2019年5月19日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編51:19
    マタイによる福音書7章 1〜6
●説教 「他山の石と丸太」

 
    人を裁くとは、相手を見下すこと
 
 今日、イエスさまは「人を裁くな」とお命じになっています。
 裁くな、ということは、裁判をしてはならないということではありません。すなわち、イエスさまは、この世の裁判制度を否定しているのでもなく、裁判官を非難しておられるのでもありません。イエスさまが「裁くな」とおっしゃっておられるのは、私たちの身近な日常生活において、わたしたち自身が人を裁くことについておっしゃっておられるんです。つまり、他人の悪口を言うとか、欠点をあげつらったり、断罪したりするようなことです。
 ここで「裁く」と日本語に訳されている言葉は、「分ける」という意味のある言葉が使われています。分ける。それはたとえば、「オレはあいつとは違う」というように、その人と自分とを分けることです。そのとき、自分のほうが高い所にいて、相手を見下して言う。そういうことです。
 先ほど、この世の裁判制度のことではないと申し上げましたが、分かり易くするために裁判のことを例に挙げてみますと、裁判官は被告に判決を下すことができます。被告に対して、圧倒的に優越的な立場にいるわけです。それと同じように、人を裁くというのは、自分が裁判長の席に座り、相手を被告席に置いて判決を下す。そのとき、裁判長自身の資質であるとか、人間性ということは一切問われません。裁判官は、ただ被告を裁くのが仕事だからです。
 そのように、一方的に人を裁く。あるいは自分のほうが高い所にいて、相手を見下す。それが人を裁くということであり、それに対してイエスさまは「人を裁くな」とお命じになっているわけです。
 そうなりますと、これはかなり私たちにとって非常に身近な事柄であることが分かります。なぜなら、私たちは、他人の悪口を言ったり、他人のことを批判することが好きだからです。ちなみに、先週一週間のことを思い出してください。ひとことも他人の悪口を言わなかった、あるいはひとことも他人を断罪しなかった、または、全く人を見下してみることがなかったでしょうか? 言い換えれば、先週全く人を裁くことがなかったか? 人の良し悪しを言うことがなかったか?‥‥わたくしは、今日の御言葉に耳を傾けてみて、あたらめて悔い改めざるをえない思いでした。
 
    あなたが人を裁く基準で神の裁き
 
 そして続いてイエスさまは、なぜ人を裁いてはならないかということについて理由を述べておられます。それは極めて簡単な理由です。「あなたがたも裁かれないようにするためである」と。
 私たちが裁かれないようにするために、人を裁くなと。このことですが、これは誰から裁かれないようにするためなのでしょうか? 私たちが人を裁くと、私たちも人から裁かれるということを言っておられるのでしょうか? もしそうだとしたら、このイエスさまの言葉は、なにかイソップ寓話のような話しになってしまうでしょう。自分のしたことは自分に跳ね返ってくるとか、自分の発言がブーメランのように自分に返ってくるといったような、倫理道徳の教訓のような話しになってしまいます。
 しかしイエスさまは、この世を生きるための倫理道徳を語っておられるのではありません。「あなたがたも裁かれないようにするためである」というのは、誰から裁かれないようにするためであるかといえば、それは神さまから裁かれないようにするためです。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」これも、神さまから裁かれ、量られるということです。私たちが他人を裁く。それと同じ基準で、私たちも裁かれるということです。
 ジョン・ウェスレーは、このことについて次のように述べています。「おそるべきことば。神がきびしいか、あわれみ深くあるかは、いわば、私たちは自分で選ぶのだ。」
 私たちが他人にきびしく接すれば、神さまもまた私たちに厳しい態度で臨まれる。私たちが他人を断罪するならば、神さまもまた私たちを断罪なさる。たまったものではありません。神さまから裁かれ、断罪されたならば、私たちは身の置き所がありません。もはや喜びなどなくなってしまいます。平安がありません。
 
    自分の目に中にある丸太
 
 3節「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目に中にある丸太に気づかないのか。」
 おが屑は木を削った時の小さな屑です。それに対して、丸太は大きいものです。まあ、丸太と言ってもいろいろな大きさはあるでしょうけれども、このところは口語訳聖書の訳文では次のようになっています。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」
 「ちり」と言ったらそれはものすごく細かくて小さいものです。それに対して「梁」と言ったら、この礼拝堂ではコンクリートですが、天井の直線になっているコンクリートです。巨大です。こんなものが目に入るわけもありません。そうすると、「イエスさま、それは大げさ過ぎはしませんか?」とイエスさまに反論したくならないでしょうか。
 どう見ても丸太や梁が目に入るわけはない。これはどういうことでしょうか? それぐらいに言って、ちょうどいいんだということでしょうか? 「兄弟」というから、身近な人です。教会の兄弟姉妹も当てはまります。他人の過ちをただそうとするならば、まず自分の過ちに気づけ、ということを言う時、自分のほうが大きな過ちがあるということを言いたいために、これぐらい大げさに言ってちょうど良いということでしょうか?
 しかし、そうしますと、やはりそれはイソップ寓話のような話しになり、単なる倫理道徳の話しになってしまうように思います。それに、イエスさまは決して大げさなことをおっしゃる方ではありません。
 
