2019年5月12日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記16章21〜22節
    マタイによる福音書6章31〜34節
●説教 「今日を生きる源泉」

 
    思い悩むな
 
 今日イエスさまは、「明日のことまで思い悩むな」とおっしゃっています。これは、毎日の生活の中で、さまざまなことを思い煩っている私たちに、そこから解放される言葉です。
 前回の所をちょっと振り返りますと、25節で、イエスさまは「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」とおっしゃいました。当時の庶民のほとんどは、貧しい生活をしていました。かつての日本の多くの国民が貧しい生活を送っていたのと同じです。ですから、時には、明日食べるものがない、明日着ていく服がないという状況に追い込まれることがありました。生きていくことができるのか、というような差し迫った状況です。イエスさまは、そのような状況を念頭におっしゃっられたのです。そのような差し迫ったような状況に置かれたら、誰だって心配で心配で、思い悩まない人なんかいないでしょう。ところがイエスさまは、「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と、おっしゃったんです。
 そして「空の鳥をよく見なさい」とおっしゃいました。鳥はちゃんと生きている。そのことについてイエスさまは、あなたがたの天の父、すなわち神さまが鳥を養っていてくださるのだとおっしゃいました。これはたいへんな驚きでした。私たちは、鳥は勝手に生きているんだと思っていなかったでしょうか? ところがそうではないという。鳥は神さまが養ってくださっていると言うんです。目からウロコが落ちたように思いました。このことによって、私たちは視点が変えられるように思います。神さまは、鳥を養ってくださっている。野の花を装ってくださっている。
 「あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」。イエスさまは、私たちが鳥よりも価値があると認めてくださっている。だから、天の父なる神さまがあなたがを、つまり私たちを養ってくださらないはずがない。そう教えられたのであります。だから思い悩むなと。
 
    神を二の次にするか
 
 その前の24節では、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とおっしゃいました。神か、お金か、どちらかが優先されると言うことです。たとえば、生きること、食べることで精いっぱいで、そちらのことが心配で、神さまを礼拝している場合ではない。そのように思われるわけです。「生活が落ち着いたら神さまを信じて礼拝しよう」‥‥。そんなふうに考える人が多いかもしれません。
 しかしイエスさまは、それでは「異邦人」と同じ、つまり神を信じない人々と同じだとおっしゃいます。生活が落ち着いたら神を礼拝しよう、あるいは明日のことが心配なくなったら神さまを礼拝しよう‥‥それは逆だとおっしゃっているわけです。まず神の国と神の義を求めなさいと。そうすれば、あなたが生きて行くために必要なものはみな加えて与えられると、そのように言われます。
 
    明日のことは明日自らが思い悩む
 
 34節をもう一度見てみましょう。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
 私たちの時代は、イエスさまの時代と違って、生産性が上がり、明日食べるものがないと言って心配する人は少なくなったかもしれません。あるいは、福祉が発達して、ギリギリでも食べていけるということになったかもしれません。しかし、だからといって、思い悩むことがなくなったわけではありません。それどころか、思い悩むことが増えたかもしれません。仕事のこと、学校のこと、職場や学校での人間関係のこと、近所での人間関係のこと、家族の中の問題、病気のこと、老後のこと‥‥心配に思うことは山のようにあります。中にはたいへんなストレスを受けて、健康を害する人もいます。
 そういうことを思って、あらためてイエスさまのこの34節の言葉を読むと、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と言われている。何かこのみことばを聞いていますと、「明日のことは明日自らが思い悩む」なんて、他人事のように聞こえてきます。明日自らが思い悩む。わたしが思い悩むんじゃなくて、明日という日が思い悩む。私の代わりに明日が思い悩んでくれる。何かちょっと楽になったように感じます。そして、「その日の苦労は、その日だけで十分である」と言ってくださる。これは、その日その日を区切りにして生きよ、ということのように思われます。
 
    デール・カーネギー
 
 デール・カーネギーという人がいました。『道は開ける』という本を書いた人です。この本はアメリカで1948年に出版されましたが、日本ではすでに約200万冊が売れ、今も売れ続けているという超ロングセラーです。とくにビジネスマンに売れてきたようです。私も大学を卒業して入社した会社で、人事室長がこの本を読みなさいと言って、新入社員に推薦していたことを思い出します。
 このデール・カーネギーの『道は開ける』(香山晶訳、創元社刊)の最初の章は、「今日、一日の区切りで生きよ」となっています。
 
 そして最初に、サー・ウィリアム・オスラーという英国の医師の例をとりあげています。彼は、モントリオール総合病院の医学生だった時、卒業試験のことで思い悩み、診療科目に何を選ぶべきか、卒業したらどこへ行ったら良いか、どうやって開業しようか、生活はどうしようかと、頭を抱えていたそうです。しかし彼は後に、英国で最も有名な医師となりました。ジョン・ホプキンズ医科大学を創立し、国王からナイトの称号を与えられました。
 彼の成功の鍵は何だったか? それは彼の言葉によれば「一日の区切りで」生きることを知ったためなのだそうです。‥‥オスラーはある時、エール大学で講演しました。その前に、豪華客船で大西洋を渡りました。その船のブリッジに立った船長が、「急転」と言いながらボタンを押しました。すると機械のガラガラという音がして、船は各区画ごとに閉ざされてゆき、水が入り込めないように区切られてしまいました。そのことを例に挙げて、オスラーは「一日の区切りで」生きることを学生たちに教えました。
 「船のブリッジに立って、大きな防水壁が作動している状態を見てください。ボタンを押してみなさい。そうすれば、諸君の生活のあらゆる部分で鉄の扉が過去を閉め出してゆく音が聞こえるでしょう。またもう一つのボタンを押して鉄のカーテンを動かし、未来−−まだ生まれていない明日−−を閉め出すのです。そうしてこそ、諸君は今日一日安泰です。過去と縁を切ることです。‥‥(中略)‥‥昨日の重荷に加えて、明日の重荷まで今日のうちに背負うとしたら、どんな強い人でもつまずいてしまうことでしょう。過去と同様、未来もきっぱりと閉め出しなさい。未来とは今日のことです。‥‥明日など存在しないのです。‥‥人が救われるのは今日という日なのです。」そう話したそうです。
 オスラー博士が訴えたのは、明日の準備をする必要がないということではありません。明日の準備をする最良の手段は、諸君の全知全能を傾け、あらゆる情熱を注ぎ、今日の仕事を今日中に仕上げることであると説いたのです。オスラー博士は、学生たちに向かって、一日の始めりに「私たちの日ごとの食物を今日もお与えください」という主の祈りを唱えるように勧めています。
 
