2019年5月26日(日)逗子教会 主日朝礼拝説教
●聖書 イザヤ書 55章6節
マタイによる福音書7章7〜12節
●説教 「求めよ!との声」
求めよ!との励まし
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
力強い言葉です。大きな励ましのことばです。そして深い深い、癒やしの言葉です。この世の中では、求めても与えられないことの方が多いと言ってよいでしょう。私たちはさまざまな物を求めます。願います。しかし多くは与えられない。だからあきらめて生きている人は多い。「人生だいたいこんなものだ」と思っている人が多いでしょう。
そのようなとき、このイエスさまの御言葉はなんと力強いことでしょうか。求めれば与えられるとおっしゃるんです。探せば見つかると言われるんです。門をたたけば開けてもらえると言われるんです。
ただ、イエスさまがこの言葉をおっしゃる時、これは誰に向かって求めるのか、ということが、この世の多くの人のしていることと違う点です。イエスさまは、父なる神に向かって求めなさいとおっしゃっているんです。漠然と求めるんじゃない。神さまに向かって、イエスさまのお名前によって求めなさいということです。すなわち、私たちの神さまはそういう方であるということです。求めるならば与えてくださる方であると。
しかもイエスさまは、8節で「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と言われる。これはイエスさまの約束です。「だれでも」とおっしゃっています。私はこの「だれでも」という言葉に救われるんです。「だれでも」といわれる以上、この私も入っているはずです。この「だれでも」がなかったら、「やっぱり自分だけは例外だ。多くの人は求めたら与えられるかもしれないが、私はダメだ」と思うでしょう。しかしイエスさまは、「だれでも」とおっしゃっています。これはものすごい励ましであり、慰めです。
求め続けよ
さて、この「求めなさい」という言葉ですが、もう少し詳しく言うと、ギリシャ語の文法で言えば、一回限りの「求めなさい」ではないんですね。少し強調して訳すと、「求め続けなさい」というような意味になるんです。熱心に求めると言っても良いでしょう。そういう「求めなさい」なんです。これは次の「探しなさい」そして「門をたたきなさい」も同じです。探し続け、門をたたき続けるんです。熱心に。
以前、北海道の酪農学園大学の特別礼拝で説教するように招かれたことがありました。そのとき、当時の宗教主任の山口先生が、自分が死ぬかもしれないと思った体験談を話してくれました。こういう体験です。‥‥或る冬の夜のこと、すごい吹雪になったそうです。そして地吹雪になると全く前が見えなくなる。そんな中を自動車で家に帰る途中、ついに雪の吹き溜まりに車が突っ込んで、動かなくなってしまったそうです。外は氷点下十度以下。ほかに車は全く通らない道。そのまま車で過ごせば良いではないかと思いますが、北海道では時々そうやって死ぬ人がいるそうです。ガソリンが無くなってしまえば暖房もできませんしこごえ死んでしまう。また排気管が雪で詰まってしまうと、排気ガスが逆流して命に関わる。ですからとにかく、車を雪の中から掻き出さなければいけない。ところが運悪く、ちょうど車にはスコップが積んでなかったそうです。それで車を出て、どこかに家はないかと道を歩いて探し始めたそうです。外は猛吹雪。しかも、先生はコートもジャンパーも何も他に持っていなかった。ただいつもと同じ背広を着て、背広の下はワイシャツ1枚だったというのです。それで氷点下十何度の夜の吹雪の中を歩いて家を探しに出た。それだけでも命がけです。ところが行けども行けども家1件ない。さすがに死ぬかと思ったそうです。しかし車に戻っても死ぬしかありません。そうしてあきらめかけたとき、ようやく1件の農家があるのを見つけたそうです。それで、ドアを必至にたたいた。しかし何の返事もない。いないのでしょうか。見ると、外にスコップが立てかけてあった。それで申し訳ないが、黙ってそれを借りたというのです。そしてまた吹雪の中を戻って、車を雪の中から掻き出し、ようやくの思いで脱出して家に戻ることができたそうです。
先生は、スコップ一本を探して歩いて、見つけるまで探したのです。この場合、少し探して「ないや」と言ってあきらめるでしょうか?そんなことはないでしょう。誰だって、必至になって探すはずです。
きょうの御言葉の、「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」という言葉は、そのようないわば「熱心に求め続ける」「熱心に探し続ける」「熱心に門をたたき続ける」というような意味の言葉です。
