持ち物も、財産という持ち物も、学問という持ち物も‥‥」という説教の話を利休に話すんです。それはちょうど、利休が新しい茶室の造りについて、頭を悩ませていたところでした。そのおりきの話を聞いて、利休は、「おごり高ぶる者は、茶室には入れぬ」という茶の湯の精神をあらわそうとするのです。そして、「茶室にはいるには、天国にはいるのと同じように、大名と言えど、天下人と言えど、一様にへりくだらなければならぬ」と言って、膝をにじらなければ入ることができない、狭い小さな躙り口を考案したのです。
 自分が心の貧しい者であることに気づく。自分が罪人であることに気がつく。いや、罪が何であるのかさえも分からない罪人であることを認める。そのときに、今まで見過ごしていたイエス・キリストという門が、自分の前に開けていることを見出します。

[説教の見出しページに戻る]