 たしかに私たちは、この礼拝で少し前に、「主の祈り」を学びました。その第4番目の祈り願いの言葉は、「私たちに必要な糧を今日与えてください」でした。イエスさまは、明日の糧を求めよとはおっしゃいませんでした。今日の糧を父なる神に求めるよう、おっしゃいました。その実践と言って良いでしょう。
 カーネギーは本の中でこう述べています。‥‥「いずれにしても、明日のことは配慮すべきである。細心の注意を払って計画し準備すべきである。だが心配するには及ばない。」
 
 もうひとつ、カーネギーの『道は開ける』からご紹介しましょう。それは、アメリカのミシガン州に住んでいたシールズ夫人という人のことです。彼女は、1937年に夫を亡くしました。気は滅入り、しかも一文無し同然でした。やがてお金を工面して、中古車を手に入れ、本の販売を始めました。外へ出かければ少しは気が紛れるだろうと思ったのです。しかし一人で車を走らせ、一人で食事をするのは耐えがたいことでした。また、あまり儲からず、わずかの額に過ぎない車のローンにも苦労する有様だったそうです。寂しさと落胆のために自殺を考えたこともありました。生きがいなどない。毎朝、目覚めることも、人生に向かい合うことも恐ろしく、あらゆることを気に病んでいました。車のローンが払えなくなるのでは‥‥家賃の支払いはどうしよう‥‥食事代がなくなるのでは‥‥病気になるのではないか‥‥医者にかかる費用もない。そういう心配でいっぱいでした。
 しかしある日、ふと読んだ文章によって、失意の底から起ち上がり、生きていく勇気が与えられた。その言葉は「賢者には毎日が新しい人生である」というものでした。彼女は、この言葉を自分の車の窓ガラスに貼り付けました。‥‥”私には一日だけを精一杯に生きるのなら、大して苦にならないということが分かりました。昨日のことを忘れられるようになり、明日のことを気にかけなくなりました。毎朝、私は「今日は新しい人生だ」と自分に言い聞かせたのです。”
 こうして、彼女は不安や恐怖を克服することができました。暮らしも豊かになりました。”「一日だけを精一杯に生きること」そして「賢者には毎日が新しい人生である」ことを十分に承知しています。”‥‥と述べています。
 
    まず神の国と神の義を
 
 今日を区切りに生きる。明日のことまで思い悩まなくて良い。そのようにできるのは、やはりイエスさまの今日の御言葉があるからこそでしょう。すなわち、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
 神の国という言葉は、ギリシャ語では神の支配とか、王権という意味もあります。単に死んでから後に行く場所ということではありません。この世においても、神の支配、神の王権が及ぶ。そしてその神の国は、イエス・キリストと共にこの世において現れる信仰の王国です。また神の義とは、突き詰めて言えばイエス・キリストのことです。ですから、神の国と神の義を求めるということは、キリストと共に生きるということであり、神の喜ばれることを求めて生きるということだと言えるでしょう。
 そうしますと、ちょうどこれは主の祈りと重なってきます。主の祈りの中の最初の三つの祈り願いは、父なる神さまのための祈り願いでした。自分のことよりも先に、それをまず祈る。そのことによって、自分自身の祈り願いも安心して祈ることができる。そのことを思い出します。
 私たちは、いろいろと思い悩むことがあるからこそ、まず神の国と神の義を求める。神さまを礼拝する。そのことによって、今日一日の区切りで生きることができます。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とおっしゃってくださるイエスさまがいてくださるからです。
 きょうの旧約聖書は出エジプト記16章21節〜22節を読んでいただきました。モーセに率いられ、主の大きな奇跡によってエジプトを出て行くことができたイスラエルの民。エジプト軍に追い詰められたイスラエルの民が、主が二つに分けてくださった海の底を歩いて対岸に渡っていくことができたのはご存じの通りです。しかしその対岸は、シナイ半島。荒れ野でした。食べるものがありません。人々はたちまち不安になりました。エジプトを出てきたことを後悔し、モーセを非難さえいたしました。
 しかし主はモーセにおっしゃいました。「見よ、私はあなたたちのために、天からパンを降らせる。」(出エジプト16:4)
 そして人々が朝起きると、毎朝、マナというふしぎな食べ物が地面の上に広がっていました。人々はそれを集めて調理して食べて、荒れ野の中を進んでいくことができました。ただしそのマナは、一週間のうちの安息日には地面の上にありませんでした。安息日は仕事を休んで主を礼拝する日であったからです。その代わりに、安息日の前の日には、2倍の量のマナが地面の上に降っていました。つまり、安息日に主を礼拝して仕事を休むことができるように、安息日の分まで降っていたわけです。こうして主は、心配しなくても主を礼拝することができることを教えてくださいました。
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」このイエスさまの言葉を覚えたいと思います。


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