    高ぶりという最大の罪
 
 では、もう一度、自分の目の中に丸太が入っている人とは、どんな人のことなのかを考えてみましょう。そうすると、それは先ほど述べましたように、人を裁く人のことです。自分が裁判官の席についていて、他の人は被告席にいる。自分のほうが高いところにいるんです。これを聖書では、高ぶりとか、高慢とか言います。
 そこで、私たち人間は、みな罪人であるということを思い出さなければなりません。私たちは、神さまから見たら、みな罪人です。ですからイエスさまが十字架にかかられたんです。それは罪人である私たちを救うためです。これはクリスチャンであれば、みなよく知っていることです。私たち罪人が救われるためには、神の赦しを受けるためには、イエスさまが十字架におかかりにならなければならなかった。イエスさまがご自分の命を十字架で投げ打たなければならなかったんです。私という人間を救うために。私たち一人一人を救うために。
 神の御子イエスさまが、ご自分の命を捨てて、私たちの罪の赦しを神さまにとりなしてくださったんです。それで私たちはゆるされた。ゆるされて神の子としていただいた。イエスさまの命と引き換えですから、どれほど大きい罪が私たちにあったことでしょうか。それをゆるしていただいたんですから、私たちはどんなに多くゆるされていることでしょうか。
 であるのにもかかわらず、私たちが人を裁いて見下す。それはイエスさまにとって、耐えがたいことであるに違いありません。それはイエスさまから見たら、あり得ないことでしょう。あり得ない。丸太や梁が目に入ることもあり得ない。だから、主の十字架の赦しを知っているあなたがたが、人を裁くということはあり得ない。そのように言われているのだと思います。
 
    他人の目にあるおがくずを取るには
 
 さて、ここで別の問題が浮かんできます。つまり、他人の過ちや罪をどうするのか、ということです。人を裁いてはならないのなら、他人の過ちや罪をどうするのか? 見て見ぬふりをして、放っておくのか?
 ここに私たちは、他人の過ちを指摘することの難しさを思い出すことができます。他人の過ちを正すのは難しいことです。下手をすれば喧嘩になります。また、相手からも「そういうあなたはどうなんだ!」と、逆襲を受けることでしょう。そうなると結局泥沼になって、なにも問題が解決しないということになります。
 イエスさまはどう言っておられるでしょうか? それが5節です。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」
 まず、自分の目から丸太を取り除けとおっしゃっるんです。それにはまず、自分の目に丸太が入っていることを知らなくてはなりません。相手の目の中には、おが屑だけれども、自分の目の中には丸太が入っていると。すなわち、自分を低くするということです。相手よりも低く下るんです。低くなったふりをするのではありません。本当に低くなるんです。つまりそれは言い換えれば、自分がひどい罪人であることを自覚すると言うことです。自分という人間が、救いがたい、ひどい罪人であると。しかしそんな私を救うために、感謝なことに、イエスさまが十字架にかかって命をなげうってくださった。それはもう感謝しかありません。
 イエスさまが、この罪人である私を救うために、いかに低くなられたかということは、次の御言葉が証ししています。
 (フィリピ2:7〜9)”キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。”
 神と等しい方であるキリスト・イエスさまが、自分を無にして人となられ、私たちを救うために十字架の死に至るまで従順であられたんです。キリストが低くなられた。だから私たちも低くならなければならない。
 そのように、自分を低くすることによって、キリストの十字架の恵みがはっきりと見えてきます。自分が罪人であることを深く認識することによって、キリストの十字架のありがたさが鮮明になってまいります。そのように自分を低くし、キリストによって自分の目の中にある高慢という丸太を取り除いていただくことによって、初めて相手の目の中の「おが屑」を取らせていただくことができる。「取ってやる」のではありません。「取らせていただく」のです。
 こう語りつつ、わたくしはなにか偉そうに言っているのではなく、身につまされる思いです。
 
    豚に真珠
 
 さて、最後の6節は何だろう?と思われる方も多いのではないでしょうか。この言葉は「豚に真珠」ということわざになっています。今、まず自分自らが低くへりくだりなさいと教えられたばかりではないのか? なのに、「豚に真珠」とはまたずいぶん高慢な話しではないか?‥‥そのように感じられるかもしれません。
 「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
 神聖なものとは神さまに関することです。また、真珠とは、イエスさまの福音のことを指していると言って良いでしょう。そうすると、神さまの恵みやイエスさまの福音を、軽々しく人に与えてはならない。価値が分からないから。と解釈しますと、今度はずいぶん自分たちが高慢になったように思われる。つい今、低くへりくだることを語られながら、今度は一転して高い所からものを見ているように感じられる。‥‥そのように思われるかもしれません。
 わたくしも、以前はそのように受け取っていました。私たちクリスチャンが、豚に真珠を投げてやるなということだと。しかしそれは、はなはだしい勘違いでした。まだまだ自分が低くなっていなかったんですね。豚とは、キリストの恵みを知らない他人のことではなかったんです。自分のことだったと気がついたのです。しかし豚とは、あんまりでしょうか。あんまりひどいと思うということは、まだ自分が低くなっていないということです。
 私も、かつて一度キリストを捨てたものであることを思い起こします。まさに自分が真珠という尊いキリストの福音を全く理解しないどころか、逆に「神などいない」と言って平然としていた自分。豚に真珠であります。しかしそんな私を救うために、キリストはその私よりも低くへりくだって十字架についてくださった。この恵みがさらに輝いて見えてきます。まさに私たちの誇りは、このキリストです。
 今日の御言葉は、そのように自分を認識した時に、尊い御言葉として聞こえてまいります。水は低い所に流れます。神の恵みも同じです。


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