言い換えれば、「求めなさい。そうすれば与えられる」という言葉は、何か格言か人生訓のようなものではないのです。この世の現実の中に生きる私たちに対する、イエスさまの約束の言葉です。
良いものを与える神
さて、ここで当然起こってくる疑問は、「では何でも求めれば与えてくださるのか?」ということでしょう。すなわち、わたしたちが願ったとおり、思い通りにかなえて下さるのか?ということです。
それについては続いてイエスさまがおっしゃっています。9〜11節です。「あなたがたのうちのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることをしっている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない。」
我が子がパンを欲しがるのに石を与え、魚を欲しがるのに蛇を与えたとしたら、それはもうほとんど虐待と言えるでしょう。私たちの天の父なる神さまは、そんな方ではありません。私たちに良い物をくださる方だと、イエスさまは言われるのです。
では、こういうのはどうでしょうか。たとえば、子供がサソリを欲しがったとしたらどうでしょう?子供は幼くて、サソリという生き物が猛毒を持った生き物だということを知らない。それでサソリを格好いいと思って、サソリを欲しがった。そうしたら父親はサソリを与えるんでしょうか?‥‥与えないでしょう。なぜならその生き物が猛毒を持った生き物であることを、父親は知っているからです。だから子供がサソリを求めたとしたら、それを与えません。
同じように、私たちがたとえば神さまに麻薬を与えてくれるように求めたとしたらどうでしょうか?先週、テレビでは芸能人が麻薬で捕まったことが報道されていました。麻薬や覚醒剤を神さまに求めたとしたら、父なる神さまは与えてくださるでしょうか?‥‥与えてくださらないでしょう。なぜなら、それが私たちのためにはならないことをご存じだからです。
麻薬や覚醒剤なら、そんな物が良くないことは誰でも知っているでしょう。しかし、私たちが自分では「良い物」であると思っても、神さまからみると「良い物」ではないということがあるでしょう。私たちには分からないのだけれども、神さまから見るとそれは良い物ではないという場合です。
あるいは、今はそれを与える時ではないということがあるでしょう。たとえば、子供がコーヒーを求めても、親は与えないと思います。しかし大きくなったら与えるでしょう。そのように、今はそれを与える時ではないと、神さまが思われたような場合です。それを与える時というものがあるということです。そういうことを父なる神さまは、私たちを愛しているからこそ、お考えになる。
そういうことが、11節の「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」という言葉に表れていると言うことができます。私たちの求めに対して、父なる神さまは、良い物をくださる。今、それが私たちにとって良い物をくださる。親が子の成長を願うように、父なる神さまは、私たちが成長していくために良い物をくださる。そういうことです。
求める者に対して
私たちは、この山上の説教で学んだみことばを思い出さないでしょうか。それは6章9節です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」私たちの父なる神さまが、私たちを愛しておられる天の父であるならば、良い物をくださるのであり、何が必要であるかもご存じである。‥‥だとしたら、何も求める必要はないではないか?と思われるでしょう。
しかし、求める必要がないのではありません。なぜならきょうの聖書で、イエスさまがおっしゃっていることをもう一度読んでみれば分かります。11節の後半です。
「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない。」
「求める者に良い物をくださる」と言っておられます。「求める者に」と。
良いものへと導かれる主
あるとき、大物のヤクザの組長が回心したお話しを聞きました。Yさんとしておきましょう。この人は、かつて覚醒剤の元締めの組長でした。しかし結婚した奥さんが韓国人で、熱心なクリスチャンでした。Yさんは、それが気に入らなくて、3年間、奥さんをいじめ抜いたそうです。それでも奥さんは屈しなかった。殴られても蹴られても、「イエスさま信じなさい」「イエスさま信じたらすばらしいですよ」と言い続け、また祈り続けたんです。 あんまり奥さんが熱心に祈るものだから、組の運営がだんだんうまくいかなくなった。つまりそれは、神さまがヤクザの事業をつぶしにかかられたのです。それで、何十億とあったお金が、どんどん無くなって、借金がかさむようになったそうです。それでようやく、クリスチャンの奥さんの方を向くようになって、一緒に教会に通うようになった。しかしその時は、とにかくお金がほしいから教会に行ってお祈りしたのだそうです。それは奥さんの祈りがあんまりよく聞かれるのをみてきたから。だから、「神さまお金下さい」と祈ったそうです。しかし祈っているうちに、だんだん清められたというのです。熱心に祈っているうちに、「ああ、これは祈ったらあかんのやなあ」「ああ、これも祈ったらダメなんだなあ」ということが、どんどん分かってくる。言い換えれば、祈ることによって、神さまご自身が教えてくださっていったということです。
そうして、ある時、組の若い衆が他の組のもんにひどい目にあった。「おやっさん、どうしましょうか?」と言われた。教会へ通う前の自分だったら、拳銃渡して「やってこい!」と言ったものだそうです。しかし、神に祈るようになっていたその時、はじめて「恐れ」の気持ちが来たのだそうです。ケンカが恐ろしくなったら、ヤクザをやっていられない。それでヤクザをやめたそうです。そうしてクリスチャンとなってしまった。ついに、奥さんの祈りが聞かれたのです。
彼は、最初奥さんと一緒に教会へ行って祈り始めたときは、お金がほしい、ということで、それは私たちが聞いたら目を丸くしそうなひどい祈りだったかもしれません。しかし神さまはその祈りに耳をふさがずに、ちゃんとつきあってくださったのです。その祈り自体はかなえられなかったかもしれない。しかしもっと良い道を開いてくださった。そして、その祈りを通して、逆に彼を導き、清め、何が正しいことで何が悪いことかを教えてくださっていったのです。 言い換えれば、父なる神さまは、求める者に対して、良き物をお与えになり、良き道を開いてくださったのであります。
人にしてもらいたいと思うことを
最後の12節の言葉。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」これはキリスト教の「黄金律」と呼ばれる言葉です。
これに似たような言葉がユダヤ教の中にありました。それは、「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」(トビト記4:15)というものです。これは孔子の論語の中にも似たような言葉があるそうです。それは孔子が弟子から、「一生守ることができる徳目はないでしょうか」と聞かれたときに、「己の欲せざる所は人に施す勿れ(自分がして欲しくないことを、人にするべきではない)」と答えたそうです。
それらに比べると、イエスさまの言葉は、一歩踏み込んだ言葉です。「自分がしてほしくないことを、他人にしてはならない」という禁止の言葉ではなく、「しなさい」という能動的、積極的な言葉です。なにかをするということは、ちょっとお節介な面があると思います。何かをするということは、何もしないということに比べて、面倒なこと、あるいは危険をはらんでいます。しなければ自分は安全です。しかし何かをするということは、人に関わることになります。その結果、失敗をすることもあり得ます。自分が傷つくことになるかもしれない。
しかしイエスさまは、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とおっしゃる。それは、今学んだように、父なる神さまが私たちに良き物を与えようとして、積極的に関わってくださることに端を発していると言えるでしょう。そして父なる神さまは、イエスさまを十字架に送られました。言い方は変ですけれども、私たちが頼みもしないのに、私たちを救うためにイエスさまを十字架に送られたんです。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。
今、私が、最も良かったと思うことは何だろうかと考えました。すぐに答えが出ました。それは、私がキリストに出会い、本当の神さまを知ったことです。しかしそのためには、つまり私がキリストの元に導かれるためには、多くのクリスチャンの祈りがあったのだと思います。そして多くのクリスチャンの助けがあった。そして神さまを知った。これはかけがえのないことでした。それに勝るものはないと思っております。それゆえ私も、隣人の救いのために祈る者でありたいと願っております。
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